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夢のあとに

村祭りの当日、ヨハネスは、親が出店する金魚すくい屋の手伝いをすることになっていた。

その時、四十五歳――人間でいう九歳――の彼は、まだまだ遊びたい盛りで、そのことが不満だった。


だいたい、金魚すくいなんて何が面白いのか、ヨハネスにはわからない。

たいていの客がポイの扱いを心得ておらず、水の中でただ紙を破いて帰って行く。

一匹、二匹と掬い取った幸運な客はそれを持ち帰る時、喜ぶよりも、僅かに扱いに困ったような表情をする。

たまに訪れる達人は、ほとんど機械的な作業のように、ひょいひょいと金魚を掬い上げるのだが、大して嬉しそうにもせずに、金魚を返して店を立ち去る。


命を弄ぶだけの作業。

それが気に入らなかった。

金魚たちが、水の中でぱくぱくと必死に呼吸をしている。

エラ呼吸というものを知らなかった子供のヨハネスは、この小さな生き物たちも、自分と同じように口から肺に酸素を取り込んでいるものと思っていた。

その姿をじっと見ては憐れんで、ポイを渡してお金をもらうことにうんざりしていた。


「おーい、ヨハネス」


大きな小声と称したくなる、絶妙に間抜けな声がする。

内緒話をするように掠れた声色を使っているのに、きちんと耳に届く音量でかけられたその声は、良く知っている少女のものだ。


「なんだ」


声のするほうを振り返って近づいていけば、案の定、屋台の陰から覗くようにする、見知った少女の姿がある。

肩より下くらいまで伸びた白銀の髪を、左右に分けて結んでいる。


「抜け出さないか」


ばりちと片目を閉じて、悪戯っぽく白い歯を見せて笑う彼女は、ヨハネスの幼馴染である。

琥珀色の瞳を、期待にきらきらと輝かせている、彼女の名はミリヤム。


「お前、そっちの店は?」

「つまんないんだよ、輪投げ屋なんて。食べられないし」


ぷうっと片頬を膨らまし、幼い顔に不満を浮かべる少女を、愛らしいと思ってしまう。

口には出さないが、こんなふうに感じれば、ヨハネスはもうこの少女の言いなりになりたくなるのだった。


「いいぞ。こっちもつまらないと思ってたとこだし」


途端に表情を晴らして眩しく笑う少女の手を引いて、ヨハネスは兄たちに見つからないうちにと走り出した。

柔らかい愛らしい手を繋いでいれば、手のひらに汗が滲んでくる。

不快にさせていないかと不安になって横顔を見ると、あどけない微笑みがヨハネスに向けられる。


「なあなあ、どこ行く? 綿菓子屋か? たい焼きもいいな?」


人ごみの中を掻き分けて走りながら、琥珀色の瞳は左右の店に夢見るような視線を次々に移す。

そんな目をされれば、願いを叶えてやりたいとヨハネスは思うのだが、生憎資金が足りない。


「お前、小遣い持ってるのかよ」

「……無い」


しゅんと肩を落としたミリヤムを見ると、ヨハネスの小さな胸が痛む。


「俺はちょっとだけあるから、お前使っていいぞ」

「ほんとか!?」


嬉しそうに笑う少女は、日の沈み切った夜の屋台に囲まれて、そこに存在するはずのない太陽のようだった。

だからヨハネスは、なけなしの小遣いを全部ミリヤムに渡してしまう。


「ヨハネス、大好き!」


無邪気に破顔して飛び跳ねるミリヤムは、こんなことを言われたヨハネスの心臓がどんなに騒いでいるのか気づいていない。

赤くなった頬を隠したくて、興味も無い屋台に興味があるようなふりをして、顔を背ける。


「ちゃんとそれで足りるだけにしろよ? お前は食い意地が張ってるからな」

「わかってるって!」


元気のいい返事と共に、繋いだ手がぐいぐいと引っ張られる。

その方向へついて行きながら、琥珀色の瞳がもうたい焼き屋しか捉えていないことに気づき、先程顔を背けたのは全く無駄なことだったと、ヨハネスは馬鹿らしくなる。


「おじさん! それ一個!」

「はいよ」


たい焼きひとつで、なけなしの小遣いは飛んで行った。

けれどもミリヤムが嬉しそうなので、ヨハネスは満足だった。


「あっちに座って食べようぜ!」


手を引かれるままに、喧騒から遠ざかる。

何もかもこの少女の言いなりだ。

示された芝生の上に、黙って腰を下ろした。


「暗いな。落とすなよ?」

「わかってるわかってる!」


隣に座ったミリヤムと、肩が触れる。

妙にどきどきと鼓動がうるさかった。


「半分こしようぜ!」


そう言って、ミリヤムがたい焼きを割る。


「……それが半分か?」

三分(さんぶん)こ」


どう見ても片方が大きい。

けれど、“三分こ”で充分に、ヨハネスは嬉しかった。

この少女と同じものを分け合って食べていると思うと、気恥ずかしいような、むず痒いような感覚がして、たい焼きが余計に甘くなる。


「お前、ついてるぞ」


餡がついた少女の頬を指で拭って、それを自分の口へ運んで、ぺろりと食べてやった。


「あー、取ったな!」

「もともとお前のほうが多いだろうが」


ついていると言ってやるだけでいいのに、拭って自分が食べたことで、何だか悪いことをした気分になった。

それは少女の分を奪い取ったからというよりも、よくわからない欲望に従ってそんな行動に出たからだった。

背徳感という言葉を、彼はまだ知らない。


「食べ方が汚いんだよ。そんなんじゃ、嫁のもらい手がないぞ?」


暗いような興奮するような妙な感情を隠したくて、ヨハネスは意地悪を言う。


「まあ、その時は――」

「あたしが嫁をもらうから、問題ない!」


俺がお前を嫁にもらってやる、と、言おうとしたのに。

ニカッと歯を剥き出して満面の笑みを浮かべた少女の、白い歯に僅かに餡がついている。

さすがにそれを取って食べてはいけないな、などと思いつつ。

少ししか食べていないたい焼きの餡が胃に凭れたような気がして、嘆息した。


「あ、花火!」


ミリヤムが目ざとく見つけた、光の尾。

それは空で満開の花となって開き、大きな音を発てた。


「たーまやー!」


叫ぶ少女の白銀の髪は、花火の色を照り返している。

次々に上がっていく花火を見て、ミリヤムはきゃっきゃと子供らしく喜んだ。


「転ぶなよ」

「わかってる、わかって――」


振り返ったミリヤムが躓いて、そのつま先が一瞬宙に跳ね上がるのが、スローモーションのように見えた。


「っ――!!」


受け止めてやったつもりが、下敷きになった。


「ってぇ……」

「悪ぃ、悪ぃ! 怪我したか?」


心配して覗き込んでくる琥珀色の瞳の背景に、色とりどりの花火が咲く。

圧し掛かる体重が心地良くて、答えないままにしばらく少女を見上げていた。





見慣れた天井が視界に映る。

夢を見ていた。

遠い日の夢を。


三分こでいいから欲しかったという、大人らしく汚れた発想を掻き消す。


あいつは宣言通り嫁をもらったんだなと、自嘲気味に笑う。


金魚すくいは嫌いだ。

輪投げも、たい焼きも。


胸が凭れるほどに、淀んで粘着質な、餡のような感情がヨハネスの中にある。

この甘みが重くて、拭いきれないくらいにしっとりと、ヨハネスを苛む。


綺麗さっぱり忘れてしまうには、大切過ぎて。

抱え続けるには、苦しすぎる。

想い出として割り切るには、必要な何かが足りなかった。


ぱくぱくと必死に口を動かす、あの金魚たちのように。

ヨハネスは逃げ場のない水槽の中で、無いはずの出口を探しているようだった。

掬い上げてくれる誰かを待っても、きっと無駄だろう。

そんなふうに手に入れたものを人は喜ばず、結局置いていくか、連れて帰っても扱いに困るのだ。


あの時、俺が嫁にもらってやると、言うことができていたら。

何かが違っていたのだろうか。


村から出て行く彼女を、引き留めていたら。

自分も一緒に、出て行っていたら。

同じ職場を選んでいたら。

それとも、あのままぐるりと回って、花火を背にして、唇を奪っていたら。


そんな仮定は全て無意味だ。


彼はポイの扱いを心得ないまま、水の中でただ紙を破いて帰って行った、あの日の客と同じだった。

お も い ! ! !

皆を幸せにするのは、無理のようです。


最初のほうの設定で、中性的なギュンターは「総帥の嫁」と呼ばれて揶揄われることがあるというのがあり、今回それを踏まえた一行がありました。

封印編の7話に出てくるので、どなたも覚えていないかもしれませんが……!

覚えていらっしゃった方には特別に景品を差し上げたいところですが、届きませんので感謝のみを!!!

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