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1―少年の目覚め

少年は、柔らかい寝台の上で目覚めた。


白い天井に白い壁といった、いかにも病室然とした個室には、他に人の姿は無い。

奇妙なことに、彼に死の運命を確信させた腹部の傷は、跡形もない。

それどころか、身体中にあったはずの他の細かな傷や打撲まで消えている。

その上、誰かが身を清めてくれたのか、全身が清潔で汚れが取り除かれていた。

服も楽なものに着替えさせられている。


「っ――」


誰だか知らない誰かに身体の世話をされたのかと思うと、胸の中心あたりに若者らしい羞恥がわだかまった。

彼は咄嗟に手のひらで焦げ茶色の瞳と頬を覆って、他に人がいないことも忘れて赤らむ顔を隠そうとした。


すぐにその仕草の馬鹿馬鹿しさに気づいて手を放し、視線を巡らせる。

寝台の脇に置かれた机の上にはガラスの水差しがあり、透明な水が満ちて窓から差し込む光を屈折させていた。

傍に、よく磨かれた空のコップが添えられている。

部屋の隅に置かれた細長い台の上で、一輪挿しから首を出した淡い桃色の花が、こちらに向けて微笑むように花弁を開いている。静かで、安寧とした光景だった。


おかしなことだ。何故こんなところにいるのか。

彼は軍人として祖国のために戦い、初陣で致命傷を負った。名誉の戦死を遂げるはずだったのである。

彼は覚えている。あの女に命を留められたのだ。

余計なことを――と彼は憎々しく思った。


軍では、敵の手に落ちたなら自ら命を絶つようにと教えられた。

武人の誇りを守るためだ。

あの女は名誉を妨げ、誇りを穢したのだ。

そう思った時、かつて覚えたことのない強烈な憎しみが腹の底から湧き上がって来た。

あの女、あの女が――。


あの時、うっすらと覚醒していく意識の中で見たものを、彼は思い起こす。

白い肌、黒い髪、青い瞳、この世のものとは思えぬほど美しい面差し。

女神か、あるいは天女か――そう、朧げに考えた浅はかな意識が、やがて理解した。

悪魔だ。この女は紛れもない悪魔だ。

瞬間的に研ぎ澄まされた感覚で、魔性のものの気配を悟った。だから刃を向けたのだ。


その女を、その光景を切り捨てたかった。無性にかき消したかった。

悪魔に魅入られるなど、あってはならぬことだ。彼の誇りが声にならない声で叫んでいた。

相手を仕留められると思ったわけではない。

それでも無我夢中で、残る力の全てを振り絞って腰の小刀を、その女目掛けて振り抜いた。


止められてしまった。

女が何かを言った。

そこで意識が途切れている。


あの女の腕に揺られてここまで運ばれてきたかと思うと、身体中を形容しがたいむず痒さが走った。

彼は念じるようにあの女を憎んだ。

悪魔に生かされているなど、あってはならない。

それは己の生を辱められているに等しい。


彼の国と悪魔の国との間では、二千年以上に渡って戦争が続いていると聞いている。

悪魔は、卑怯にもその悪しき魔力で武人の戦を冒涜し蹂躙し、幾多の同胞を惨殺した、憎き仇敵なのである。

その悪魔が人間を救うなどありえない。

彼は玩具の様に生死を弄ばれているに違いないのだ。


そもそも、彼の軍は人間の国同士で戦っていたのだ。

何故、悪魔が彼の生死に介入して来なければならないのか。

こんな状況は全くもってふざけている。

彼が悪魔などに誇りを貶められなければならない理由は、何も無いはずだ。


すぐにでも命を絶ちたい。

彼は部屋中、自分を殺す凶器になりうるものを探した。

刃物は無い。椅子や台なら鈍器になりうるかもしれないが、自分自身に致命傷を与えるには扱いづらい。

カーテンを開くが窓には鉄格子、その上一階では飛び降りるという選択肢もない。

窓ガラスは頑丈そうで割って使うこともできそうにない。

水差しを割れば、その破片の刃で頸動脈を切ることができるだろうか。

自分の首から血が噴き出してこの部屋を赤く染める情景を想像し、少年は水差しに手を伸ばし、床に叩きつけて割ろうとした――が。手が止まる。


渇きがあった。空腹も思い出した。

誇りのために今死なんとしているのに、身体は生きたいと訴えていた。

水差しの中の水を見つめる。どこまでも透き通ったそれは、だが悪魔が彼に与えようとしているおぞましいものなのだ。

そんなものを取り込んでは、きっと悪魔に魂を穢される。

なのに、口にしてはならないと思えば思うほど、喉がカラカラに干からびていく気さえする。


負けてたまるか、と彼は強く思った。

悪魔の誘惑などに負けてたまるか。

初陣であったとはいえ、彼は祖国の皇帝が従える軍の一員として、誇り高く戦った。

不名誉な生より名誉ある死を選ぶ。


思い切って水差しを床に叩きつける。

水とガラスが飛び散り、いくつかの破片が彼の皮膚を飛び散りざまに浅く裂いて傷つけた。

だがそんな細かな傷は、彼の興味を引くものではない。

水差しの残骸の中から、彼は先の鋭く尖った比較的大きな破片を選び取った。


「何をしている。水差しひとつとはいえ、ガラス職人が丹精を込めて作ったものを壊して、悪いとは思わぬのか?」


不意に、少年の他に誰もいなかったはずの部屋に、凛と気高い声が響いた。

彼にとって腹立たしいことに、それは少年の国の言葉だった。


あの女が目の前にいた。どこから現れたのか、少年には理解できない。

浮世離れした美しさが、彼にはおぞましかった。その青い瞳に見つめられると、容易には動けなくなる。

彼は睨みつけることさえ忘れて、動きを止めてしまった。きっとこの青には、それだけの邪悪な魔力があるのだろう。


白い指がたおやかに、ガラス片を持った少年の右手に伸びてくる。

はっとして彼が身を引こうとした時には遅く、もうその凶器を取り上げられていた。


「物も命も、そう粗末にするものではない」


女のふっくらとした薄紅色の唇がすぼめられる様に、つい目を奪われた。

フッと、ガラス片に女が息を吹きかけると、煙の様な青い光がその息に宿っており、他の破片もろとも水差しだったものの全てが、部屋の中から跡形もなく消えていた。

次に女は、床にこぼれた水に向けて片手を差し出し、青い光を宿す。するとその水も、幻の様に霧散した。


「次はお前の番だ」


消されるというのなら、生かされるよりずっといい。

それでも、悪魔に殺されるよりは名誉ある死に方があったはずだった。


委ねるべきか、逃げるべきか。

そんなこと、決まっている。

悪魔の手のひらの上で冒涜されるべき命も誇りも持ち合わせていない。

逃げるべきだ。例えそれが叶わなくても、抵抗の限りを尽くすべきだ。


――そうした思案が少年の動きを止めている間に、女は既に音もなく間近に迫っていた。


「傷を治してやろう」


白い指が滑らかに柔らかく、少年の二の腕の皮膚をなぞる。

肌が泡立つような感覚と共に、指先に宿る青白い光がそこにあった裂け傷を塞いだ。

それが恐怖か嫌悪か、はたまた全く別種の感情なのか、最早彼には判断がつかなかった。

ただひたすらに、拒絶しなければならないと強く思った。


身体を強張らせて、じりじりと後退する。


「治してやろうというのに」


一定の温度を保つ女の声もまた、その容姿同様に浮世離れして感じられる。

惑わされてはならない。忌避すべき魔性の声だ。

後退するごとに女が音もなく歩を進め、また近づいてくる。


その時ふと、漆黒のドレスの腰に、金の柄が光っているのが見えた。短剣だ。

少年は一歩踏み込み、女が身に着けていたその短剣を引き抜いて、女に向かって突き立てた。


だが、正面から手のひらで受け止められた。


「生きる気力もないくせに、元気のいいことだ」


短剣は確かに女の白い手のひらの中央を貫き、鮮血が女の腕を伝って床にボトボトと流れ落ちた。

なのに女は表情一つ動かさない。


女は刺さった刃をそのまま握り込み、傷口が広がるのも構わず少年からその凶器を取り上げた。

そして反対の手で手のひらから短剣を抜き取りながら、血まみれの傷口に青白い光を満たす。

鮮血は止まり、傷が塞がった。


ポケットから純白のハンカチを取り出し、食事の際に付いてしまったソースでも拭き取るかのような所作で、女は短剣と手指の血を上品に拭った。

そしてついでのように腕を拭うと、平然と短剣を腰に納めなおす。


「そんなものでは私を殺せぬと、何度言わせるつもりだ」


飢えと渇きのせいか、それともこの異様な光景のせいか。

くらくらと眩暈がして、少年の視界が霞む。徐々に身体に力が入らなくなっていき、立っていられず膝をついた。

気づかぬ間に、随分と疲弊していたようだ。


「何だ、虫の息ではないか。自分の身体くらい大切にしてやらずにどうする」


うるさい、と思った。悪魔の声がうるさい。

しかしもう、彼は満足に動けなかった。体力が尽きそうだ。


憎らしいほど優雅に近づいてくる美しい悪魔を、少年は止める術を持たない。

白い腕が軽々と、少年の身体を横抱きにする。屈辱に身を捩ろうとしたが、上手くいかなかった。

寝台の上に降ろされ、忌々しげに青い瞳を見上げた。


「お前は、綺麗な目をしている」


うるさい。

最後の抵抗のように、心の中でそう思うことしか、彼にはもうできなかった。

身体に力が入らない。

白い指が傷を治すために肌の上を這っていくのも、それに縋りたくなるような抗いがたい見知らぬ感覚が湧き上がるのも、彼には止められなかった。


遠く近く、視界が混濁していく。

意識すまいとするほどに、女の指の感触だけが浮き上がって感じられた。

言葉にならない悪態を念じながら瞼を閉じ、彼は再び意識を手放した。


そして、傷を治し終えた白い指が、焦げ茶色の髪を慈しむ様にそっと撫でたことには、気づく機会を失った。

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