第34話:掌の向こう側
いけない。
口に出したわけではなかったが、それは叫びだった。抜け殻のように静止している“エムワン”に向かって、歩み寄る影がある。地にひかれた青緑色のじゅうたんの上に、彼女の姿が黒く切り取られている。影の背中あたりに見える大きなこぶが、地面に落ちた。担いでいた「相棒」を手放したのだ。
なぜ彼女は“エムワン”に執着を見せるのか――そんな疑問は、今やどうだって良かった。それよりも強い叫びが、胸中にわいた疑問をかき消している。
星の瞬く草原の情景が、脳裏にまざまざと蘇る。“サンプル”御用達の店で出会った高木の情報を頼りに向かった先に佇んでいた狂気。ツカサに扮した殺人者。あの時、僕は怒りと力に飲みこまれ、獅子旗を殺してやると、本気で思った。
しかし直後に、茜に抱きしめられて気づいた。自ら超えようとしていた一線が、いかに深く隔たったものであるか。1度向こう側へ行ってしまったら最後、もうなかったことにはできない。
豪と茜が、止めてくれたのだ。宙に浮いていた身体を、思い切り此岸に引き戻してくれた。
その君が、どうして。
「駄目だ!」
今度は、声が出た。気がつくと、僕は茜と“エムワン”の間に立ちふさがっていた。手を大きく広げ、彼女に相対する。
「そこをどいてくれない?」
「聞き入れられない」
「どうして。元々の目的を達成するだけじゃない」
「違う。本来の目的は、“エムワン”からTCK脱出のための手がかりを取得することだったはずだ」
「多分、丈嗣君の勘違いだと思うけど」
彼女を艶やかだと感じたのは、これが初めてのことだった。茜の瞳はつやつやと濡れていた。うっすらと唇の間からもれる歯の白さが、上気してピンクに染まったほおと対照をなしている。
「茜ちゃん、帰ろう」
「丈嗣君の後ろにいる、そいつを始末したらね」
「そんなこと、もう必要ない! もう何もできないよ。ただの抜け殻だ」
「むしろ好機じゃない。今を逃したら、もう2度とつかめない」
会話が成立しない。互いがそっぽを向きあっているせいで、平行線どころか、ずれは大きくなっていくばかりだ。
茜は歩みを止めない。彼女が1歩近づくたびに、名状しがたい圧力を感じた。正面からものすごい力で押されているようだ。踏ん張ると、重みで足が地面に埋まっていくような錯覚。
「お願い、どいて」
「どかない」
「お願い。これが終わったら、すべて話すから」
彼女の懇願は、どこか空虚に感じられた。放たれた言葉の中はスカスカで、僕にぶつかると乾いた音を立てた。丸めたちり紙をぶつけられた程度の感触しかない。
そこにいらだった男の声が加わった。
「良い加減、時間がないんだ」
周囲の風景が、突然シャッターを開きっぱなしにした写真のように引き伸ばされた。世界が幾本もの光の線となって僕を取り囲む。目の前にいた茜の顔が、意味をなさない光の集合に転じていく。
次の瞬間、僕は先ほどまでと変わらず草原に立っていた。しかしいつの間にか、目の前から茜の姿が消えている。風がそよりとほおをなでていく。驚くほどべたつかない、さらりとした感触。振り返ると、そこには“エムワン”の抜け殻の姿もなかった。
その先――振り返った目線の先に、小指の先ほどの人影がいくつかある。その半円状に広がった人影の中心に、空間をくりぬいたような真っ黒な穴が見えた。そいつが僕を水平方向に飛ばしたのだと直感した。
止めなくては。彼女を守らなくてはならない。
「やめろ!!!」
僕は駆け出した。沈み始めた陽光を背負いながら、地を蹴った。背中がほのかに温かい。正面からは夜が近づいてくる。
誰も彼女を止めようとしないことがもどかしく、叫びだしそうになって、口をつぐむ。全員、録画を一時停止したように静止しているのが分かった。明らかに不自然な姿勢で固まっている。豪など、まさに茜に向かって手を伸ばしかけているところで、静止していた。大きな力――僕たちでは到底打ち勝てない密度の力が、彼らに働いている。
茜の小さな背中が近づいてくる。前方に、彼女が地面に置き捨てた麻袋が見える。奇妙にうねっていて、まるで見知らぬ動物の死体のようだ。その脇を抜けると、彼女はもうすぐそこにいた。
「茜ちゃん!」
彼女は振り返らない。身をかがめて、両腕を正面に伸ばしている。そこには、“エムワン”の抜け殻がある。透き通って、何の力も残されていない空っぽの器が。彼の身体を透かして、向こう側のタールのように黒い男の影が見える。
手を伸ばす。届かないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。伸ばした指の間で、茜はゆっくりと、“エムワン”の頭をその胸に抱いた。
彼女のつぶやきは小さかったが、狂おしいまでの歓喜に満ちていた。
「長かった」
刹那、“エムワン”の姿がどろりと溶けた。文字通り水飴のようになって、ゆっくりと地面にたれていく。茜の抱いていた頭は、その形状を残したまま首を長く伸ばし、地面へと接吻した。そのまま薄く広がって、あっという間に元の姿は影も形もないどろりとした透明な粘りけになり、やがて地面へと吸い込まれ、消えた。
あっけないほどあっさりとした、“エムワン”消失の瞬間だった。その身体は音もなく形を失って、この世界へと還っていった。いや――その表現は正確ではない。現実であれば肉は分解されて土へ還るが、TCKでは何も残らない。架空の身体に載った架空の魂が論理削除されただけ。
「ああ」
ため息がもれた。諦めで織られた言葉が口から転がり出ていった。もう後戻りはできないのだと、ぼんやりと感じていた。伸ばした指の間に見える茜の姿をひどく遠くに感じる。そこで初めて、彼女はその「一線」を超えてしまったのだという強い実感が押し寄せてきた。
「すんだな」
頭に流れ込む男の声はひどくそっけない。事務的で硬質な響きが、余韻を無情にも押し流していく。
再び男は左腕を頭上に掲げたが、そこで気がついたように僕に視線をくれた。
「そうだ……さっきの質問の答えだが、正しい方法で私にたどり着いたら教えてあげよう」
「……あなたのいう正攻法とは、一体なんです」
半ば呆然としたままだったため、僕の返答はひどく淡白だった。あまりに直截な物言いに男は少し苦笑い――顔はなかったが、すぐにそうだと分かった――したものの、
「君は何しにここに来たんだ? この世界の目的は、驚くほど単純だろう」
そう言って、彼は頭上に掲げた手をパチリと鳴らした。
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断絶を感じたのはほんの一瞬だった。気づいた時には再読み込みは完了していて、僕は先ほどと同じ、草原のただ中に立ちつくしていた。
ただ、地面には見覚えのあるクレーターがいくつもあいていた。茶色く散らかった地面を見て、僕は悟った。元の場所に帰ってきたのだ。
周囲を見回すと、ちょうど同じように顔をめぐらせていた豪と目が合った。彼が自身の胸と軽くたたく。そこには“エムワン”が残した醜い傷痕はない。驚いたことに、僕のHPも全回復していた。まるで初めから何も起こらなかったようだ――目の前の凄惨な風景を除いては。
透き通った彫刻のようだった“エムワン”がいた場所も、初めから何もなかったかのように自然だった。もしかして、あれは夢だったのではないか――そんな夢想がむくりと頭をもたげかけた時、僕の瞳は堂々と立つ茜の後姿を捉えた。
途端に、苦々しい感情が口いっぱいに広がっていく。彼女を止められなかった。“エムワン”は、確かにTCKから消えた。彼女の――茜の手によって、消された。向こう岸へと飛び移る彼女を、此岸に引き戻すことはできなかった。
彼女に声をかけようとした僕を、豪のうめき声がさえぎる。
「一条さん……一条さんは、どこだよ」
はっとする。非現実的な出来事の連続で、最も大切なことが意識から抜け落ちていた。
「彼なら、確かここに倒れていたはずです」
サラマンが地面のある一帯を指し示す。だが、そこはただの草地に過ぎなかった。傾き始めた太陽の光を浴びて照るサラマンの姿と、指し示された草地からただよう香りが対照的だった。
「本当にここかよ?」
いらだちというより、焦燥感という言葉を当てる方が正しいだろう。豪の言葉には、そうであって欲しくないという願望と、そんなはずはないという焦りが混在している。
「僕も……あの場所だったと思う」
「動いた可能性はないか? あの後――俺たちがこことは違うどこかに転送された後、『オダバの森』を離れたんじゃ」
「……」
きっとそうだ、とは言えなかった。あの怪物と相対して、一条は相当な深手を負ったはずだった。システムに組み込まれたルールを無視するほどの強い力を真正面から受けて、ただで済むとは思えない。
その上このエリア近辺は、流王に扮した獅子旗によって他のプレイヤーからは隠されているはずだ。偶然通りかかった誰かに助けられるといった僥倖は望むべくもない。
そして何より――彼が無事だったのならなぜ、僕たちとともに転送されなかったのか? あの場に一条はいなかった。それすら気づくひまもないほど動転していたのだと、今更ながらに気づく。
「噓……そんな……!!」
口元を抑えた阿羅の掌の上を、無数の涙滴が伝っていく。豪と同じく、その左腕に黒い蟲の痕跡は残っていない。彼女はそのまましゃがみ込むと、声にならない嗚咽をあげ始めた。身体を震わせる阿羅を、姉が優しく包んだ。その顔は哀しさに歪み、口元は怒りに震えている。
「認めねぇ」
ぼそりと、豪がつぶやいた。
「俺は認めねぇ。一条さんは、まだ生きてる」
誰も、言葉を発することができなかった。肯定も否定もできない。1度結論を下してしまえば、もうそれを信じるしかないと分かっていた。たとえ、信じた先に裏切りが待っていると分かっていたとしても。
そのうち沈んだ空気に、路唯の一言が風穴をあけた。
「おい、やつが行っちまうぞ」
……ああ、この男はいつも変わらない。場違いな場面で、場違いな言葉を平気で放りこんでくる。無神経な声音で、その場空気全体を逆なでする。気づいていないのか、あるいは意図的なものなのか。
豪が怒りに濡れた目をきっと向ける。
「良い加減にしろよテメェ。何訳わかんねぇこと言ってやがる」
「一時の感情で千載一遇の機会を逃すとは、物好きなこった。ああ、もう間に合わねぇ」
路唯が伸ばした腕の先に、小さな人影が見えた。担いだ麻袋に夕陽が当たり、鈍い白が輝く。鬱蒼としげる森の入り口に、彼女は仁王立ちしていた。
……茜? 何をしているんだ、彼女は。
先ほど路唯を罵倒した豪本人も、訝しげに眉根を寄せている。他の面々も当惑した表情で、森に入らんとする彼女を見つめている。
その時、茜が手をメガホンのように合わせて、口に当てた。
「みんな、今までありがとう!! とっても楽しかった!!! それじゃ私、行きますね!」
これは……突然の離別の挨拶? それも、このタイミングで?
まるで「また明日」とでも言いたげな軽い雰囲気。でもこれは間違いなく、今生の別れの言葉なのだ。爽やかな情景の裏側にこめられた決別のメッセージを、この場の誰もが受信していた。
理解できない。なぜ、今なのか。あまりにも急すぎる。
聞きたいことも沢山残ってる。どうして、ゲームマスターのことを知っていたのか。彼と一体、どんな取引をしたのか。“エムワン”を始末しなければならない理由は何だったのか。
それに何より、もっと一緒にいたい。いつの日か元の世界に戻るまで、ともに同じ楽しみ、同じ苦難を乗り越えていきたい。越えてしまった一線から、少しでもこちらに引き戻してあげたい。
それまで沈黙を守っていた宇羅の大声が、草地に響く。当惑というより、怒りの色が濃い。
「どういうこと?!」
茜は答えない。
彼女は微笑んでいる。あの、今まで見たこともないような妖艶な笑みを浮かべている。こんなにも遠いのに、はっきりと解像されている。
陽が沈んでいく。彼女のかつぐ麻袋の輝きが、徐々に淡くなっていく。
夕闇が、すぐそこにある。その湿っぽい足音が、ひたひたと耳元をよぎる。
彼女のかつぐ麻袋は、少しにじんでいる。目がおかしくなったのかと、こすってからもう1度見てみる。何も変わっていない。それどころか、にじみはより拡がっている。
見間違いでは、ない。
彼女が、右の掌を大きく広げた。それを、顔の前にかざす。艶やかに彩られた笑みが、華奢な掌の中に覆われる。
麻袋の輝きが消えるのと、彼女が手をどけたのは、ほぼ同時だった。
僕の中で、何かが壊れる音がした。
どけられた掌の向こうで、
2度と見たくなかったあの男の顔が――殺人鬼の酷薄な顔が、満面の笑みを狂い咲かせていた。
そしてその顔はすぐに、背後に茂った暗い森の中へと溶けた。




