17―いじわるな幻
半壊した廃城の浮かぶ黒い空間。
そこには今、栗色の長い巻き毛の可憐な少女と、もう一人男の姿がある。
「エファ様、何故逃しておしまいになったのです?」
細身の長身、血に塗れた様な真っ赤な髪、蛇の様な細長い眼窩から覗くのは、白い瞳。
「ヴィンフリートよ。あの女は厄介だ」
漆黒の正装に身を包むその男――ヴィンフリートは、少女の前に跪いている。
「精霊のあなた様にすら、ですか?」
至極不機嫌そうに、少女は腕を組んで歩き回る。
「背後に何か隠しておる。わらわには見える。あれを解放されれば、今のわらわではせいぜい互角」
「そんな、まさか」
ピシリ、ピシリと、当てつけのように、無意味に少女は空間を裂く。
「目的は命の奪い合いではないのだ。あの女を握りつぶせば良いという話なら、負けはせんがな」
ピシリと、男のすぐ脇で空間が裂け、びくりと一瞬彼の身体が震えた。
「わらわとて半身しか動かせぬ身。その上まだ器に馴染んでおらぬ。あの女を良く造りすぎたのではないか?」
深い青の瞳が、ぎろりと男を睨めつける。
「直接わたくしが造ったわけではございません故」
その真意を探ろうと、少女は男の上から視線を動かさない。
「手違いと申すか」
男の伏せられた顔からは、表情が読み取れない。
「時を待てば良い。女という生き物に隙ができるのは、愚かな幻想に溺れ切ったときだと、わらわは身をもって知っておる」
忌々し気に、少女は遠くを見据える。
その瞳の先にあるのは、遠い過去の日の忘れ得ぬ面影である。
「何、奪うことさえできれば、却って都合がいい。あれをそのまま身代わりにもできよう」
ばきりと、廃城の柱の一本が折れた。
男はそれにより、少女の苛立ちを悟る。
「待つ間、わらわは偵察でもしておる。お前は勝手にしておるがよい」
その言葉を聞き届けると同時に、男は黒い空間の外へ放り出されていた。
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「はあ」
それは、国家の一大事に蚊帳の外に置かれた、アルテンブルク王国宰相の溜め息だった。
彼女は昼食後に余った休憩時間を、王宮の庭を散歩して過ごしている。
黒いレースの日傘を回しながら、物憂げに花壇の傍を歩き回っていた。
「わかってるわよ。私はただの事務処理係だって」
彼女、ハイデマリー・ローザリンデ・キルヒナー侯爵令嬢は、半月型の下縁眼鏡がよく似合う、知性的な大人の女性だ。
赤銅色の豊かな髪は肩の下までふんわりと伸び、眼鏡の奥から覗く瞳は明るい若葉色。
切れ長の大きな目の目尻は吊り気味で、いわゆる猫目である。
日焼けを気にして手入れを欠かさない肌は、本人が気にするほどにはシミも皺もなく、充分に白くて弾力がある。
キルヒナー侯爵家の令嬢として生まれ育った彼女は、宰相の地位を得るときに独立した爵位を賜る話もあったのだが、未婚を強調したいがために侯爵令嬢の身分に留まっているという噂である。
侯爵家の令嬢ともあれば縁談の類は引く手数多だったのだが、若さに任せて選り好みして相手を選ばないままに、気づけば世間の言う結婚適齢期は過ぎ去りかけていた。
「陛下はいっつも勝手に好きな人を集めて、全部非公式で話を進めちゃうのよ。それなのに事後報告だけしっかりして、面倒な処理は全部私に丸投げ」
くるくると日傘を弄びながら、一歩一歩と足先を前に投げ出す。レースをふんだんにあしらった長袖のブラウスに、足首まで隠れる丈の藍染のロングスカート。
手には薄手の手袋まで嵌めて、日焼け対策はばっちりである。
「でも、そのほうが上手くいくってことは、わかってるのよね」
うっすらと紅を引いた唇に、投げやりな笑みが浮かぶ。
「私にはあんな才能は無い。こーんなはっきりした親政で、陛下の好き放題やるんだから、宰相なんて置かなきゃいいのに」
才能が無いと嘆く彼女には、女王の横暴で決まったことの体裁を上手く整えるという、類稀な才能があった。
現に、精霊から干渉を受けたことを伏せたまま王国全土で警備強化することに関し、警備隊と国民への納得する説明を用意してほしいという女王の無茶振りも、彼女の手腕でなんとかした。
エルフリーデとしては、彼女のこういった完璧なバックアップを見込んで、安心して背中を任せているのであるが、そのあたりがハイデマリーには伝わっていないようだ。
「あーあ、何のために生きてるのかしら。無駄に歳ばっかり食っちゃって」
百五十歳を目前にした彼女は、ひたすらに年齢を気にしていた。
一生懸命若作りすることに、勤務時間以外のほとんどを費やしている。しかし政府高官で上級貴族の彼女は、社交界から足が遠のいて以来、その姿そのものを殿方に見せる機会が少ない。
いくら自分を手入れしても、無駄な努力ではなかろうか、などと思う日もある。
「嫌になっちゃうわ。傷の治りなんかも遅くなって。少し気を抜いてできちゃったシミだって、もう消えないのよ」
そんな彼女は、決して女性としての魅力を失っているわけではない。
愛らしさと知性を併せ持つ顔立ちは、社交界で憧れの的だった少女時代の面影を充分に残し、成熟した大人の気品を漂わせている。
本人が劣等感を抱いている細身とは言えない身体つきにしても、むっちりと柔らかそうだとこっそり目を奪われていたりする下働きの男たちも多いのだ。
衰えたと嘆くのは本人ばかりなのだが、指摘してやる男性が周囲にいないのも、なんとも悲しい現実である。
彼女が足を止めたのは、今は穏やかに揺蕩うだけの、水の上がらない噴水の前。
その水面を覗き込んで、ハイデマリーはそこに映る自身の顔を見つめた。
「我が身世にふる、眺めせし間に――」
異国の歌人の言葉を借りながら、室内で淡々と事務仕事をこなすだけに費やした年月を思う。
「あら?何かしら?」
水面に映る自分の顔の隣に、可憐な少女の顔が揺れている。
周囲には誰の気配もない。
ならばそれは、ハイデマリーの老いに対する焦りが見せた幻か。
あどけなさを留めた若々しい愛らしさ、首肩周りの華奢なラインが、ハイデマリーの劣等感を刺激して、無性に怒りを煽った。
「消えなさい、いじわるな幻!」
日傘の先で水面を掻き回し、ハイデマリーは少女の影を追い払う。
かき混ぜられた波がおさまり、水面が再び穏やかに揺蕩う頃には、もう少女の影は見当たらなかった。
その頃、王宮の下働きの間で、少女の幽霊が出るという噂が出回っていた。
しかし、そんなありふれていそうな幽霊話は、常識派なら誰も信じようとしない。
下らない流行だと切り捨てた彼らの上司は、不要の混乱を招かないようにと、その話を王宮内ですることそのものを禁じた。
ひそひそと、水面下で飛び交う目撃談は絶えないというのに。
その話が女王の耳に入るまでには、まだたっぷりと時間を要することになる。
魔族の百五十歳は、人間でいう三十歳くらいという設定です。




