プロローグ
「翔子!」
「へ?」
目の前に影が迫っていた。慌てて手を伸ばすけれど間に合わず、髪を揺らす風を生みながら、影はあたしの頭上を抜けていく。
「ちょっと、翔子ー」
やべ、と思わず声が漏れた。いつも体育館を分けている防球ネットが、今日は張られていないことを忘れていた。一昨日ロープが老朽化により切れたためだ。振り返るとイタリア国旗を思わせるボールは、体育館のセンターラインを勢いよく割っていく。急いで追いかけるけれど、なかなか追いつけない。もちろんボールも、待っていてくれるような気の利いたヤツではない。
「ひゃっ」
短い悲鳴と共に、ようやくボールが止まった。体育館には重い音が響く。隣のコートで競技をしていた女生徒がボールに乗り上げ、サーカスを披露したまま見事な尻もちをついていた。彼女の手から滑ったラケットが奏でた甲高い音に、体育館は静まり返るが、それは本当に一瞬。みな一瞥だけして、目の前の部活動に戻っていく。
逆に器用だな。失礼ながら笑いそうになってしまうけれど、一歩間違えば大けがにも繋がるアクシデントに頭を下げた。
「ごめんっ! 大丈夫だった?」
「いてて」
お尻をさすりながら、女生徒は照れくさそうに笑う。立ち上がって向けられた顔を目にして、控えめなおさげを揺らす彼女が知り合いだと、あたしはようやく気が付いた。
「うん、平気だよ。翔ちゃん」
ボールをこちらに返しながら、彼女はあたしの名前を呼んだ。痛いなあとか、危ないなあとか、ちゃんとしてよとか、文句を口にする彼女を見たためしがない。
「よっしー……」
名前を呼び合うのでさえ、いつ振りなのだろう。それすらわからないほど、彼女と最後に言葉を交わしたのは、ずっと昔だ。
もう一度謝罪をし、小さな会釈だけを残したあたしは、バレー部陣地へと走った。
「ごめんごめん、おまたせー」
適当な場所に軽くボールを放る。
「翔子、ぼーとしないでよね」
「はいはい、さーせん」
「どうでもいいけど、さっきのジミーのこけ方ウケルわー。中国雑技団的な? サーカス的な?」
オーバーハンドであたしのボールを上げながら、チームメイトの広田が乾いた笑い声を出した。広田は男子部の連中に、「笑い声がボノボ」とよくからかわれているが、あたしはボノボの声を聞いたことがないので似ているのかはわからない。
広田の声につられ数人が、
「いや、それ二つとも同じでしょ」
なんて軽口を叩きながら、隣のコートへ目を向ける。
「え? なにジミーって? 大西?」
そんなわけないか、とセルフツッコミ。
「榎本のあだ名。地味だから、ジミー」
「五組だとそう呼んでるの。あのボールは避けられるっしょ」
「さすがジミー、どんくさ。あれでよく運動部やってられるよねー」
「ふーん」
嘲笑の中心にいるエノモトが、よっしーと繋がるのにわずかな時間を要した。ボールが再びあたしに回ってきたせいではない。あたしの中でよっしーの苗字が、あまり馴染みなかったせいだ。
ボールはリズミカルに、あたし達六人の輪を廻る。オーバーオーバー、アンダー、オーバー。ふざけて足で返す高木は、サッカー部の方が向いているのではないかと疑うコントロール力を発揮した。
「あのスカート丈もないよねー、ハイソと繋がってんじゃん」
「タイツかって。ついでに前髪も貞子かって」
「貞子は盛りすぎー」
笑い声と反比例するように、ボールはへろへろと情けない姿で宙を舞い始める。円陣のパス練習なのに、誰もロクにボールすら見ていない。やる気のない態度を注意する人間も、またいなかった。なにせこの部のキャプテンが、不真面目なあたしなのだから。
「まあ、バト部だしね」
とりあえず最後にとってつけたかのような加藤の言葉に、あたし以外の全員が、そだねーと返した。いや、おまえらいつから道産子になったんだよ。大体なんだよ、バト部だしね、って。
そもそも……。
「加藤ッ!」
「え、ちょっ!」
軽く床を蹴りながら、右腕だけは勢いよく振り下ろす。加藤の顔面スレスレの軌道をなぞり、ボールが床に叩きつけられた。よっしーが立てたものよりずっと派手な音に、何人かの後輩が振り返る。
「今、狙ったぁ!? つーか、パス練でスパイク打つな!」
「バトじゃないから」
「え? なに?」
「なんでもー!」
少しだけ気分が晴れる。
バド部が馬鹿にされたことに腹が立ったのか。それとも所属するエノモトへの嘲笑が癇に障ったのか、両方か、自分でもよく分からなかった。
そもそも……。
どちらにせよ苛立つ資格など、あたしにはもうないというのに。