エピローグ1:門出
「いつまで寝てんのよ、置いてくわよ」
頭をはたかれて目が覚めた。座りの深いソファに身をうずめていたら、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
「阿羅の準備が遅いからだろ」
そう言い返したが、既に彼女の気配はない。ため息をついてから、ゆっくりと立ち上がった。急にたたき起こされたせいで、意識はまだ半ば夢の中だ。足元がふわふわとおぼつかない。
四角く切り取られた窓から、黄色い陽光が差しこんでいる。もう間もなく昼時だろう。ナラキアの街は活気にあふれているはずだ。当初の予定では朝に発つ予定が、すっかり後ろ倒しになってしまった。阿羅が寝坊しなければ、予定通りに出発できていたというのに。困ったものだ。
簡単にストレッチをすませ、身軽なまま部屋を出る。現実とは異なり、大旅行だとしても大荷物を担がなくて済むのはTCKの良いところだ。
玄関まで降りていくと、既に3人全員が揃っていた。にこやかな宇羅とは対照的に、阿羅の視線がやや痛い。
「ったく、全員あんたのこと待ってたんだからね」
「……誰のせいで出発が遅れたんだか」
「ちょっ、何よそれ、私が悪いっていうわけ?!」
「もお、ちょっと落ち着いてよ」
今にも手を出しそうな勢いの妹の胸を、困り顔の姉が押しとどめる。
「まあまあ、そう怒らないことです。旅路は長い。こんなところでつまづいていたら、それこそ王都『イラムス』までとても持ちませんよ」
サラマンが取りなそうとするが、阿羅はますます表情を険しくした。彼女は首をぐるりと回すと、金色のなびきの中の涼やかな笑みをにらみつける。どうやらターゲットは僕から彼に変わったようだ。
「あんたには聞いてない」
「ええ。横から失礼しました」
「てか、ホントについてくる気なの?」
「もちろん。以前のこともあって、アル君はしばらくこっちに来れないみたいですし……そんなに照れなくても大丈夫ですよ?」
「その発言が恥ずかしくて聞いてらんない」
阿羅はげえっと苦いものでも吐き出すようなしぐさをして見せたが、サラマン相手にはのれんに腕押しだ。むしろ、彼女の変化に富んだ表情を面白がっているようにも見える。
こんな調子では永遠に出発できないと感じた僕は、彼らを無理やりにでも玄関の外へと押し出した。
外に出てみると、昼前の陽光が暖かく頭上を照らしている。TCKの太陽は日本のようにジリジリと肌を焼かない。湯たんぽを当てているような柔らかな温かみが首筋にしみこんでいく。
振り返ると、主を失った拠点は少し寂しげに見えた。くすんだ色の煉瓦は黒ずみ、外壁をはう蔦には元気がない。このオンボロ屋敷もきっと、僕たちとの別れに気づいている。
しばらくの間、ここに帰ってくるつもりはない。
これから僕たちは、王都「イラムス」へと向かう。
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あの事件――“エムワン”の死によって幕が下ろされたあの一連の出来事は、僕たちに大きな傷痕を残した。信じていたものには裏切られ、仲間内の絆はズタズタに引き裂かれた。何人もの仲間がいなくなった。流王さん、一条さん、そして茜……。立ち直るには、少しばかり時間が必要だった。
時を経て、誰ともなくぽつりぽつりと話し始めた。自分だけで抱えておくには重たすぎる記憶だった。断片化されていた情報を整理する意味合いで、僕たちは起こった出来事を順番に並べていった。
そもそも、流王さんが実は、獅子旗に成り代わられていたという事実、そして僕たち“リソース”の存在意義――これを伝えた時、正直どんな反応が返ってくるのか気になっていたのだが、宇羅の反応は拍子抜けするほどあっけなかった。思い返してみると、「流王が裏切った」と伝えた際も彼女は異常に飲みこみが早かった。
「そう」
そんなそっけない一言が、宇羅から発せられたすべてだった。あまりの反応の薄さに僕たちは言葉を失ったものの、あれやこれやと騒がれるよりは良かったかもしれない。これが一条さんだったら、しばらく同じ話題から抜け出すことはできなかっただろう。
獅子旗が正体を現した時の話になると、阿羅の表情が自然と厳しくなり、とげとげしい視線がサラマンに向けられた。恐らく、僕も同じような目つきをしていただろう。
流石の彼も、居心地が悪そうに少し身じろぎした。事件の後、どういうわけかサラマンが「ナラキア」郊外にある僕たちの拠点に居候を始めたという事実も、僕たちのいらだちをかきたてた要因の1つだったかもしれない。
「そういえば『竹中君』、あの時の説明、まだしてもらってないけど」
低い声で問いつめる彼女に、はじめサラマンは頑なに口を開こうとしなかった。だがその程度で彼女の怒りは収まらない。あふれ出した感情が、彼女の口から辛辣に放たれる。
「あの時、なんであのサイコ野郎と親しげに口をきいてたわけ?」
「知り合いだったってこと? じゃ、最初から正体知ってたわけ?」
「それ以前に、あの場面で姿くらますって、どういう神経してんの? どう見ても私たちピンチだったじゃない」
「その後でよくノコノコと顔出せたよね。顔にゴムマスクでもつけてるのかしら」
延々とこの調子なものだから、流石のサラマンも根負けした。間借りしている負い目もあったのだろう。渋々といった調子で口を開いた。
「どこから話せば良いものか……まず前提として、私は皆さんと同じ“リソース”です」
「今更? もうとっくに気づいてたわよ」
「念のためですよ、念のため。
“リソース”の中でも私はちょっとばかし古株でしてね。当時はプレイヤーもほとんどおらず、本当にテスト中といった感じでした。あの頃一緒にいた仲間たちは、もうほとんど残っていません――彼を除いては」
「彼?」
「路唯ですよ」
「え?! なに、あんたたち知り合いだったわけ?!」
あまりにも直接的な阿羅の叫びに、サラマンは苦笑した。苦笑いというやつも、彼の容貌だと驚くほどサマになる。だがその表情からは、今までのような芝居がかった風味はすっかり削げ落ちて、生々しく皮をむかれた感情がそこにはあった。
サラマンは余韻を口のはしに残したまま、ぽりぽりとほおをかいた。
「そういえば、まだ伝えていませんでしたね」
「ちょっと何、ますます怪しいじゃない! あいつ、あの後フラッと姿消しちゃったし。入れ替わりにあんたが入ってきたって、偶然にしてはできすぎじゃないの?」
あの事件の後、路唯はいつの間にか忽然と姿を消していた。最初は誰も気づかなかった。それもそのはずで、数日間の間、僕たちは各々自室にこもって自身の気持ちの整理をつける時間が必要だった。そんな時期に、彼は消えたのだ。
結局、彼はどんな男だったのだろうか。1度だけ廊下で出くわして言葉を交わしたのと、“エムワン”との闘いの中で1人だけ他人事のような顔をしていたことしか覚えていない。どんな顔だったか思い出そうとして、僕は彼をただの「美形な男」としか認識していなかったことに気づき、ぞっとした。彼自身による意図的な印象操作なのではないかとさえ思った。
サラマンはもう隠し事をするつもりはないようだった。秘されていた過去が、滔々とした語り口によってつまびらかになっていく。
「まあ、やつが戻るであろうことは分かっていました」
「……戻るって、どこへ?」
「彼の、主の下へです」
「サラマンさんも、以前はそこにいたんですか」
僕の問いかけ――限りなく確認に近い問いかけに、彼は「ええ」と形の良い唇を動かした。
「“エムワン”と獅子旗に続く3人目の『転回者』――女王が、私たちの主でした」
その名前を聞いても、姉妹の反応は鈍かった。僕にしてもぼんやりとしていたら聞き逃してしまっただろう。それほどに淡く小さい記憶しか、頭の中には残ってはいなかったが、ふとした拍子に路唯の声が耳元で再生された。
「『女王《クイーン》』……王都『イラムス』の統治者。3人目の『転回者』ですか?」
今にも説明しようと開きかけていたサラマンの口がぴたりと止まり、見開かれた瞳がこちらに向けられた。
「ご存知なんですか?」
「はい。以前、路唯さんと話した時に聞いたんです」
「女王だなんて、ずいぶんご大層なハンドルね」
宇羅の口調は純粋そのものだったが、スパイスの効いた皮肉がその言葉の内に包まれている気がしてならない。あからさまに鼻を鳴らしている阿羅とは対照的だ。
「で? なに、その王都で女王様ごっこやってる元ご主人様と、あのサイコ野郎は昔っから『転回者』同士でお茶する仲だったって言いたいわけ?」
「まあ、乱暴な言い方をすればそうなります。そういうわけで、私は獅子旗とも面識がありました」
サラマンの発言から一拍置いて、宇羅がポツリと言葉をもらした。
「それじゃやっぱり……最初から全部知ってたってことなのかしら」
その言葉は雪山の洞窟からたれさがった氷柱のようだった。うなじの毛穴がぞわぞわと動き、外気に触れていた場所には鳥肌が立つ。
サラマンも不穏な空気を感じ取ったのだろう。見るからに表情がこわばった。だが彼は目を背けず、あの浮ついた笑みでかわすこともなく、真っ直ぐに宇羅を見つめ返す。
「いえ。獅子旗が関わっていたことは知りませんでした」
「……それを信じろというの?」
水晶のように透き通った瞳は、サラマンを捉えて離さない。普段は無垢なその輝きが、今は鋭さを宿している。
「1度、勝算が薄いと見込んで掌を返したことについては申し訳ありませんでした。ただ、まさか彼が関わっているとは知らなかった」
「昔からのお友達と情報共有はしなかったの? 勘だけど、多分路唯はこのこと知ってたよね」
「とんでもない。私は足抜けしてる身です。“あの人”はそんなことは許さないし、その忠実な部下である路唯は言わずもがな」
“あの人”と口にしたサラマンは、少し顔を伏せた。その翳った部分をぬうようにして、不安と恐怖の断片が走り抜けていく。そのまま、彼はすぐに面を上げようとはしなかった。
そんな彼の顔つきをじっと観察して、どうやら宇羅は納得したらしかった。「そう」というそっけない一言を残すと、彼女はその小さな薄ピンク色の唇をぴたりと閉じた。
しかし妹の方はまだ到底肚落ちしてはいないようだ。次は何を問いただしてやろうかと、敵意むきだしの視線を隠すことなく向けている。
あまり感情的になっても話が前に進まない。本心でいえば阿羅にもろ手を挙げて賛同したい気分ではあったが、感情に依った欲望を押し殺して、彼女が口を開く前に僕は会話にするりと入りこんだ。
「完全に信用したわけではないですけど、一旦分かりました」
誰がそんなこと言ったのよ! と阿羅が目で訴えかけてくるが無視した。
「それにしても、サラマンさんをしてそんなを顔をさせる『女王』ってのは一体何者なんですかね。一目見てみたい気分ですよ」
「それには賛成。調子乗ってる得意げな面を張り倒してやりたいわ」
と阿羅も続く。
その時、がばりとサラマンが面を上げた。いつの間にかそこには、普段の余裕しゃくしゃくとした笑みが戻っている。僕は一瞬でもしおらしい彼を「可哀想だ」と思った自分をぶん殴ってやりたい気分になった。にたにたと音を立て始めそうな口が、ぱっかりと開いた。
「それなら、会いにいきましょうか」
唐突な提案に、僕たち3人はそろって顔を見合わせた。
「……は?」
「次の目的地は、王都『イラムス』なんてどうでしょう」
……よりによってお前がリーダーぶるかよ、この野郎。
阿羅のつぶやきが、僕たち全員の気持ちを代弁していた。




