生まれたウワサ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
つぶらやくんは、見えないもの、触れないものの存在を信じる方かしら?
ああ、別に幽霊とか、非科学的なものに限った話じゃないわ。物理的には宇宙とそこに浮かぶ数々の惑星。険しい山のてっぺんや海の底。まだ足を運んでいない近所の家の中身まで。
ニュースもそう。今、その場にいない海外や国内での事故や事件。スポーツの結果や政治討論。ありとあらゆる「生放送」まで。どこまで本当だと思って、接しているかしら?
そりゃ、広いこの世の中。疑い出したらきりがないし、生きていくことが辛くなるでしょうよ。かといって、何でもかんでも鵜呑みにして分かった気になり、「こんなことも知らねえのか、だせえ」と、ややもするとマウントを取って来る輩も、ちょっとどころか、だいぶ嫌な存在よね。後でその知識が間違いだと分かった時の赤面具合は、こっけいの極みだけど。
信ずるに値するもの。それを巡って、一つの不思議な体験をしたことがあるの。興味があったら、聞いてみない?
私は幼馴染の一人に、3つくらい年上のお兄さんがいた。私が幼稚園にあがるかあがらないかの時から、ボール遊びとか、身体を動かすことを教えてくれた人でね。何かと一人でいがちな私の遊び相手になってくれた。正直、憧れの気持ちも多分にあったわね。
でも私が小学校5年生を迎えた頃。学校の昼休みに外で遊んでいると、学校近くの車道をお兄さんが歩いて横切っていくのを、よく見るようになったわ。
前を開けて、肩から引っかけた彼の学ランの下。そこからは緑色の生地に、ピンクのペンキを無造作にぶちまけて、その中に英語の文字が浮かび上がっている、派手というか乱暴な感じがする柄のシャツが丸見えになっていたの。
その日は平日。当然、お兄さんの通っている中学校は授業がある。校外学習といった感じじゃなかったし、何をしているんだろう、と子供心に思ったわ。それも一度だけじゃなく、何日も目にすることがあった。
そして夜になると、寝ていた私はたびたび起こされたわ。家のそばにある国道を何度も何度も通り過ぎる、暴走族のけたたましいバイクの音に。
当時の私はもう一人で寝ていたけれど、怖くて仕方なかった。あの怒っているようなエンジンの叫びを聞いちゃうと、距離感がマヒしちゃう。音を響かせながら、私の家に勝手に上がり込んでくるんじゃないか、と震えていたの。
まくらを抱えて、お父さんとお母さんの寝室に逃げ込んだことも、数えきれない。二人は私を自分たちの間に入れて温めてくれたけど、あのバイクの音を聞きながら、少しだけ寂しそうな顔をしていたの。
私はやがて、不審なウワサを聞くことになる。お兄さんが、あの暴走族の一員になっている、というウワサを。
お父さんやお母さんが話してくれたわけじゃない。たまたま通りがかった人が、世間話をしているのが、耳に入っただけ。でも、お兄さんの姿を最近見かけなくなったのは確かで、一日中、家に帰ってこないこともあったみたい。
お兄さんの家の前を通ると、あの獰猛なエンジン音が、扉を閉めたガレージの向こうから漏れ出てきたのも、いっそう彼への疑惑を強めるものだったわ。
じょじょにお兄さんの悪評を耳にする機会が増えていく。でも、私は信じられなかった。
私はまだこの目で、お兄さんがあのライダーたちの中に混じって、走っているのをみたわけじゃなかったから。小さい頃に優しく接してくれたお兄さんに、そんなことなどあるわけがないと、心のどこかで信じていたから。
お父さん、お母さんが見せる顔も、ずっと険しいものになっていく。きっと疑っているんだ。
そう察した私は、夜中にあの音を聞いても、両親のもとへ向かうことはやめたわ。代わりに布団の中に潜り込んで丸まりながら、通り過ぎていくのをじっと待っていた。
私が信じていさえすれば、きっとみんなが抱えるウワサが、本当のことになりはしないと、おまじないに近い心持ちだったわね。
そして、私が小学校6年生に上がった時の、6月。暴走族の取り締まりを強化していた警察によって、数十名の少年が捕まえられた。ニュースでも取り上げられたわ。そして、その日を境に、お兄さんの姿を見ることはなくなり、私は彼の家の近くをあまり通らないように両親に言われたわ。
近所のみんなのウワサにも、今まで以上にお兄さんが、大小を問わず話題にあがるようになった。私が見たような、平日に学校外をうろついていたこととか、お店のものを万引きしていたとか、駐車場に停まっている車を蹴って、傷つけていたとか……バイクをいじっていたらしいことも、その中に混じっていたわ。
お兄さんの家はやや孤立気味な雰囲気になったけど、お兄さん以外の家族に特段、おかしいことはなかった。たまにお父さんやお母さんが、ふいっと仕事着とは違う、よそ行きの格好で、家のドアから出てくることがあったっけ。
私が高校を卒業して、一人暮らしを始めるまで、お兄さんのウワサはささやかれる頻度を減らしながらも、子供がいたずらとかで迷惑をかけるたび、思い出したように口にされたわ。直接お兄さんの名前は出さないでね。
実際に見たり会ったりしたわけでもないのに、子供たちの間でお兄さんは、まるで悪の権化のように思われて、怖がられていた。
悪い子は夜になると、バイクに乗ったお兄さんが連れ去りにやって来るぞ、としつけめいたことにも使われていたわね。
そして、私が大学の4年生になって、奔放な時間を過ごしていた頃。
久しぶりに気持ちよく酔った私は、最寄り駅で降りたとたん、天地も定まらずに視界がぐるぐるしたわ。「あ、これまずい」と、私は手近なベンチに身体を放り出した。
終電まではまだ時間がある。それまではここでゆっくりできるはず。私は両ひじを背もたれに乗せて、大股を開くという、いかにも女がやっちゃいけない格好で、うとうとしながらうめいていたわ。
見ていて、色気より気持ち悪さが勝ったのか、変な人に絡まれずに済んだのが、不幸中の幸いね。
そして、何本かの電車と、そこから降りる乗客たちを見送り、ようやく頭のガクガクが取れてきた頃。ぼんやりと、改札へつながる階段を上っていく人たちを眺めていた私は、すぐ目の前を通り過ぎた少年を見て、はっと息を呑んだわ。
お兄さんがいた。それも、あの日と同じ背格好。前を開けて肩に引っかけた学ランと、その下からのぞく派手な柄のシャツ。ずっと私の記憶の中で焼き付いていたもの。
急に立ち上がった私に驚いたのか、近くを通っていた背広姿の男性が何人か足を止めたのが見えたけど、私の意識は学ランの彼に向いている。彼はこちらを一顧だにしないで、人の波に乗りながら、階段を上がっていく。
私は思わず後を追った。若干、千鳥足が残っていて不安があったけど、それ以上に彼の正体を確かめたいと思ったの。
改札に着いた時、すでに彼の姿はなかった。この駅の出口は、北口と南口の二つ。せめてどちらに行ったか分かれば良かったけど、手掛かりはない。私は少し迷ったけど、結局、いつも使っている南口に向かうことにしたわ。帰宅する、というのも大事な任務ですもの。
私の自宅は駅の近くのマンション。線路沿いに歩いて五分程度のところにある。だから帰り道も、駅に併設してある月極駐車場の脇を通る小道が一番早い。
車同士がすれ違えず、街灯も全然ない、せまくて暗い道だけど、ここを通らないと少し回り道になる。一刻も早くお風呂に入りたい日とかは、本当に助かるの。
けれど、その晩は様子が違った。私の背の二倍以上はある、金網越しの駐車場。そこから「ガン、ガン」と何かを打ちつける音がするの。
私はふと足を止める。じっと目を凝らすと、ここから何台も奥の車を人影が蹴りつけているのが見えた。ポケットに手を突っこみ、肩に羽織った学ランの袖をなびかせながら。
気づかれちゃならない、と私の中で警告音が響き、すぐに前を向いて歩き始めたけど、ほどなく蹴る音が聞こえなくなった。私はなるべく早足で、自分の部屋に向かう。ほんの数分の道のりがいまいましく感じられるなんて、初めてのこと。
ようやくたどり着いたマンション前。急いで中に入ろうとする私は、新しく鼓膜を揺らしてきた爆音に、身を震わせることになる。
音の大きさばかりが、原因じゃない。だって、この音はいつか聞いた音。両親の布団の中で。自分の部屋の中で、縮こまりながら。
ぐんぐん音は近づいてくる。私はエントランスの、オートロックになっている自動ドアに身体をすべり込ませると、反射的にドアを振り返ったわ。
マンションの入り口前を、バイクが通り過ぎていった。ほんの一瞬だったけど、ライダーは学ランをマントのようになびかせて、派手な色のシャツをむき出しにしながら。音は止まることなく、どんどん遠くへと消えていった。
あれはお兄さんじゃない。お兄さんがあの日の姿のまま、存在するわけがない。私はもう、こんなに大きくなったのに。
きっとあれはお兄さん本人じゃなく。お兄さんに対するみんなのウワサが生み出した、何かなんじゃないかと、私は思っているの。