とろろ昆布のおにぎり
第15回坊っちゃん文学賞、最終選考にノミネートしていただいた作品です。
審査員の先生方から、アドバイスと勇気のお言葉をたくさんいただきました。
「あなたはたくさん書きなさい、書き続けなさい」とおっしゃっていただいたので、
これからも頑張ります。
1
バサッ、と音を立てて、目の前に薄茶色のビニール袋が差し出された。
驚いて顔を上げる。
立っていたのは紺色が基調のチェック柄をしたスカートの人で、思っていたよりももう少し上の方に顔はあるらしかった。そろそろと目を上げる。ん、と言われて、白い手がこちらにビニール袋を更に押し付けた。
「な、なに、」
「お腹、空いてんでしょ?」
僕は一度またビニール袋に戻ってしまった視線を上げた。今度こそ、相手の顔を見る。
夜のはじまりみたいな時間帯の公園は、青っぽい空気をしていた。
象の形をした小さなすべり台と、ふたつ並んだブランコと、正方形の砂場。砂場には猫避けなのか、黄色いネットがかけられていた。そしてジャングルジム。遊ぶところはそれだけで、あとは木々とベンチだけの公園だ。花壇も小さいのがある。
外灯はひどく明るくて大きなものがいくつかあった。明るくしておけば、悪いことをする人があまり寄ってこないからだろうか。
「知り合い、じゃない、よね?」
「お腹、空いてなかった?」
質問に対するものではない答え、答えでもないようなものが返ってきてしまって困る。これは、向こうの質問に答えないと先に進まないゲームのようなものなのだろうか。最初からプログラミングされている感じで。
「腹、は、」
あれ? と僕は自分の腹に目を落とす。
空いてるんだろうか、空いてないんだろうか。
「分かんないの? 自分が空腹か、そうでないか」
「……うん、」
「じゃあ食べたら? とりあえず満腹じゃないってことでしょ?」
白いブラウスは半袖で、袖のところに校章らしき刺繍が入っていた。それと、紺色のベスト。胸のところがVの字になっていて、襟のところには臙脂色のリボンタイをしている。
近くの高校の制服だろうか。
中学生っぽくはなかった。肩より長い黒髪をしていて、目は細くてつり上がっていた。大人っぽい顔はしているけれど、美人という感じではない。可愛い感じはもっとない。薄い唇をしていて、鼻筋は通っていた。男の子みたいな顔だな、と思った。スカートを穿いているから、女の子なんだろうけど。
「いや、あの、でも、」
「好き嫌いがあるとか?」
「えっ?」
「好き嫌いがあるから食べられないとか?」
「……中身が分からないのに」
「カツ丼」
「えっ?」
「カツ丼。中身、カツ丼」
好き? と彼女が聞いた。カツ丼。僕は、軽く頷く。好きだ、卵でとじたものも、ソースに浸して千切りキャベツの上に乗せたものも。好きだけど、もうどれくらい食べてないだろう。
「好きなの、良かった。じゃあ、はい」
「あの、だけどどうして?」
なんでカツ丼をくれるんだろう。見ず知らずの人間に。ナンパか? と思って聞いてみる。ナンパ? と素っ頓狂な声を上げて、彼女は眉を寄せた。
「誰が?」
「あ、ごめんなさい」
「この公園、突っ切るとアパート近いの」
「はい」
「カツ丼は、晩ご飯」
あっちにお弁当屋さんがあるの知ってる? と彼女は僕の後ろを指差す。首をねじって見てみたけれど、大きな木が邪魔で見えなかったから、僕は首を横に振った。彼女は少し残念そうな声で、坂田のお弁当屋さんていうの、と教えてくれた。
「チェーン店とかじゃないの、昔から家族だけでやってる、すごく美味しいお弁当屋さんなの、小さくてボロいけど」
「知り合いの店?」
「ううん、どうして?」
「宣伝してるみたいだったから」
「すごく美味しいから、お客さんがこなくて潰れても困るし」
「でもずっと経営して行けてるなら、そうそう簡単に潰れたりしないんじゃないかな」
「ある日突然銀行が破産してなくなっちゃうこともあるのに?」
「銀行なんかよりはよっぽど親切に、いついつ閉店ですって知らせてくれると思うけど」
「長らくのご愛顧ありがとうございました、って? 嫌だ、困るの、潰れたら! 坂田のお弁当屋さんであたし、育ったようなもんなんだから」
そうなの? と聞くと、中学の途中からは、と彼女が頷いた。
「あなた、いい人?」
「へ?」
突然質問は明後日の方向に投げられたので、僕は会話のボールを目で追うしかできない。それでも慌てて拾って、拾ったはいいけどどう答えていいのかよく分からず、どうなんだろうね、と答えた。彼女はカツ丼の手を引っ込める。答えがお気に召さなかったからくれる気を失くしたのかと思ったけど、そうではなかった。
彼女はこっちに寄ってきたかと思ったら、スカートのひざ裏部分に手を入れて、そっと押さえて僕の隣に座った。
「悪い人に見えなかったから、声をかけたの」
「……どうも」
「お腹が空いていそうだったし」
「そう?」
だって、と彼女が言う。僕の方を向いたのが分かったから、こっちも少し身体ごと彼女に向けた。
「スーツ、合ってないよ?」
「え、似合ってない?」
「じゃなくて。ぶかぶか。でも、あなたのでしょう?」
「うん。ちょっと痩せたんだ」
「ダイエット、って感じじゃないもん」
「そう?」
「やつれてる。不健康に。そんな感じの痩せ方」
そう? と僕はもう一度首を傾げて見せた。野良猫に餌でもやる感覚で、自分の晩飯を差し出してくれたんだろうか。
それ、君の晩飯だよね? と僕は彼女の膝に乗っている薄茶色のビニール袋を指差す。うん、と彼女は頷く。
「ダメだよ、見知らぬ男に自分の晩飯をあげちゃおうとかするのって。勘違いされて付きまとわれたり、誘拐されたり、面倒くさいことになっちゃうよ?」
「あたし、可愛くないから大丈夫よ」
「可愛いとか可愛くないとかってより、若いか若くないかが問題って人もいるんだよ」
「お説教?」
「余計なお世話だね、ごめん。でも心配は心配だなあ」
「あたしも、ご飯食べてなさそうなあなたが心配だよ」
「食べてるよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない、」
「カツ丼、食べたいでしょう? すっごく美味しいの、肉も厚くて卵とじで、グリーンピースなんか入ってなくて、玉ねぎがしなしなすぎなくて、これが本当に税抜き三百九十八円、税込み四百三十円でいいのかなあ、って申し訳なくなるくらい美味しいんだよ」
自分で買ってくるからいいよ、と微笑んで返すと、無理だよ、と彼女がちょっと怖い顔をした。
「なんで?」
「これがラストだったから」
「嘘、」
「本当。カツ丼注文したら、おじさんに言われたんだもん。リカコちゃんで肉が最後だわ、って」
「リカコちゃん?」
「あたしの名前」
「リカコちゃん」
「繰り返さないでよ」
今日のラストのカツ丼を持っている女の子。素性も知れない男に、声をかける女の子。目つきがきついので、いつも怒ってるみたいに見られるんだろうな、と思った。
「僕がそのカツ丼をもらっちゃったらさ、君の晩飯なくなるんじゃないの?」
なくなるよ? とリカコちゃんは平然と返した。なくなるけどそれが? みたいな響きをしていた。
「お腹空かないの?」
「他にもなんとかなるもん」
「僕だって、君のカツ丼を取り上げなくてもなんとかなるよ」
「でもなんとかしないでしょ?」
彼女は、そんなの分かり切ってる、というように返したので、僕は反論できなかった。なんだか、妻に怒られているような気にも、なった。
2
僕の名前は本城太郎。
今どき珍しい、犬につけられる方が多いような気もする、太郎なんて。
それでも本名なのだから仕方ない。親も適当につけたわけじゃないんだろうけど、初めての子供で男児だったから太郎というのは、世間一般から見れば適当なんだろか。昔飼っていた犬の名前はケンジだったので、よく人から僕がケンジで、犬が太郎なんじゃないかと間違えられたのもいい思い出だ。
僕が小学二年生のときに、父親が近所からもらってきたケンジは十七歳になるまで生きた。僕がじゃなくて、ケンジが十七歳。薄い茶色が混ざる、ほぼ白の雑種で、なんの犬種なのかちっとも分からなかった。柴犬よりもちょっと間抜けな顔をしていて、でもやさしくて、耳がぴんと立っていて、鼻がピンク色をしていた。全体的に白かったから、おじいさんになっても白髪は目立たなくて、だけど散歩をしていると昔ほどひゅんひゅん走れなくなっていて、野良猫にもバカにされていたけどなにも気にした様子はなく、やさしい目でそういう子達も見てた。
懐かしい、僕は今三十六歳だけど、今から犬をまた飼えといわれたら迷うと思う。小学生、中学生だった僕ほど今の僕は情熱を持って犬を愛せない気がするし、可愛がることはできても、まるで外見が多少違うだけの弟みたいに思って、一緒の布団で寝たいと騒いで母親から叱られても平気なくらい、雨の日は自分が傘を持って外に出て犬とふたりで太陽が出てくるまでずっと待っていたりしたくらい、そんな風に新しい犬を愛せる自信がないからだ。
そして今、僕は三十六歳で知らない女子高生の家に上げてもらって、目の前にカツ丼を出してもらっている。三十六年間生きてきて、初めての出来事だし自分でもちょっと、意味が分かっていない。
「お茶飲みます?」
「あ、えっと。おかまいなく」
「あたし飲みたいから飲むけど、どうする?」
「……飲みます」
リカコちゃんが冷蔵庫を開ける。二階建てのアパートで、彼女の部屋は一番端の、さっきまで僕達がいた公園側にあった。春になればきっと、窓から桜が見えるだろう。公園のトイレの屋根も見えるだろうが。
1Kのこじんまりとした部屋で、勉強机の隣にベッドが置いてあった。顔に似合わず、シーツと布団カバーはピンク色で、ぬいぐるみがいくつか乗っている。クマとウサギとクマとクマと猫らしきものとクマ。きっとリカコちゃんはクマが好きなのだろう、人からもらった可能性もあるけど。部屋のほぼ真ん中に置かれたローテーブルのところで、座布団もなしに毛の短い絨毯の上に座って、僕は悪いと思いつつぐるりと見回す。
そして気付いた。
「ねえ、ここってひとり暮らしなんじゃないの……?」
「決まってるでしょ、こんな狭いところ」
グラスに麦茶らしきものを注いで、両手に持っている彼女がこちらを見る。するすると寄ってきて、カツ丼の隣に置いてくれた。リンゴの絵が描かれているグラス。
「……推薦入学とか、なんかの特待生とか?」
「なんの話?」
彼女がきょとんとした顔で微かに首を傾げた。そのまま僕の前に腰を下ろす。僕らのときは、短いスカートが流行っていた記憶があるのに、今はそうでもないんだろうか。膝下丈だ。それとも、この子がスカートの丈なんてまったく気にしない女の子なんだろうか。
「親元離れてるから、ひとり暮らしとかかなって」
「捨てられたから、ひとり暮らしなのよ」
「……はい?」
「親に。捨てられたの」
「……あの、孤児、みたいな感じで?」
孤児っていうのは今も使うのかな、と考えたけど、他に代わりになるような言葉が見つからなかったからそのまま言ってみた。リカコちゃんは、今度は反対側に首を傾げる。
「単に、捨てられただけというか」
「単に?」
ますます分からない。こちらも真似して首を傾げてみたら、カワイコぶってるの? と聞かれてしまった。可愛い振りをして、なんの得があるというのか。
「単にでも複雑にでも、親に捨てられるって大変なことだと思うんだけど、」
持て余されるほど悪い人間にも見えないし。そう付け足すと、彼女は顔のパーツの中でも大きめの口をぐいっと引き伸ばして笑った。
「あたしに非はないもん」
「そうなんだ」
「親がね。離婚したの」
「うん」
「それぞれに恋人がいて、お父さんは再婚したいし、お母さんは恋人としばらく気ままに過ごしたいって意見で」
「へえ」
「あたしの存在はどちらも引き取れません、と」
「ひどい話だ」
「でもまあ、それぞれがお金は出してくれるって言うから、気楽にひとり暮らしでもしたらどう? って」
「そう、提案されたの?」
「だけど、それって問題だったんですよ」
ところで名前を聞いてもいいですか、と聞かれて、本城太郎です、と素直に答えた。けれど、太郎? と彼女は片眉を跳ね上げる。
「偽名?」
「失礼な、本名だよ」
「今どき?」
「うちの親に文句言ってよ」
「太郎ちゃんなんだ」
「そうだけど、」
「うち、昔飼ってた猫が太郎って名前だった」
犬じゃなくて猫で太郎。珍しいのかそうでもないのかが分からなくて、ふうん、とだけ返してみる。
「おじいちゃん猫で、うんと年寄りだったんだけど、おばあちゃんが亡くなって。あ、これはあたしのおばあちゃんね、人間の。おばあちゃんが飼ってたんだけど、面倒見る人がいなくなっちゃったからうちに来たの。三年くらいしかあたしは一緒にいなかったけど、茶トラで可愛かったの、もしかして太郎ちゃんて太郎の生まれ変わり?」
「僕、三十六年前から生きてるから違うかなあ。猫の太郎が亡くなったのはいつ?」
「あたしがまだ小学生の頃」
「残念ながら生まれ変わりじゃないね。僕は猫の太郎に似てる?」
「全然。猫の太郎は可愛かったもん」
カツ丼食べたら? と僕の前の、プラスチックのまるい丼に入っているそれを指差された。話が随分飛ぶけど、そういえばさっきの話はどこに行ったのか。
「さっきの話?」
「えっと、問題があるってやつ。その、ひとり暮らしするっていうのの、」
「ああ、学校側でね。問題になったみたいなの、神澤リカコは高校生なのにひとりぐらしをしているんじゃないかって」
「神澤さんなんだ」
「神澤さんだよ、お父さんの名字」
「うん、それで?」
お父さんのお母さんの名字だとか、お父さんの兄弟――いれば、の話――の名字に話が飛んでも困るから、僕は急いで先を促す。
「カツ丼は?」
ああ、努力はしたけどやっぱり飛んだ。
「食べる、食べます、いただきます。で、学校で問題になったみたいで?」
「こんな話に興味があるの?」
「……そっちが話しはじめたんだから、もう気になっちゃったよ。興味あるよ」
「女子高生とかが好き?」
「えええ? どういう意味の好きなんだろう、分かんないけどいいよ、それはあとで考えて言うから、とりあえず学校で何が問題になったのかを聞きたい」
「そんなに?」
「……僕、なんでここにいるんだろう?」
プラスチックの透明なふたに、水滴がついていた。まだほんのりとあたたかなカツ丼を、僕は机の真ん中に押しやる。
「どうしたの?」
「せめて半分は君が食べるべきだと思う」
「そう?」
「うん」
じゃあスプーン持ってくる、と言って彼女は一旦立って、すぐに戻った。外した透明のふたに、半分より少なく彼女はカツ丼を取り分ける。カレースプーンを、大胆に突っ込んで。卵の塊と玉ねぎがいっぱい取れちゃった、とこっちを見たけど、僕はどう答えていいか分からなかったから頷いて見せた。彼女は嬉しそうな顔になったから、きっとそのたれが染みた卵や玉ねぎの部分が好きなんだろう。
いただきます、とリカコちゃんは取り分けるのに使ったカレースプーンを口に突っ込む。
僕もつられて、割り箸を割った。
「んー、幸せ」
「良かったねえ」
「坂田のお弁当屋さんの、ご飯の炊き具合がもうあたしの好みまんまなの」
「いいことだ」
「そう、それで頼みがあるんですよ」
今度の話はどこに飛ぶんだろう。一番大きなカツの一切れをつまんで、はい、と僕は彼女の顔を見た。
「あたしの、お兄さんになってください」
「……はあ?」
さすがに話が宇宙まで飛んだ気分になった、僕は口をぽかんと開けて、箸からはカツを落としたけれど仕方ないと思う。食べないの? と不思議そうに聞かないで欲しい、最近の女子高生はおじさんと呼ばれるような男をからかって楽しいのだろうか。そもそも、ひとり暮らしの部屋に知らない人を上げてはいけない。
「……意味が分からないんだけど、」
「話したじゃない、学校であたしのひとり暮らしが問題になってるって」
「それは聞いた」
「お兄さんって言っても別に、叔父さんでも従兄でもいいわけよ。あのね、今度担任がうちに家庭訪問しに来るの」
家庭訪問。
高校生になってもそんなものがあるのか。
「問題があるんじゃないかって、場合によってはなんらかの機関に相談しないといけないとか、面倒くさいことになりそうなの、だからあたしの保護者の振りをして欲しいのよ」
「……お父さんとか、お母さんとか、」
「お母さんは恋人とハワイに行っちゃってるの、三ヶ月は帰ってこないんだって、恋人はよく分かんないけどITの関係の会社を持ってる人で、仕事なんてパソコンがあればどこでもできるんだって。で、日本にいないの、うちに来いって言っても無理なの」
「お父さんは?」
「お医者さん」
「……ほう」
「忙しいと思うし、お父さんは新しく奥さんになるだろう人のことで頭がいっぱいだから」
「でも、君は娘なんだし」
「別れた女の娘なんて、興味なくない?」
「自分の娘でもあるでしょう、え、違うの?」
違わないと思うけど、と彼女はスプーンで多めにご飯をすくって、そのままばくりと口に入れた。どちらかといえば爬虫類系のクールな顔をしている子なのだが、食べ物を口に詰め込んでもごもごしていると途端にげっ歯類じみてくる。
「――でも自分で産んでないから、やっぱりそこまで可愛さはないんじゃないかなあ」
「そんなことないと思うよ」
「太郎ちゃんは子供いるの?」
太郎ちゃん。違和感は、あるようなないような。
「いや、」
「可愛い?」
「だから、いないんだって」
「ううん、いたら可愛いと思う?」
いないから分からない。想像力を試されているんだろうか、よくよく考えてみる。妻に似ている子だったら。僕に似ている子だったら。性格なんかもあるだろうし。無条件に可愛いものだろうか、どうだろう。
「……可愛がろうと思う」
「決心だね」
「うん。それはとりあえず、僕はその家庭訪問で君の保護者代わりの振りをして、うちの妹なり姪なり従妹なりはなんの問題もありません、親元は離れてるけど僕が責任をもって面倒を見ていますし、って言えばいいんだね? そのためのカツ丼なんだね?」
「そう!」
「……そう、」
僕はカツの一切れをつまみ直す。やっと口に入れると、思っていたよりずっと衣が薄くて肉が厚かった。
そして僕はカツ丼でいまいち納得できるようなできないような、そんな話を受けることになったのだけど、最近の女子高生って人を信用しやすいんだろうか、それともこの子だけが特別なんだろうか。
2
会社名が入った白い軽のバンで、注文の品を届ける。
僕は医療関係の製品――膝のサポーターだったり腰のベルトだったり、院内消耗品だったり低周波治療器の交換パッドだったり――を取り扱っている会社に勤めている。
基本的には開業医の人達のところを回るのだけど、一応パンフレットなんかも取り扱っているので、医療機器も仲介として関与する。それで、医療機器メーカーの人だと勘違いされている場合もあって、ちょっと赤外線治療器の調子が悪いんだけど、とか、低周波治療器の線がおかしいみたいなんだけど、と言われたりもする。素人なんで、本格的な故障の原因みたいなものには手を出せないけど、ハンダ付けくらいならできる。たまに重宝されて嬉しい。
結婚は二十九歳の時だった。恋人が六歳年上だったので、彼女が三十五歳になる前に、と思って婚姻届けを出した。なにを勘違いしていたのか、僕は婚姻届けが緑色で離婚届が茶色だと思っていたから、役所で緑の紙をもらおうとして恋人だった妻にものすごく呆れられた。
あのとき、役所のテーブルに置いてある記入例の書類も、県名を名字にしてある太郎だった。太郎と花子。妻は、私も花子だったら良かったのにね、と笑った。
そういえば彼女は、僕のことを「太郎くん」と呼んだ。
赤信号で止まっていたら、携帯が鳴った。少し放っておいて、信号が変わるのを待つ。青になってから、先にあるコンビニの駐車場に車を入れた。
「もしもし、すみません運転中で」
会社から渡されているのは、電話がつながればいいだけなのでいわゆるガラケー、黒のフィーチャーフォンだ。裏に、会社名の入ったネームテープが貼られている。電話の相手は会社の事務員さんで、車に肘用のサポーターが入っているなら至急届けて欲しい、とのことだった。病院名を続けて告げられる。サポーターもあるし、場所も分かるし、了解しましたと返事をして電話を切る。
昔、まだ僕が小学生になる前、将来の夢は乗り物の運転手さんだった。
電車でもタクシーでもバスでも良かった、高いところが苦手だから、飛行機のパイロットは最初から目指していなかった。大きくなった今、将来の夢だった職業とはまったく違ったことをしているけれど、市内を車でぐるぐるするのだけは同じだなあ、とそんなことを思う。
空梅雨の六月、道は普段のように混んでいて、普段のようにアスファルトがきらきらとする。僕はそのまま鍵を抜いて、車を降りた。コンビニに入って、冷たいコーヒーを買う。そして、熱中症予防には利尿作用のある飲み物はダメだったことを思い出して、スポーツドリンクも一本追加した。
胸のポケットでに、振動がある。また電話か、と思って、社用ではない個人の持ち物のスマートフォンを取り出すと、相手はリカコちゃんだった。LINEでの連絡だ、先日仕事帰りの僕を公園で拾って、カツ丼を分けてくれた女子高生。
仕事が終わったらうちにおいでよ、と書かれている。そして、にこにこ笑っている可愛い犬のスタンプが貼られていた。
「誘われてるよ」
思わずつぶやいて笑う。
自分がものすごく歳の行ったおじさんだとは思わないけど、高校二年生だという彼女は僕の年齢の半分以下だ。
コンビニのオレンジ色をした籠を一旦床に置き、授業中じゃないの? と返事をする。打ち終わると同時くらいにもう返事がきた。休み時間、と簡潔に。
うちにおいでよ、と簡単に誘うのは、僕を男だと思っていないからなのか、それともお兄さん、叔父さん、従兄の振りをしてくれた頼んだからすっかり安心しているのか、分からないけれど彼女は随分簡単にこっちへ懐いてくれてしまった。
僕が悪い心を持っている人だったら、どうするつもりなんだろう。
一度そう聞いてみたけれど、彼女はきょとんとしてから笑うばかりだった。顔立ちは全然なのに、彼女はどこかうちの妻に似ている気がする。左の薬指で、前よりもゆるくなってしまっている結婚指輪に目を落とした。
今年は春から随分陽気が良くて、先月のうちに夏日だの真夏日だのを記録しているので、それも原因のひとつとして食欲も落ち気味だ。
「先生、いつ来るの?」
「分かんない、でも来るときは連絡してくるはずだし、不意打ちってしないでしょ」
「僕もそんなに暇と言うわけでは、」
「太郎ちゃんご飯食べた?」
「……食べてないけど、」
仕事が終わったのが七時。リカコちゃんから、まだ? と連絡が着て、慌てて――慌てる必要なんてひとつもないのに――彼女の家に向かったら、オレンジジュース飲む? と聞かれた。第一声がそれだった、彼女は結構変わってる子なんじゃないかと思う。
部屋に上げてもらって、まだ制服姿のままの彼女は僕にオレンジジュースを注いでくれた。部屋の真ん中にあるローテーブルに、向かい合って座る。
「あのさ、先生が来た時だけ僕が呼ばれればいいんじゃないかな」
「どうして?」
「どうして、ってだってさ、変じゃない? おじさんと女子高生の組み合わせって」
「よくいると思うけど」
「よくいるかもしれないけど、……よくいるのかな、」
「テレビとかで騒がなくなっただけで、今だっていっぱいおじさんからお小遣いもらってる子だっているし」
「そうなの?」
「需要と供給でしょ?」
「そんなお手軽でいいのかなあ?」
僕お金持ってないよ? と言ったら、太郎ちゃんからどうしてあたしがお金もらうの? と首を傾げられてしまった。
オレンジジュースに手を伸ばす。この前と同じ、リンゴの絵が描かれたグラスだ。リンゴのグラスでオレンジのジュースを飲む不思議。
「……そんなにいっぱい、いるの?」
「うん?」
「おじさんからお小遣もらってる女子高生って、そんなにいっぱいいるの?」
「男子高生もいるよ」
「えっ!」
「今の日本って、お金ないよね」
「ない、うん、まあ。ないねえ」
「あたしの学校の子、ってだけじゃないよ、顔も知らない子達といっぱい繋がれる今だもん。言ってるだけの子とかもいるかもしれないけど」
ネットやなにやらで繋がってるということなんだろうか。
生まれたときからパソコンやら携帯やらが当たり前として日常に存在していたのだから、途中から手に入れた僕達とはやっぱりなにか違うんだろう。ヒノキの棒で旅立った僕らと違って、最初から鉄の鎧を着ているようなもんだ。
「……世の中を、悲観してる?」
「世の中よりなにより、親があんな状態だもん、悲観なんかしてたらあたし何回絶望して死ななきゃなんないの」
ちょっと待ってて、とリカコちゃんが立ち上がった。うん、と頷きながら目で追う。彼女はカーテンで仕切られている、バスルームに続くらしい部屋の引っ込んだところに姿を消した。
彼女は明るいけれど、両親のどちらもが娘を引き取る気がないというのは確かに厳しい現実だ。お金だけ渡しておけばいいってもんじゃない。だけど、まだ金でどうにかしようと思ってくれるだけマシなんだろうか。だって今の世の中、ちょっと邪魔だからって子だの親だの、見知らぬ他人だのを簡単に殺してしまいがちな人が多い。
「はい、お待たせ」
行儀よく正座したままで出されたジュースをちびちびと飲んでいたら、彼女がひょこりと戻ってきた。制服が着替えられている。長袖の灰色をしたワンピースで、飾り気もなにもなかったけどそれは凹凸のほぼないような彼女の身体によく似合っていた。髪の毛を後ろで高い位置にくくっている。ポニーテイルだ。そのせいで、切れ長の目はいつもより更につり上がっていた。
「着替え?」
「そう。太郎ちゃん、映画でも観に行かない?」
「ええ?」
「映画、嫌い?」
「嫌いとか好きとか考えたこともない」
妻とまだ恋人同士だった頃は、デートで何度か見に行った。だけどそれはデートと言うスケジュールをこなすための物であって、積極的に見たいとか、そういうものではなかったから、僕はなにひとつとして当時見た映画を覚えていない。彼女は忙しい人で、そんな人がとりあえず僕のために時間を作ってくれたことが嬉しくて、映画なんて覚えてる暇はなかった。
「うわあ。考えようよ、好きか嫌いかくらいは」
「そんなこと言われたって、」
「太郎ちゃんって、本とかも読まないでしょ」
「そんなことは、」
「ある?」
「うう、」
お金なら出すから、とリカコちゃんに言われた。僕は金がなくて拾われた野良犬でもないし、自分で出すよ、と言ってみる。それでもう、映画は観に行くことが決定になった。
「いいよ、出す出す。あたしが見たいだけだし」
「そんなのダメだって、女子高生に奢られるのは、」
「プライドが傷付くの?」
「……そんなプライドはないなあ」
「どうせあたしのお父さんお母さんが出してるお金だもん、いいじゃない。あたしがどこかのおじさんに買われたお金とかじゃないから」
彼女はすごいことを言う。僕がびっくりしていても、そして気にしない。
「いいよ、自分で出すよ」
「じゃあポップコーンとコーラを買ってよ」
「いいよ、好きなの?」
「映画館、初めて行くから好きかどうか知らない。でも映画ってそういうもんなんでしょ? 初体験なの、映画館行くの。太郎ちゃん付き合ってよ。レンタルしてとかはよく観るんだけどね」
初体験の相手、僕でいいの? と聞いたら、なんか別の話みたいだよ、と今度は彼女がびっくりしてくれたようだった。自分で言ったくせに、まるで僕が下心を持ったおじさんみたいにされた気になって、ちょっと困る。
「ねえ、結婚してるんでしょう?」
「してるよ」
「指輪してるもんね。奥さん、怒らない?」
「なにを?」
「あたしと遊んでて」
「怒らないよ」
「死んじゃってるから?」
僕はリカコちゃんの顔を見る。映画館の、まだ様々な予告が流れているスクリーンを前に。
リバイバル上映だという恋愛ものの香港映画で、二十時四十分からの回は僕達だけで貸し切りだった。贅沢にも。
「なんで知ってるんだ」
「知ってるから」
「……なんで? 超能力とか?」
「ごめん、死んじゃってるって言われたくなかった?」
「いや、本当のことだからいいけど」
そう、僕の妻は亡くなっている。
そろそろ二年になる。今年とは違って、雨のものすごく降る梅雨の時期だった。視界の悪さと夜間だったのと、妻が暗い色の傘を差していたのと、黒っぽい服を着ていたのと、大きなトラックがスリップしてしまったのと、なにもかもが悪かった。
警察から電話がかかってきたとき、僕は家にいなかった。いつもなら帰宅していた時間だけど、その日はたまたま得意先の人と酒を飲んでいた。お酒を飲むからと朝は妻の車で駅まで送ってもらって、帰りは電車で帰ってぶらぶら歩こうと思っていた。
妻が、気を利かせて駅まで迎えに来ようとしてくれていた、そのときに起こった事故だった。
「奥さん、映画好きだったんじゃない?」
「え? ああ、でもそういえば好きだったかもしれない、テレビでもやっていると見てたから。ほら、金曜日とか水曜日とか、土曜日もかな、日曜日とか。まあ、大抵録画してあって、たくさん未消化のまま溜めたりもしてたけど」
「太郎ちゃん、奥さんに好きな映画の話とか聞かなかったの?」
「聞いた方が良かったのかな、でも興味がないのに聞くのも悪い気がしない?」
そうだけど、とやたらとベタベタした画面の恋愛映画予告をリカコちゃんは眺めてる。スクリーンからの光で、彼女の顔がカラフルに染まっていた。
だけどそうだ、聞いておけば良かったかもしれない。こんなに急に、妻がいなくなってしまうとは思ってもみなかったから。時間なんていくらでもあると思っていた、いつかふたりでおじいさんとおばあさんになるとばかり思っていたから、いくら僕より少し歳が上だったとしても、彼女がまだまだ若いうちにいなくなってしまうなんて思わなかったから。好きな映画を聞いておいたら、これから残りの僕の人生で、妻が好きだったもの、として何度も再生して観ることができただろうに。
「でもきっと、奥さんこれから観る映画好きだと思う」
「……うちの妻、知ってるの?」
「知らないけど」
「適当なこと言ってるだけ?」
「違うよ、えっと、太郎ちゃんみたいな男の人を好きになる女の人だったら、きっと好きだと思う映画なの」
「……僕みたいな男?」
リカコちゃんは映画館の背もたれが深い椅子の、備え付けのドリンクホルダーからコーラを取って飲んで戻した。僕みたいな男、の説明はされないまま、予告の数々が終わる。そして、映画泥棒のコントみたいな注意がはじまる。ふたりしてあとはずっとスクリーンを見ていた。
映画は、ざらざらした色彩の、ふたつの恋の話だった。
なんだか、ゼリーのプールでおぼれるような甘い恋の話だった、字幕だったから画面と文字が追い切れなくてあやふやになって、だから甘さがとてもやわらかくにじんで残った。
恋の話。
振られた男と、その男に恋をした女の話。惹かれるはずのない女が気になる男の話。ふたつの話が手をつなぐように交差して、だけど抱き合うほどは寄り添っていない、そんな恋の映画だった。
僕は昔妻とこの映画を観ただろうか、と思い出そうとしたけど思い出せなかった。でも、今隣にいるのが女子高生のリカコちゃんじゃなくて妻だったとして、そしてこの映画を観たんだったらきっと帰りは手をつないでしっとりとした夜の中を歩いて帰りたくなったんじゃないかな、と、それだけはくっきりと思った。
3
リカコちゃんの学校の先生はちっとも家庭訪問にこなかった。
大体、その家庭訪問自体が存在するのかどうなのか、僕には分からない。彼女が言っているだけなので。そういうのってプリントとか、文章できちんとくるもんなんじゃないの? と聞いてみたけど、友達の家に遊びに行くときって太郎ちゃんは手紙書いてから行くの? と聞かれてしまった。
「先生は友達じゃないだろう?」
「だけど、学校全体で決まってる行事みたいなものとしての家庭訪問ならまだしも、個人的なものだったらわざわざプリントなんか出すかなあ」
「少なくとも口頭では言われるはずだけど」
「じゃあまだ言われてない」
「……先生に聞いてみる?」
「太郎ちゃんが?」
「いいよ?」
「やだ、わざわざ藪をつついて蛇を出さなくても」
「藪蛇?」
先生は蛇でもないと思うんだけど。大体、僕は彼女の家に担任の先生が来ないんだったら、一緒にいる理由がないのだ。
リカコちゃんは一週間のうちに何度か、僕に連絡してきた。うちに来る? という聞き方をして、用事も特にない僕はひょこひょこと出かけて行った。
「だけどさ」
「うん」
「今更って感じもするけど、女子高生がひとりで住んでいるところに、こんな頻繁に独り身の男が出入りするのってまずいんじゃないかな」
「なにが?」
リカコちゃんはきょとんとしている。彼女は制服でないときには、基本的にワンピースが好みらしい。よく着ている。今日のレモンイエローのワンピースは、白い小花が散っていた。髪の毛をアップにすると、首の細さがよく目立った。スカートを穿いているというのに、すとんとした体形なので制服のときよりもずっと、男の子のように見える。
坂田のお弁当屋さんで、今日は焼肉弁当とのり弁当を買ってきたらしい。僕が来るようになってから、毎日がお弁当屋さんのお弁当ではなくなったと言っていた。ふたりでインスタントラーメンを作ったりもするからだ。なんだか、ままごとみたいに。だけどそれは恋愛の色ではなく、もっと別の色をした行為だった。本当に、叔父と姪が自分達の食事を作っているだけのような。
「なにかまずいことがあるの?」
「なにかしてるわけじゃないけど、僕だって男だし」
「あたしを襲うとでも言う?」
「言わないけど、周りはどう思うか分からないよ?」
「そんなの痴漢の冤罪と同じだよね、あたしが否定するし、やってないことを証明するのは一番難しいんだっけ?」
「うん」
「でもさ、世の中の人はみんな間違ってるよね」
なにを? と僕は聞き返した。間違っているとは、なんのことなのか。まったく分からなかったから聞いてみたのに、太郎ちゃんてば、とでもいうように鼻を鳴らして彼女は呆れた顔を最初にして見せた。
「あたしが太郎ちゃんを襲う可能性だって、同じくらいに考えないといけないのにね」
「君が? 僕を襲うの?」
なんのために。
僕は会社帰りのままの、ネクタイをしめたワイシャツ姿の自分の身体を目の届く範囲でぐるりと見る。よれたおじさんだ。襲っても、金目のものも特に持っていそうにないし。
「襲う理由がないって思ってる?」
「思ってる」
「でしょう? だから、あたしだって襲われる理由なんかないんだから、世の中の人はみんな間違ってるんじゃないかなって思うの」
そういう、くだらない心配ばかりする人は。そう彼女は付け足した。
「うん、まあ」
「太郎ちゃん、あたしを襲いたい?」
「全然」
でしょう? と彼女は大げさな声を出して頷いた。女として見てないの? とか、そんなに魅力がないの? とか、くだらなくも矛盾した思想から怒り出したりしなくて良かった、とちょっとだけ僕は思った。
今年はひどい空梅雨で、随分とダムの貯水が減ってしまっていて大変らしいけど、ようやく明日は雨のマークがついたらしい。じゃんけんをしてどちらのお弁当がいいのかを決めながら、彼女がテレビをつけた。丁度天気予報がやっていて、それでふたりで傘のマークを見た。降水確率は一日を通して八十パーセント。
園芸委員会が花壇の花に水をやらなくてすむから良かった、と彼女は学生らしいことを言った。
「園芸委員会なの?」
「あたし? 違うよ」
「じゃあ、園芸委員会に友達がいる?」
「いないけど?」
「好きな人とか?」
「園芸委員になるような人を好きになったら、穏やかな人生が歩めそう」
なんだそれ、と僕は笑ったけど、分かるような気もした。思い出せる限りの学生時代、園芸委員をしていたクラスメイト達を思い浮かべると、みんな物静かでやさしくて、時々存在感がないくらい穏やかだった。
「君は?」
「あたしがなに?」
「なに委員会?」
「体育」
「体育?」
全然イメージと違う、と言うと、じゃんけんで負けたのよ、と悔しそうな顔をした。彼女はじゃんけんに弱い。今も僕に負けて、焼肉弁当になった。
「でもいいの、普段は楽だから。体育委員は体育館の用具室を掃除するの、当番が回ってきて。誰も見回りに来ない治外法権みたいな場所だし、結局普段は動かさないような体育会用の大玉とか綱引きの綱とか、ずっと前に使ってた跳び箱とかが置いてあるだけの場所だから」
「楽しそうだけど、ひとりで掃除するの?」
「ううん、体育委員はクラスでふたりずつだから、ふたりでする」
「好きな男の子とかいる?」
いないけどどうして? とリカコちゃんが聞いた。高校生っていつも恋してるイメージがあるから、と答えてみたら、鼻で笑われてしまった。
「太郎ちゃんは高校時代、ずっと誰かに恋をしてた?」
「してたよ」
「あらま、なんか意外」
「なに、どういう意味で」
「あんまり恋とかしなさそうに思ったから」
「失礼な」
どんな人だったの、と聞かれた。今日は彼女にご飯をご馳走になっているので、お代としてそれくらい話してもいいかなあ、と僕は思う。
高校時代、好きな人がいた。
隣のクラスの女の子で、どっちかというとあまり育ちのいい感じの子じゃなかった。口は悪いし、髪は茶色いし、スカートはうんと短くされていた。
元々そういうタイプには惹かれないんだけど、彼女は休み時間になるといつも廊下に置かれた木製のロッカー――大体男子の胸より下辺りの高さをした、三段組みの物だった――の上に腰かけて、廊下で遊んでいる男子を見ていた。あの頃、僕達は軍手を丸めたボールをてのひらで打ち返して遊ぶ、よく訳の分からない遊びを流行らせていた。
ある日、僕達は消火器を倒してしまい、ピンク色の粉を廊下中にまき散らしてしまって大騒ぎになっていた。ただひたすらおろおろしているだけで、先生を呼べだとか息を吸うなとか、ひたすら粉の上に足跡をつけているだけとか、面白いように混乱していたのだけど、その彼女がロッカーの上から僕達の名前を呼んだ。
ひとりには自分のクラスから、もうひとりには隣のクラスから、そして別の奴には用務員室からそれぞれホウキとチリトリを借りてくるように言って、ピンクの粉をひらりと跨いでロッカーの上から飛ぶと、廊下の窓から教室を覗いてバケツに水を入れて雑巾かき集めて、と誰にともなく言って、自分はふらりといなくなった。だけどすぐに戻ってきて、大きな透明のビニール袋を手にした彼女は、大体の消火器の中の粉を集めさせて袋に入れて、水を撒いて粉を吹き飛ばないようにしてから雑巾がけをさせた。
だから、騒ぎを聞きつけて担任の先生が駆け付けたときにはほぼ綺麗に片付いていて、だけど彼女は自分がやったとも言わずに、するすると自分の教室に戻ってしまった。
「それで、好きになっちゃったの?」
「うん」
「びっくりするほど単純」
「そういうもんなんじゃないの?」
「知らないけど」
「恋したことない?」
「ないんじゃないかなあ」
だったら分かんないよきっと、と僕は言った。恋に落ちた人でないと、恋に落ちた感覚なんてきっと分からない、恋をしたことがある人だって、みんなが同じ感覚を知っているかと言えばそんなことはない。
誰もが知っているのに、世界にたったひとつしかないものが恋だ。
「恋かあ」
「興味がある?」
「世の中恋愛のいろんなものであふれてるでしょ、イベントとか、日常とか、特別とか、映画も漫画も小説もドラマも」
「うん」
「だから、自分も恋愛してみたらそういうもの達が自分に関係あるものになって、楽しいのかなって思うことはあるけど」
「してみようとしてするもんじゃないしね、恋って」
「だけどみんな、あー彼氏欲しい、で作るよ?」
「お手軽でいいんじゃない?」
「それって本物じゃない恋でしょ?」
偽物、ではなくて、本物じゃない、という言い方がいいと思ったから褒めたけど、リカコちゃんはピンと来なかったみたいで、はあ? と変な顔をされてしまった。
「でも、本物じゃなくても、接してるうちに本物になる場合もあるんじゃないかなあ」
「えっと、よく分かんない」
「嫌いなピーマンも、頑張って食べてるうちに平気になるみたいに」
「それって慣れたってだけでしょ?」
「恋っていうのも似たようなところがあると思うよ」
「そうなの? じゃあ、太郎ちゃんは本物じゃなかったけど気がついたら本物になっちゃった恋をしたことがあるの?」
勢い込んで聞いてから、リカコちゃんが、ぱっ、と表情を変えた。どうしたの、と聞くと、お腹空いた、と言う。僕達の目の前に、彼女が買ってきたお弁当はまだふたをしたまま置かれていた。
食べながら話そう、なんて彼女は真剣な顔をして言うから、僕は笑う。
「君と晩飯を食うようになってから、一キロ太ったよ」
「誤差じゃん、一キロって誤差だよ太郎ちゃん」
「うん、それでもなんか、今日は飯が食いたいなあとか、パンが食いたいなあ、って思うようになった」
ありがとう。本当のことだよ、の気持ちを込めて言ったけど、伝わらなかったみたいだった。彼女は焼肉弁当のふたを取って、僕に「お肉いる?」と聞いた。だから僕ものり弁当ふたを取って、一番上に乗っていた赤いウィンナーをあげようかと聞いた。
「いらない、海苔ちょうだい」
「のり弁から海苔を取ったら、弁当しか残らないじゃないか」
「お弁当が残ればいいじゃん」
「……海苔、」
「嘘だよ、ウィンナーより隅っこのきんぴらちょうだい」
「渋いね」
「ゴボウって美味しくない?」
「美味しいとか美味しくないとか、思ったことがない」
「ゴボウに謝れ!」
「ん? はい、ごめんなさい」
太郎ちゃんて大人っぽくない、とリカコちゃんが笑った。きんぴらごぼうを箸でつまんで、彼女の弁当のふたに乗せる。彼女は焼肉弁当の肉を僕に結構くれた。
「それで?」
「うん?」
「高校生の時に好きだったその女の子は、どうしたの?」
「どうしたのって、どうもしないよ?」
「告白とかは?」
「してないよ」
「どうして?」
リカコちゃんは向かい側でサニーレタスのようなものと焼肉を一緒に口に放り込んでいたけれど、もぐもぐとしながら僕の顔を強く見た。あたしの友達がせっかく好きって言ってくれたのに、どうして付き合ってあげないのよ! みたいな責められ方だなあ、と思ったけど、実際はそんな経験をしたことがないから想像でしかない。
「好きだからって付き合いたいってわけじゃないときもあるんだよ」
「告白する勇気がないだけの、意気地なしってことじゃなくて?」
「ひどい」
「好きなのに、好きって言わないの?」
見ていたいだけだとか、そういう好きもあるんじゃないかなあ、と僕は言ってみる。
「あれが好き、これが好きって言っておかないと、好物って食いっぱぐれるものじゃない?」
「チョコが好き、って言っとくと、誰かが思い出してくれたりするみたいに?」
「うん」
「人を好きなのって、うーん。食べ物とかならさ、一方的な好意だけでいいんだけど、人を好きになるのって相手がいることだから、なんていうのかな、自分の気持ちを押し付ければいいってもんじゃないと思うんだよね。好きだって気持ちをこっちが持つのは勝手だけど、相手がそれを受け取らない自由もあるから、って、分かる?」
「好きって言ったのに、向こうは好きじゃないって言ったら傷付いちゃうなあ、って話?」
「わー、なんか伝わってる気もするし伝わってない気もする」
のり弁の海苔の、湿った匂いはとても懐かしい気分にさせる。小さな頃の、遠足で持って行ったおにぎりの匂いに似ているからだろうか。母親が作ってくれて、銀色のアルミホイルに包まれたそれは、いつも少し大きめのものがふたつあった。どうしてこんな山を、歩くのが特に好きというわけでもないのに登らないといけないんだろう、と思いながらも昼頃頂上について、弁当を広げていいと言われて。
水筒には麦茶。
卵焼きや小さな塩サバの焼いたのや、ウィンナーやミニトマトなんかが入っていて、好きなものばかり入れてくれてる、と嬉しくなる。そしておにぎりの包みを開くと、湿った海苔の匂いがして、普段その匂いが家の中に満ちているなんてことは少しもないのに、ものすごく「ああこれってうちの匂いだ」と思ったりする。
そしてお母さんに会いたくなる。
そんな、不思議な匂い。懐かしくて、安心するような。
「よくさ、死ぬ前に、最後なにが食べたいかとか話さない?」
「え、太郎ちゃん死ぬの?」
「あ、いや、いつかは死ぬだろうけど、……死ななくはないよ、死ぬよちゃんと。そういうんじゃなくて、最後にさ、なにが食べたいと思う?」
「暗い話してるんだねえ」
リカコちゃんはあまりその話題を楽しいと思ってくれなかったようだった。だけど僕は思い出してしまったので、彼女の気持ちは気にしないで話を続けた。
「僕は、ずっと母親の作ってくれた卵焼きとおにぎりがいいと思ってたんだ」
「中身は?」
「中身? 中身は、えっと、鮭」
「あたし、ツナマヨが好き」
「うん。ツナマヨ、って食べたことない」
「太郎ちゃんって昔の人なの?」
「なに?」
「なんか、お年寄りってマヨネーズと米は合わん、とかって食べなさそうな気がするから」
おじさんを通り越して、歳寄り扱いされてしまった。コンビニでおにぎりを買ったことがないだけだよ、と言い訳をしてみる。母も妻も、家でおにぎりくらいはいつでも作ってくれたので、基本的にスーパーやコンビニなどでおにぎりを買って食べるということがなかったのだ。
「おじいさんにはまだ早い気がするけど、いいや。うん、自分が死ぬ前には母親の作った卵焼きとおにぎりがいいと思ってたんだけど、そういえば結婚してから変わったんだよ」
「そうなの? スパゲティがいいとか思ったの?」
どこから出てきた、スパゲティ。
妻がね、と僕は頭に浮かんでしまったナポリタンらしき画像を振り払う。
「僕の妻が、とろろ昆布のおにぎりを作る人だったんだ」
「とろろ昆布?」
「うん。ふわふわしてる昆布で、なんていうんだろう、糸くずみたいな感じで。海苔の代わりにご飯に巻く、っていうか貼り付けるんだけど、それがものすごく美味しいんだよ。死ぬ前に食べたいのは、母の卵焼きとうちの奥さんのとろろ昆布にぎりだな」
「中身は?」
「鮭」
「鮭、好きなんだね」
「うん」
「そんなに美味しいんなら、今度とろろ昆布のおにぎりって食べてみたいんだけど」
いいよ今度買ってくるよ、と僕は頷いた。とろろ昆布を買ってこよう。あとはあれだ、瓶詰の鮭のほぐし身。妻がよく使っていた。たまには贅沢をしてあげる、というときは、切り身を焼いてくれて大きくほぐしておにぎりに入れてくれた。
死ぬ前に食べたいおにぎりなのに、と僕は思う。僕が死ぬときには、妻が迎えに来てくれてとろろ昆布のおにぎりを作ってくれないと、死ねないかもしれないなあ、と少し、困る。
4
妻は、六歳年上だった。
出会ったのは僕が二十歳の時だ。まだ、大学生だった。
公民館と体育館と図書館とが複合された市の施設は、勤労青少年ホームや市民講座なども抱きかかえている大きなもので、他のところでは午後六時や七時に閉館してしまう図書館もそこだけは夜十時まで開いていた。
妻は勤労青少年ホームという、年齢制限のある若者の集まりのような団体に所属していて、そこでバドミントンのサークルに入っていた。僕はただの図書館利用者で。
すべての、利用できる施設の出入り口はけれどひとつだけで――非常口だとか、体育館の扉から出てしまうこともできるけれど――、その唯一の自動ドアのところで、僕が彼女の連れにぶつかったことがはじまりだった。
白に灰色のラインが入ったスポーツウェアの彼女と、淡いピンク色のジャージを穿いて、上は半袖のTシャツだったその友達と。図書館は出入り口のすぐ脇にあって、五冊本を借りていた僕は、手提げの袋にそれを入れようとよそ見をしていてぶつかってしまった。
本は落ちなかったし、白いTシャツの女の子も、小さく悲鳴は上げたけどそれは痛みのせいではなく驚きのせいだと知れて、僕はすぐに謝った。こちらこそ、とその人も頭を下げてくれて、それで終わるかと思っていたのに、余計な口が入った。
バドミントンを一緒にしているという男三人組で、いわゆるお祭りノリというか、賑やかしというか、ひとりだと静かにしてるけど集まると途端に気が大きくなってしまうタイプの人間というか、そんな感じの奴らが僕に絡んだのだ。
慰謝料とか払えよ、とか。
人にぶつかっておいて謝るだけで済むなら保険屋いらねえよなあ、とか。
多分そういうのは彼らのギャグだったんだと思う、自分達で言いながらなにひとつ面白くもないのにゲラゲラと笑っていたから。図書館で本なんか借りている僕は、随分下に、ひ弱に見られたのかもしれない。
慰謝料もらって飲みに行こうぜ、と、ひとりがとっておきの冗談みたいに言って、男達は笑った。ぶつかった女の子は困りながらもお世辞の愛想笑いをしていたし、僕はどうやったら帰れるかなあ、と少し困っていたのだけれど、そのとき、後で僕の妻になったその女性がバドミントンのラケットを投げ捨てた。
それは黒いソフトケースに入っていて、硬い床にはぶつかったものの、すごい音が立ったわけでもないし、びっくりするくらい跳ね返ったわけでもなかった。だけど、その場にいた人間が僕を含めて驚いて、そして無言になった。
「バカじゃないの」
大きくはないのによく通る声で、彼女はそう言った。
「バカじゃないの、面白いとでも思ってるの、そういうの」
群れなきゃ気さえ大きくできないなんてダッサい男達、と彼女は冷たい声で言って、男達をもっと驚いた顔にさせた。連れの女の子がおろおろとその場の人の顔を交互に見ていたけれど、なんの効果もなかった。
「周囲にくだらないことで迷惑かけるんなら、サークルクビにするわよ」
スポーツウェアの彼女が鼻を鳴らすと、男達は急にしゅんとして、「そんな部長お」だとか「ちょっとふざけただけじゃん」と言い訳をした。すっぱりとしたショートカットの黒髪をしていて、背はそんなに高くなくて、けれどラケットを投げ捨てた彼女はサークルの部長だったらしい。
春日部なつめという名だというのは、後から知った。
男達は僕に不承不承ながら謝ってくれて、そして僕はなつめさんと知り合いになった。
なつめさんは中学校の頃からバドミントンの選手で、普段はどこかしらぽやっとした雰囲気をしているのに、試合になるとやたらと尖ったオーラを発した。そのアンバランスさに惹かれて、僕は気がつくと彼女のことを好きになっていた気がする。
「青少年ホームのバドミントンサークルっていうのはほぼお遊びみたいなもので、彼女は練習ってより指導の側で入ってたんだ。大手のスポーツ用品の会社に勤めていて、実業団にも入ってて、毎日毎日バドミントンをしていて、他にもサークルに入っていて、だから結婚したときにも、バドミントンほど愛せないと思うから子供は産まないと思う、って言われたんだけど、僕はそれでもいいって言ったんだ」
「太郎ちゃんがプロポーズしたの?」
「ううん、奥さんから」
「結婚したいって?」
「向こうには結婚する気がなかったみたいなんだけどね」
「……意味が分かんない」
なつめさんは本当にバドミントンを愛していたから、僕と恋人の関係になってからもずっとバドミントンばかりをしていた。僕は試合を見に行ったり、夜中の電話で愚痴を聞いたり――だけど彼女は基本的にストレスがたまると基礎体力をつけるためにジョギングに出たりストレッチをしたり、男子中学生の性衝動発散みたいな方法で大抵すっきりしていた――、スポーツ用品店の買い物を付き合ったり、そしてほとんど放っておかれていたけど、僕の方もそう困ることはなかった。
人並みに愛を囁き合ったり、世界中で僕と君だけふたりきりと浸ったり、ご飯を食べに行ったり遊園地に行ったり、そういう恋人同士らしいことがしたくなかったわけでもないけど、彼女が楽しそうにしていると僕も楽しくて嬉しかったから、彼女がバドミントンをしていて人生が楽しいのならそれで良かった。
少しだけ不調だったりするとき、彼女は夜中に映画を観たりしていて、そういう時は僕に電話をかけてきたり、後から観たもののタイトルを教えてくれたりした。
小説とかドラマとかだと時間がかかりすぎるんだけど、映画だと大体二時間くらいで済むでしょう? と、なつめさんは言っていた。その間、バドミントンをしていなかった自分がもしかしたらこんな人生を送ったかもしれない、と、重ねることが息抜きになって、それで不調から少しずつ抜け出せるのだと。
「六歳も年上の奥さんで、良かったの?」
「なにか悪いことがあるの?」
「だって、男の人って若い方が好きなんでしょ?」
「そんなのはさ、それこそ個人的な趣味だよ。それに別に僕はなつめさんの年齢を好きになった訳じゃないし」
「だけど、おじさんって若い女の人好きだよね」
「当時はまだおじさんじゃなかったの、僕も」
「太郎ちゃん、おじさんなの?」
「おじさんだよ、悪かったね」
「大丈夫だよ、ちっともおじさんに見えないし、若い子好きじゃないし」
若い子が好きじゃない、と言い切られてしまうと困るけど、リカコちゃんはひとりでうんうんと頷いていた。うちの父親なんてさあ、と続ける。
「リカコちゃんのお父さんが?」
「再婚したいの、二十歳近く年下の女の人なんだよ」
「わあ、って、僕はリカコちゃんのお父さんの年齢知らないからなあ」
「四十六歳」
「……若い、気がする」
「再婚したい人が、二十八歳」
「……すごいね、どっちかっていうとリカコちゃんとの方が年の差、近くない?」
「お母さんの恋人は、三十九歳なの」
「……お母さんはお父さんより年下?」
「ううん、一緒」
「……すごい、なんかよく分かんないけど。すごい」
モテる人と言うのは、それこそひとりで何人からも好かれていたりするわけで、結婚だって五人中四人が一度も結婚したことがなくても、残りのひとりが五回結婚したことがあれば平均は一だ、どんなに未婚の人が多くたって平均されてしまうとそういうことになる。
「太郎ちゃんは再婚しようと思わないの?」
「思わないよ」
僕はびっくりして答えたけど、リカコちゃんはもっとびっくりしたようだった。
「なんで?」
「なんで、って、再婚したい人がいないし」
「お見合いでもなんでもすればいいじゃん!」
「なんでその気もないのにお見合いしたりして再婚しないといけないんだ」
「ひとりで淋しくないの?」
淋しくないよ、と僕は答える。淋しくない、家事のいろいろ、洗濯とか掃除とかは自分でできるし、食事だってなんとかなる、淋しいからって女の人を求めるわけじゃない、それだったら猫でも犬でもハムスターでも代わりはなんだっていいはずで。それに。
「僕はまだ、奥さんが好きだから」
「死んじゃったのに?」
「死んじゃったからって嫌いになるってもんじゃないよ?」
「僕を置いていった、腹立つ! とか思わないの?」
「思わないよ」
もっと、ああしていれば、こうしていれば、とは思うけど。もっと、話をすればよかった。好きなものを聞いておけばよかった。もっと、たくさん触っておけばよかった、抱き締めておけばよかった。
「……死んじゃって腹立つ、ってなんかすごいな」
「あたしの場合は、死んでくんないかな腹立つ! だけどね」
「どんな人でも、死んじゃってもいいって思うような人でも、実際死なれちゃったらびっくりすると思うよ」
「奥さんに会いたくならない?」
「会いたいさ、会えるなら」
こんなに世の中技術が進んでるっていうんだから、テレビ電話みたいなのができるといいのにね。リカコちゃんが言う。なにそれ、と聞いたら、テレビ電話、と答えられた。ちっとも答えになっていない。僕が眉を寄せた顔をしていたからだろう、リカコちゃんが鼻を鳴らした。なんで分かんないのよバカっ! みたいに。
「だから、死んじゃった人と生きてる人で、直接には会えなくても、なんかモニターとか通して話ができたり、とにかくそんな感じで」
「無理じゃない?」
「決めつけるとそこで終わっちゃう」
「リカコちゃんが開発する? そういう機械」
「あたし、文系」
奥さんの話してよ、とねだられる。
僕はこの子とどういう関係なんだろう。分からない。恋をしているわけでもない、ご飯は何度か一緒に食べている、担任の先生がもしも家庭訪問をに来たら、親の代わりに対応して欲しいと頼まれている。
それだけ。
それだけの、関係。
「奥さんの話?」
「うん」
「なんで人ん家の奥さんに興味があるんだよ、あげないぞ?」
「死んじゃってるんでしょ?」
「……哀しくなる言い方をしないでよ」
「死んじゃってるのにそんなに愛されてていいよね、あたしなんか生きてるのに両親からいらないって言われてるんだよ?」
この子も複雑な事情を抱えた子で。だけどあっけらかんとしているしちょっと変な子だから、うっかり背景を忘れてしまう。
「奥さんの好きなものはなに?」
「え? なんだろう、あの人身体作るのに鶏肉とか野菜とかよく食べてたからなあ」
「それが好きだったんじゃなくて?」
「違う。あ。モンブラン」
「モンブラン?」
黄色い、昔からあるような真っ黄色の栗のペーストが絞られたケーキも、渋皮が混ざった大人の茶色をしたものも。そうだ、彼女はモンブランが好きだった。甘く煮た栗が乗せられていて。
誕生日くらいしかケーキを食べない人だった、好きだけど身体には別に必要ないものだからと。だけど必ず僕に用意するように頼んだ。ねえねえ、太郎くん、誕生日のケーキはモンブランにしてね。
彼女の甘い声。
普段は少しハスキーで、ぱっきりとしている彼女の声がモンブランをねだるときには甘くなった。
誕生日はいつも、彼女の欲しがっているシューズだとかラケットだとかをプレゼントした。指定されて。サプライズはしたことがなかった、今なら思う、飾り気のなかった彼女の指に、よく似合う指輪でも贈ってみればよかった。胸元に、ネックレスを。そういうことをしてあげても良かった、いつかそういう日は来るんだろうと思っていた。
いつか、妻がバドミントンを辞める時がきて。それは体力的なことだったり、年齢的なことだったりで、続けていたとしても大会だ試合だ練習だと飛び回らなくてすんで、趣味程度の関わりになって。
そうしたら僕はバドミントンから彼女を取り返して、たくさん一緒にいようと思っていたんだった。モンブランだって好きな時にいっぱい食べて。甘いものもいろいろと、食べ歩いたりして。バドミントン以外のなにかをふたりでやったりしてもよくて。
こんなに早く、なつめさんを取り上げられてしまう予定ではなかったのに、本当に未来というものは不確実で非情で、放っといてくれて光り輝いていたりもしてよく分からない。
「奥さんが亡くなって、二年くらいなんだっけ?」
「うん? うん」
「でもまだずっと忘れないでいるんだね」
「そうそう簡単に忘れられるほどの存在じゃなかったからね」
「会いたい?」
「会いたいよ」
「即答だね」
「即答できるさ、そりゃ」
「他に奥さんより素敵な女性が現れたら?」
「現れてから考えるよ」
「そうだね」
「そうだよ」
「あたし、太郎ちゃんがお父さんとかだったら良かったなあって思う」
なんで、と聞いたけど、リカコちゃんは笑ってるばかりだった。
こんな大きい娘は困るなあ、と思ったけど、養子縁組とかしてみればいいんじゃないかなあ、と提案してみた。
「本当に父親になるつもりなの!」
「え、ならないけど、」
「太郎ちゃんて、」
「僕って?」
「目の前に女子高生がいても、恋ひとつしないんだから」
好かれたかったの? と驚いた。恋とかじゃないけど、好きだと思うよ、と言ってみたけど、薄っぺらいなあ、と笑われた。
奥さんのことがすごく好きだったから、彼女に愛情をたくさん使いすぎちゃったんだよ、と僕は言ってみる。そんなにロマンチストには見えないけどねえ、とリカコちゃんが僕の顔をまじまじと見て、また鼻を鳴らした。
5
リカコちゃんの担任だという先生は、想像と違っていて随分若い女性だった。
淡いピンク色のスーツを着ていて、髪の毛をすっきりとまとめていて、どこか良家のお嬢さん風で、お見合いでもしている気分にさせられた。
僕の名前を確認して、藤崎と名乗った先生は困った顔をした。持ってきた書類を穴の開くほど眺めてから、すみませんがお名前がなくて、と更に困った顔になった。
「本城太郎です」
「あ、はい、あの、」
「身分証明書と言うと、免許証と社員証くらいしか今提示できないんですけど、それだとダメですか?」
「あの、学校に提出していただく書類にですね、ご両親の他に連絡の取れる方を二名、記入していただくことになっているんですけど、神澤さんは父方の祖父と、母方の祖父になっていまして、」
僕は嘘が苦手だ。背中に嫌な汗をたくさんかく。だけど、リカコちゃんのためだと思って、一所懸命に嘘をついているのだけど、もうバレているんじゃないだろうか。
「あの、そもそも高校生ってひとり暮らししちゃいけないんですか?」
「いけないということはないでしょうけど、あの、保護者の方とご連絡が取れない状況でのひとり暮らしは、」
「家賃だってリカコちゃ……彼女の父親が毎月きちんと振り込んでいます、なにかいかがわしいバイトをしているわけでもありません。それは僕が保証します、ゴミ捨てだってちゃんとやってるし、近所でなにか問題を起こしているわけではないですし」
「しかし、高校生はまだ未成年であって、保護される対象範囲内です。ご両親共に神澤さんを、金銭的に援助しているとはいえそれのみでしたら、ネグレクトとなる可能性もあり、そうしましたらしかるべき所へ相談しないとならない可能性も出てきまして、」
先生も慣れていないんだろう。ばればれのカンニングでもするように書類へ目を落として、棒読みに近い発音で告げる。
「あの、本城さんは、」
「叔父です」
「叔父さん、あの、失礼ですけどおいくつで、」
「三十六歳です」
「そうですか、あの、失礼ですけど神澤さんの母方の苗字とも違われているようで、」
リカコちゃんも普段はあんなによくしゃべるのだから、今だってわあわあとまくし立てればいいだろうに、僕の隣でちんまり座っているばかりだ。
空梅雨の、ちっとも雨が降らない六月の終わり。
この先生は僕より年下なんだろうなあ、という感じで、くっきりした二重の可愛らしい顔立ちをしているけれど、ほとほと困り果てている。
「僕は結婚していましたが、数年前に妻を亡くしました」
「……あ、」
なにひとつとして嘘は言っていないけれど、藤崎先生は勝手にいろいろと想像して納得してくれたのだろう。たとえば、婿に入ったとか、そんな感じで。立ち入ったことを失礼いたしました、と彼女は丁寧に頭を下げた。
夕方の五時半に先生がくるというので、僕は会社を早退していた。他人のために不思議なものだけど、関わってしまったので仕方ない。藤崎先生は時間ぴったりに現れた。そして、いつも僕とリカコちゃんが向き合って座って、ご飯を食べているローテーブルの向こう側にいる。
「あの、親による育児放棄っていうか、多いんです?」
「高校生はある程度自分のことは自分でできますからね、どこまでが育児放棄になるのか判断は難しいところになるのかもしれないですけど」
「金は渡すからあとは勝手に生きていけ、っていうのは?」
「程度によりますかね……私も勉強不足で申し訳ないのですが」
けど未成年にはまだ責任を取ってくれる大人が必要だと思うんです、と先生は言った。僕は頷いて、今ここを誤魔化すことはどうにかなるだろうけど、じゃあリカコちゃんの責任を取ってくれる人としてずっと彼女と一緒にいてあげるけでもないし、僕は随分と無責任なことをしてしまっているのかな、と思った。
責任を取る。
自分の責任を自分で取れるようになったら、人は大人だ。
そして、自分のことを自分で責任が取れる状態のことを、自由というのだろう。
本当の意味で大人な、自由な人はどれくらいいるんだろう。
僕は未だに、僕のすべての責任を自分で取れているのかと聞かれると分からない。
ねえ先生、とリカコちゃんがやっと口を開いた。
僕へと曖昧な焦点を結んでいた藤崎先生は、弾かれたようにリカコちゃんの方へ首を向ける。
「なに?」
「先生、さっきからなに見てるの?」
君の話をしているときに君はなにをいきなり訳の分からないことを、と僕は眉を寄せてリカコちゃんの方を見て、それから先生の顔を見た。先生はぽかんとした顔になってから、少しだけ目を泳がせて、あなたも見えているの? と聞いた。
僕にではなく、リカコちゃんに。
「うん」
「リカコちゃん、先生には『うん』じゃなくて『はい』とかさ、もっと丁寧な、」
「先生も見えてるんだね」
「人の話聞いてる? ちょっと、」
「神澤さんも?」
「見えてる」
なにか見えているのか、聞いてもふたりは顔を見合わせたり、僕を見るだけで答えてくれなかった。いるよねえ、見えるもんねえ、とだけ言ってる。
「なにが!」
「先生って元々、見える人?」
「小さい頃はなんか、ふわふわっとしたものくらいなら見ていた気がするんだけど、こんなにくっきりしているのは大人になってから初めてで、」
「あたしは見えるときと見えないときがあるんだけど、やっぱこんなによく見えたのは初めてなんだ」
「ねえ、僕を放っといて話をしないでくれよ、なにが見えてるんです?」
あのね、とリカコちゃんが僕を指差した。
正確に言えば、僕の背後を。思わず振り返るけど、なにも見えない。
「太郎ちゃんの、奥さん」
「……は?」
「ずっと、いたの」
「……なに?」
「そうなんです、先ほど本城さんが、結婚はされていたけど奥様が亡くなっていらっしゃるとおっしゃったときに、随分頷いてらしたので……」
藤崎先生も頷いている。
僕は思わず自分を抱き締める形で、二の腕をさすった。若干寒気がした。
「なに!」
「ショートカットの、お化粧とかしてなくてそばかすがいっぱいで、美人ではないけど可愛い感じがしないでもない人でしょ」
「……その説明、もしも本当に僕の後ろになつめさんがいるなら、怒ってない?」
「笑ってる」
「ああ、そう……」
藤崎先生は僕の後ろを眺めてから、僕の顔を見た。
奥様、本城さんのことを本当に好きだったんですねえ。そうしみじみと言われたので、なんだか照れる。
「そうです?」
「ええ。もう、べったり。べったりくっついていらっしゃいます」
「奥さんって知らなかったら、悪霊みたいなくっつき方だよね」
「お、怒ってない? 悪霊とか言って」僕は心配になってまた聞く。
「笑ってますよ、ねえ、神澤さん」
「うん。笑ってる」
ふたりは軽く首を横に振りながら、そう答えた。
だったら本当に笑っているんだろう。バドミントンより僕のことを好きになってくれたのかな。生きていた時の彼女は、本当にバドミントン優先の人だったから。
「あ、リカコちゃんはもしかして最初からうちの奥さん見えてたとか? 一緒にご飯食べてた時も、最初にカツ丼――」
「あ、奥さん怖い顔した」
「えっ、なんで!」
リカコちゃんが横から、ちらっと僕を見る。ちらっ、ちらっ、と視線を合わせたり外したりで、そうだ先生がいるから最初に会った時の話なんかしたらいけないんだった。
「ええっと、あの、なんかよく分からない感じになっていますけど、そういうわけで、リカコちゃんは大丈夫です、保護者として僕が責任を持ちますので、あの、はい」
「あ、ああ、そうですか、そうですね、あの、よろしくお願いします、ただ信用しない訳ではないのですが一応神澤さんのご両親に本城さんのことを確認させていただくことになりますけど、お気を悪くされないでください」
確認されたらどうなるんだろう、叔父さんではないのがバレてしまわないだろうか。
「ねえ先生、お母さんは恋人とハワイに行っちゃってるし、お父さんは新しい若い女と再婚したくて忙しいから、あたしのことなんてあんまり気にしてないどころか、多分忘れちゃってると思うよ?」
「神澤さん……」
「だから、連絡なんてしなくていいと思うけど」
「そういう訳には……」
「大人って気楽でいいよね、好き勝手してたって誰にも怒られなくて」
好き勝手してたら大人だって怒られる。リカコちゃんがまだ知らないだけだ、だけど確かに彼女の両親は好き勝手し過ぎだとも思った。
先生は困ったような顔で、困ることがありましたらいつでもご連絡ください、と帰って行った。それが僕に対するメッセージなのか、リカコちゃんに対するものなのかは分からなかったけど、確実に分かっていたことは、藤崎先生もリカコちゃんも僕の後ろに亡くなった妻を見ることができる、ということだった。
いつからいたんだろう。
亡くなってからずっとだったとしたら、随分水くさい。
知らないで僕は、ずっとずっと妻を背負っていたことになる。
あたしが太郎ちゃんに声をかけた時の事、覚えてる?
あのときね、本当は太郎ちゃんの奥さんがあたしを呼んだの。おいでおいでって。手招きしてくれて。声はもちろん聞こえないんだけど、あたしあのとき本当困ってたのよ。お父さんもお母さんも、全然あたしのことなんて気にかけてくれなくて、それぞれの恋人に夢中でさ。
奥さん、太郎ちゃんのこと心配してるみたいだった。ねえ、太郎ちゃんご飯ちゃんと食べてなかった――僕は頷いた。毎年六月になると、なつめさんの不在が一層濃く感じられて、生きていることに投げやりになりつつあったから――でしょ? あたしのカツ丼を指差したの。奥さんがね、で、あたしが、これ? みたいな感じでちょっと持ち上げたら、頷いて、太郎ちゃんを指差したの。この人にあげてよ、ってお願いされてる感じで。
ギブアンドテイクみたいな、持ちつ持たれつみたいな、この人にご飯あげたらあたしのこと助けてもらえるかしら、って思ったら、奥さん頷いたの。ねえ、幽霊って人の心読めるの? あ、分かんない? そうだよね、太郎ちゃん奥さんのことも見えてないもんね。でもまあ、実際太郎ちゃんしょぼくれて見えたし、カツ丼くらいあげてもいいかなって思って。それで声をかけたの。
太郎ちゃんも先に奥さんに死なれちゃって、なんか、捨てられたようなものでしょ? あたしと似た感じだよね、でもね、別に手と手を取って一緒に暮らしていきましょうとかそういうんじゃなくて、いろんな場所でいろんな状態で、結局人って捨てられちゃうんだなあって思ったの。
だから、太郎ちゃんを見ていたら、あたしもそう不幸じゃないのかもって思ったのよ、親はあたしに関心がないけど、お金だけは出してくれるし、だって世の中親から本当に見捨てられちゃって自分の持ってるものっていったら身体だけで、それを使ってなんとかしてお金稼いでる子供とか人とかもいるわけで、まあそういうのは比べる意味なんてないのかもしれないけど。まだあたしはいい方かも、って思うことにしたの。
太郎ちゃんがご飯一緒に食べてくれるから、淋しいことなくなったし。
あたしに淋しいって感情があるかどうかは、謎だけど。淋しいってよく分かんないよね、あたしよりお父さんやお母さんの方が淋しいのかもね。だからきっと恋人とくっついていたくて、自分達が産んだ子供なんて存在を放っといちゃえるほどなんだよ、きっと。
淋しい人達だから、仕方ないんだよ。仕方ないで捨てられてるあたしは可哀想だけど、可哀想だからって泣いてなきゃいけない訳じゃないし。
あたしも好きなことしよう、って思ったの。
「好きなこと?」
「うん」
「どんなこと?」
「今してるじゃない」
リカコちゃんは自信満々で答えたけど、お米を研いでご飯を炊いているところだったので、僕はよく分からなくて首を傾げた。
藤崎先生が帰った後で、僕達はコンビニに出かけた。
とろろ昆布が欲しいとリカコちゃんが言ったからで、スーパーまで行けばいいのに、と提案したけど却下された。スーパーに行くとトイレットペーパーとかティッシュペーパーとかも買いたくなるから、と。そんなのはいくらでも持ってあげるのに。
コンビニでとろろ昆布と、瓶詰の鮭を買った。そういうものまで売っているんだと驚いたけど、豚肉の切り落としまで売っていた。ちくわとかもやしとか。かにかまとか。納豆とか、キュウリとか。ニンジンとか。
ふたりでリカコちゃんのアパートに帰って、炊き上がったご飯で熱い熱いと騒ぎながらとろろ昆布のおにぎりを作った。ラップで握って、僕のは三角になったけどリカコちゃんのはまるくなった。三角の握り方を教えてあげたけど覚える気がないようで、彼女は最終的にてのひらでごろごろ転がしてしまう。
二合炊いたご飯は六つのおにぎりになった。
彼女はそれから目玉焼きをふたつ焼いてウィンナーを七本焼いて――卵焼きなんて面倒くさくて作れないけどいいよね! と有無を言わせなかった。ウィンナーは冷蔵庫にあったものを全部焼いた――、冷凍庫にあった茹で枝豆と一緒にお弁当箱に突っ込んだ。
おにぎりはアルミホイルで包んで。
リカコちゃんはそれらを、通学に使っているというショッキングピンクのリュックへ突っ込んだ。空きを作るために、中に入っていた教科書やノートは全部部屋の隅にぶちまけられてしまったけど。
「どっか行くの?」
「太郎ちゃんは運転手だから」
「あ、僕も一緒?」
「うん。車じゃなくてね」
会社の車しか僕には動かせる乗り物がない。どうするの、と聞いたら、彼女はちゃらりと銀色をした鍵を手渡してきた。
「あたしの、通学用自転車」
「ああ」
「ルフィオって言うの」
「商品名?」
「ううん、名前。つけたの。なんかね、昔読んだ小説に出てくる男の子のあだ名で、ずっと覚えてたからつけたの」
ふうん、と僕は頷いた。
ふたり乗りするのが夢だったの、と彼女は言う。
「でもさ、それって道路交通法違反だよ」
「発覚してない犯罪は起こってないのと一緒」
「悪い考えだよ、それ」
「一度だけだから」
「おまわりさんに見つかったら、怒られるの僕なんだけどなあ」
「怒られてよ」
「簡単に言わないでよ」
だけど結局押し切られてしまったので、僕達は夜の八時過ぎに家を出た。行く先は決まっていなかったけど、とりあえずとろろ昆布のおにぎりと自転車のふたり乗りが目的なんだからどこでもいいよ、とリカコちゃんが明るい声を出した。
いい歳をしたスーツ姿の男が、今は私服のワンピース姿とはいえ女子高生を自転車の後ろに乗せて走る。おかしなふたり組だ。誘拐犯にすら見てもらえないだろう。
初夏は近付いているだろうけれど、まだ昼間よりはずっと湿っていてやわらかく暗い青色をしている夜の中を、僕達は漕ぎ出す。人ひとり分の重さは、女子高生とはいえ重い。ペダルをぐっと踏んで、僕は思い切り力を込める。
夜が耳元でびゅんびゅんと流れる。
電信柱の外灯、空にはよく見えない星、細い月。家の灯り。アスファルトの黒っぽく伸びる道。
不意に、リカコちゃんがぺたりと僕の背中に自分の身体をくっつけてきた。少しよろける。危ないよ、と言おうとして、なんだかそれが知っている体温のような気がした。
太郎くん、と。
耳元で呼ばれた。
風がすぐにさらってしまったけど。
太郎くん、と。
また、呼ばれる。
リカコちゃんの声ではない、もう少し低くて、硬い声。だけど親しみのこもった、僕のよく知る声。忘れたことのない、頭の中でいつでも僕を呼び続けている甘さと温度。
肩に置かれた手が、やわらかに力を込めてきた。
後ろにいる女の子が、リカコちゃんじゃなくなっている。嘘みたいだけど。自分でもまだ、半分くらい信じていないけど。
後ろにいるのは。
いるのは。
「……なつめさん?」
呼んだけど、僕の声は届かなかったかもしれない。届いたけど、返事をしてくれなかっただけかもしれない。自転車のスピードを少しだけ落とした。僕の髪に、彼女は頬を寄せたようだった。そういう感じがした。
「ねえ、今も好きなんだけどさ」
僕は言ってみる。彼女が静かに笑った気がした。
自転車を降りたら、きっとリカコちゃんに戻っているだろう。どこかで僕達は、夜のお弁当を広げるんだろう。恋だとか、そういうのとはまた別の感情で、僕はリカコちゃんとしばらく一緒にいるのかもしれない。まるごとの人生を責任が取ってあげられるわけじゃない。親の代わりになれるわけでもない、そんなつもりもない。
僕達はなにか深い関係があるわけでもない。だけど、きっと、なんらかの色の糸で結びついているんだろう。僕と妻が、赤い糸で結ばれていたように。
なつめさん、と僕はもう一度、そっとつぶやいてみた。
風なのか、妻なのか、リカコちゃんなのか、分からないけれど後ろから僕の髪がそっと撫でられた。それがとても、なんだか、幸せだった。