第33話:交渉
目をつむっていた。情けないことに、「その瞬間」を見届けることが恐ろしかった。光が消え、世界が黒く塗りつぶされる前に、自ら光に背を向けた。そうしておけば、自分を守れると思った。
いざ自らが窮地に立たされた時、本当に勇気を奮い立たせることができる人間は、まれだと思う。他者のために自らを犠牲にできる人間は、この時代においてはきっとどこかおかしいに違いない。
首筋を焼く日差しの感触は消えていない。
風に運ばれてくる草いきれの香り。青々しく、少し生臭い。
装具を通して足の裏に確かな大地を感じる。堅固でありながら、柔らかい。
……まだ闇はやってきていないのか?
恐る恐る、僕は薄目を開ける。最初に目に飛び込んでくるのは、うなだれた“エムワン”の抜け殻。透き通った空っぽのマネキンだ。青緑色の草地の中に膝をつき、注ぐ太陽の光を内側に取りこんで、勝手気ままに辺りにばらまいている。
そこで気づく。
闇はまだ、訪れてはいない。
男はいつの間にか、腕を下ろしていた。先ほどまで頭上にあった右腕のひじは太ももの上に乗せられていて、垂直に伸びた腕の先に、男の黒い顔がある。
「何用?」
脳内に届いた男の声には、明確ないらだちが含まれていた。今まで感情らしい感情をあまり示さなかった大理石のように滑らかなその表面が、かすかだが波打っている。
全員が、男の視線の先に顔を向けていた。
男と“エムワン”を結んだ延長線上に、彼女はいた。
目に飛びこんできたその姿に、僕は声を失った。
「何用って……あなたが転送したんじゃないですか」
彼女はため息をつくと、ゆっくりと男に歩み寄ってくる。足取りに迷いや恐れは感じられず、まるでこの出来事を予め知っていたような態度さえうかがえる。
その肩には、巨大な麻袋が担がれている。あの中には、圧縮された「液体」が詰まっているのだと、以前本人から教えてもらった。
何故、彼女が……後方で待機しているという話ではなかったか。
状況を飲みこめていないのは僕だけではないようだった。その場にいる全員――正確には“エムワン”は相変わらず呆けているだけだったが――の意識が彼女に向けられていた。しかし彼女はそんな雰囲気に臆した様子もなく、堂々と真ん中を歩いてくる。
彼女が目の前を横切ろうとしたところで、その肩に白い手が置かれた。
「どうしたのよ、茜」
たまらずといった様子で話しかけたのは阿羅だった。黙っていることが耐えられなかったのだろう。彼女はそこで言葉を切ったが、表情には様々な疑問が浮いている。そんな阿羅に対して、茜は安心させるようににっこりと微笑んだ。今まで目にしたことがないほど、落ち着いた表情だった。
「いても立ってもいられなくなって追いかけてきちゃった」
「大丈夫? どこか身体の調子がおかしかったりはしない?」
「平気。ちょっとそこの人に話があるだけ」
そう言って、茜は椅子に座った男を指さした。男から反応はない。鋳造された像のように押し黙っている。
阿羅の表情は優れない。1つ質問をしたら、逆に5つになって返ってきた、といった困惑した顔つきだ。それもそうだろう。茜はゲームマスターのことを知っているようにふるまっているが、彼女はこれまで1度もそんな素振りを見せたことはなかった。
戸惑う僕たちをよそに、茜は男に向き直った。
「ねえ、本気なんですか? 彼らを計算資源から取り除くって。それも、下らない上への説明のためだけに」
「……」
「現実世界で計算資源の調達が難しくなってきてること、あなたなら分かってると思ってましたけど」
「今更何を言いにきたのか知らんが、決定は下した」
木で鼻をくくったような対応だったが、茜は鼻白むことなく対話を続けた。微かな笑みさえ口元に浮かべている。
「なぜそんなにも、そこの『出来損ない』に固執するの?」
『出来損ない』という言葉が何を示しているかは彼女の視線から明らかだった。男は1度そちらに顔をやったが、すぐに茜へと方向を戻した。
「君こそ何だってそんな分かり切った質問をする。茶番の時間はない」
「茶番じゃありません。そこの『出来損ない』には未来がない。あなたが治めるこの世界をいずれグズグズに中から腐らせてしまうことは分かり切ってるはず」
「最善策だ」
「いいえ、問題の先送りにしかなっていないわ」
「……回りくどいな。何が言いたい」
再び、男の声がはっきりといらだちの色を帯びた。他の誰もが触れることすらできなかった影の向こう側の実体に、茜だけが触れている。会話は今、完全に茜のペースに飲みこまれていた。引っ込み思案で内気な彼女が、驚くべきことにこの場の操舵輪を握っている。
茜は悠然と腕を広げると、彼女らしからぬ芝居がかった調子で続けた。
「簡単なことです。そこの役立たずを始末して、私たちを残せば良い」
「メリットがない」
「最善策です」
「私の見解は異なる」
「先見の明がないんですね。ここにいる彼らは“リソース”の中でもトップクラスの演算性能を持っているというのに。それに何より、未来がある」
「不確実性の方が高いと判断した」
「仕方ない……それなら、私の『計算資源』の上乗せします」
彼女の申し出に、男は本当に驚いたようだった。硬く冷たい表面に、再びさざ波が現れた。
「……本気か?」
「はい。彼らがそこの『出来損ない』に釣り合うようになるまでの間」
しばし、男は無言になった。茜の申し出の真意を図りかねているらしい。
「どうしてそこまで彼らにこだわる?」
「逆ですよ」
「……君の言う『出来損ない』の方か」
茜はうなずくでもなく微笑みを返しただけだったが、それは明らかに肯定を示していた。
男は悩んでいるようだった。今まで頑なだった態度が、彼女の態度と言葉によって揺れている。大理石のように冷たく硬かった表面が、水面がごとく波立っている。
僕らにできることは、黙って会話の顛末を見守ることだけだった。今起きている出来事を見てはいるが、それが何を意味するかは理解できない。背景や言葉の意味を正確に咀嚼することができないのだ。
できることなら、すぐに2人の間に割りこんで茜を問い詰めたかった。聞きたいことは山のようにある。質問が泡のように水底から立ちのぼってきては、消えずに頭の表面を漂流している。
ただ、それがとてつもなくバカげた行為だということも分かっていた。だからこそ、動けない。動かない。ここが自分たちの運命の瀬戸際なのだと、もう1人の自分が叫んでいるのが聞こえる。
しびれを切らしたのか、或いはこれを狙っていたのか――絶妙な間が空いた後、茜がそろりと口を開いた。
「それに――彼は『器』になりえますよ」
それを聞いて、男の身体がピクリと動いた――気がした。
茜はぐいと身体を乗り出すようにして、椅子に座る男を真正面から見つめた。まるで男の反応を一部たりとも見逃すまいと目を凝らしているようだ。瞳の中に、これまで見たことがないほど強い意志の力を感じた。
「私には分かるんです。彼の潜在能力は底が見えない。今日だって、そこの『出来損ない』との戦闘の中で『転回者』へと覚醒した。いずれ彼の演算性能はそこのガラクタを超えますよ」
「……」
「私なら、可能です。あなたを、う……ることができる」
肝心な部分は、茜が急に声を低くしたため聞き取ることができなかった。それでも、男の身体が今度は明確に反応していた。前かがみになって気だるげだった姿勢は、いつの間にか彼女を食い入るように見つめるものに変化している。のっぺりとした顔は無表情だったが、穴の向こう側の実体からほとばしる関心が、放射線のようににじみ出てきていた。
それは強い欲望だった。野望のように勇ましくはなく、じっとりと地に足のついた、しかし濃度の高い欲望だった。
茜は何と言ったのだろう。好奇心が頭をもたげたが、それを知る術は今はない。
それよりも、僕は「器」と口にした時茜がこちらにちらりと視線をやったことの方が気がかりだった。彼女は一体、僕の中に何を視たのか。
「……冗談じゃあないみたいだな」
男の返事に、茜はうなずきを返す。相変わらず、その顔には深い微笑みが浮かんでいた。
「ここから先が聞きたいなら、ユニキャストでお願いします。これでは聞こえ過ぎる」
その後の会話を僕は思い出すことができない。いや、この表現は正確とは言えまい。
彼らはコンマ数秒間、互いに見つめ合っただけだった。2人の視線――厳密には、男はそれすら有していなかったが――の間に突如として回線が作り上げられ、大容量の会話が瞬時になされたようだった。実態として、TCKという仮想実体同士のやり取りというより、より物理層に近い低層でデータのやり取りがなされたのだろう。
この世界の主は、既に元の気だるげな姿勢に戻っていた。先ほどまでのうだるような欲望は消え失せており、その残り香だけが初秋の残暑のように身体を取り巻いている。よどんだ男の声が、再び脳内にこだました。
「話は終わりだ。本番環境に意識体を戻したら、そいつは好きにしてくれて構わない」
“エムワン”を一瞥すると、黒い人型のくりぬきはゆっくりと左腕を頭上に掲げた。名残惜しそうな雰囲気は欠片も感じられず、淡々とした作業然としている。
茜とゲームマスターと思しき男の間で何らかの取引が行われたのだ。あのわずかな時間のアイコンタクトの間に、彼女はこの気難しい男を籠絡してみせた。つい数分前まで、“エムワン”は特別だなどとのたまっていたにも関わらず、男は最早、露ほどの興味も持ち合わせていないように見えた。
「ちょっと待って。ここで始末をつけたいのだけれど」
茜の口から飛び出した物騒な言葉に、僕はぎょっと身体をすくませた。
「……茜ちゃん、それって」
「? 本来の目的を達成するの。何かおかしい?」
腕に止まっている蚊を叩き潰すようなためらいのなさがあった。言葉とは裏腹に、まなじりは下がり、口角はうっすらと上がっている。その表情は、一周回って作り物めいていた。誰かが透明な釘を打ち込んで、顔の筋肉をそこで固定してしまったよう。
ゲームマスターが口をはさむ。
「余計な処理が増える」
「計算資源ならさっき充分渡したじゃない」
「まさかあれほどためこんでいたとはね。最初からあれくらい供出してくれれば、今回のような処理落ちも防げたやもしれないのに」
「保険をかけておくことは重要よ」
「君の場合は度が過ぎるんだよ……まぁ良い。見たところ、もう虫の息だ」
すぐ済ませてくれよと言わんばかりの物言いに対して、茜が見せた表情――上気した顔の中心に、満面の笑みが狂い咲いていた。それは彼女が初めて見せた、内奥の素直な発露だった。




