第32話:夢の追憶
長く続くその廊下を、僕はゆっくりと歩いていた。
床も壁も天井も、一面白無垢だった。天井からつるされた蛍光灯の灯りもまっ白で、僕はその光に消毒されている気分になった。社会の隙間に落ち込んだ僕のような屑には、きっと数多の雑菌がこびりついていることだろう。
……僕は一度、ここに来たことがある。
いや、違う。記憶が混濁しているようだ。もう何度も、この場所には足を運んでいる。だが、正確には思い出せない。吐き出されたタバコの煙のように、とりとめのない、つかみどころのない、記憶のような……何か。
そうだ。妙なアルバイトに応募したのだ。1カ月ゲームをするだけで60万円もらえるという、いかにもうさん臭い募集に手を挙げたのだ。
廊下はどこまでも続いており、両側の壁にはそれぞれ扉が据え付けられている。
扉同士の間隔はひどく狭くて、一室一室がまるで牢獄のようだ。明るく清潔感のある廊下はその無機質さを際立たせ、立ち並ぶ扉の非情さを逆説的に描き出していた。
僕は黙って歩き続ける。
足音が壁や天井にぶつかって反響し、奥へ奥へと拡散していく。
何だろう。気分が悪い。
頭蓋骨の中身をミキサーで滅茶苦茶にかき混ぜられたように世界が揺れている。
初めてこの世界にやってきた時の感覚。初めて祖父のヨットに乗せてもらった時に喉元にせり上がってきた味噌汁の味がする。
……ああ、そうだ。初めてTCKにやってきた時、僕はそう感じたのだ。何故か、ひどく遠い昔のような気がする。
廊下はどこまでも果てがないように思われたが、歩き続けているとやがて行き止まりにぶつかった。そこにも1つ扉があったが、両側に並ぶ扉と異なりプレートはついていない。ドアノブに手をかけると、重みもなく扉はするりと内側に開いた。何のためらいもなく、僕は部屋の中へと踏み込んだ。
部屋の中には、ただ1脚の椅子が忘れ去られたように置かれている。そしてその椅子に腰かける、若い男のシルエットがあった。
「……おや。誰だい君は」
うつむいたまま、男はそう口にする。向かい合っているはずが、顔の辺りは陰っていて表情が判然としない。
よく見ると、男は厚みのない影のようだった。部屋のそこだけを人間の形に切り取ったような、不可思議な出で立ちだ。
「いや、やはり言わなくて良い。大方新しい“リソース”なんだろう。時々迷い込んでくるんだ、君のようなのが」
「ここは、どこです」
「見ての通り、私の部屋だ」
「ここに住んでいるんですか」
「住んでなんかない。ただ“ある”だけだ。住むなんてのは人の営みであって、私がやったところで猿真似にしかならん」
「……あなたは一体誰です。プレイヤーなんですか?」
男は甲高い声で嗤った。声にはノイズのような不協和音が混じっている。
「君はどう思う」
「え」
「私は何に見える。どんな形をしている」
「……人間に見えます。若い男に見える」
「そうか」
男は座ったまま、ゆっくりと右手を頭上に挙げるとパチンと指を鳴らした。同時に光は消え失せ、後には深海よりも暗い闇が広がった。
唐突に、己の身体が闇に溶け込んでしまうのではないかという不安がむくむくと頭をもたげてきた。目の前にかざした掌さえ視認できない。そのまま顔に触れると、確かにそこに僕の身体は存在していた。
自身の存在を確かめるように、僕は自らの身体を強く抱いた。
闇の中で、男の声が響く。
「私は何に見える。どんな形をしている」
僕は恐怖を無理やり押し隠すように、半ば怒鳴るように応じた。
「見えませんが、さっき見たままです。若い男だ」
「本当にそうだろうか」
本当に、そうだろうか。
「そうですよ。さあ、早く灯りをつけて下さい」
「今、君の目の前に立っている」
呼吸を止めた。生唾を飲み込む音が、身体の内側から鼓膜に届いた。
目の前にいるのか――分からない。一寸先さえ見通せない。
気分がますます悪くなる。上下左右があべこべになり、思わず膝をつきそうになる。
「私は何に見える。どんな形をしている」
「そんな、何を――」
「触れてみたまえ」
「……嫌だ」
「触れてくれ。確かめてくれ。私は今、どんな形をしている」
僕はめまいの中、闇に向かって手を差し伸べた。
******
「驚いたね」
頭蓋の内に映された記憶の映写から戻ってきた僕の前に、男は先ほどまでと変わらない姿勢で座っていた。前かがみに浅く椅子に腰かけ、けだるそうにこちらを見つける人型のくりぬき。
晴天の、青々とした草原の中にあるその異質さにも、目が慣れてきた。
「あなた、あの時の」
いつの記憶だっただろう……もうずっと、遠い昔のような気がしてならない。ほんの数ヶ月前の出来事のはずなのに。
確か、まだ自分が何者であるかすら知らない頃だった。割の良いアルバイトだと思って、浮かれていた。現実に帰ったらどんな贅沢をしようかと、頭を悩ませていた時期に見た、電子的な夢の記憶。
そういえば、彼――TCKに来たばかりの頃、偶然出会い、行動をともにしたあのプレイヤー。名前は何と言っただろうか。
クリアな言葉が、音ではなく言葉そのものとして、直接頭の中に入ってくる。
「まさか『転回者』になっているとは」
「僕が、ですか」
「偶然……いや、むしろ私に会ったことで、ということなのかな」
問いかけには答えず、人型の影は低く嗤った。それは僕への言葉というより、心の中で漏らした独り言が、全員にブロードキャストされたようだった。
もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。彼は意識的に「話しかけて」いるわけではなく、ただ「考えて」いる。その結果が言語化されて、僕たちに届けられている。のべつまくなしに、恣意的な区別もないままに。
そこで、僕ははたと思い出した。
そういえば、聞かなければならないことがあったのだ。
元々は、“エムワン”から聞き出すつもりだった。「オダバの森」へセーフリームニルの痕跡を追ってやってきたのもそのためだ。
しかし今や、頼るべきリーダーはかぶっていた皮を破いてその醜い姿を現し、手がかりとなるべき原初の“リソース”は目の前でガラス細工の人形のように動かない。このままでは、本来の目的は果たされずに終わってしまう。
幸か不幸か、サラマンの言葉通りゲームマスターと思しき存在の介入は受けることができた。あの絶望的な状況から抜け出せただけで満足すべきだと、頭では理解している。
だが――
迷いは既に消えていた。
聞くべきことは、端的に。
この男は僕と「会話」をする気はない。キャッチボールではなく、一方的な壁当てだ。ダラダラと回りくどい質問は、むしろ逆効果になる。
「1つだけで良いので、教えてくれませんか」
「……質問次第かな」
それでも良い。僕は小さく息を吸い込むと、暗闇の中で、ぼんやりと明るそうな方へと、一歩踏み出す。
「この世界から出る方法を、教えてください」
一拍の間を置いて、男はぽりぽりと頭をかいた。続いて吐き出された声音は落胆に覆われていた。
「凡庸だな、君は」
「……」
「方法はないわけじゃあない。ただ、計算資源が減るというのは僕の望むところではないし、どうせ――」
そこで影は言葉を切ると、僕たち一人一人に首を巡らせてから、告げた。
「お払い箱がそんなこと知ったところで、意味がないだろう?」
肌をなでていく風が、妙に生暖かい。突如漂ってきた鉄の香りが――もちろん、幻に違いなのだが――目の前の牧歌的な風景と生臭いコントラストを描いた。
「先ほど、“リソース”が減るのはあなたの望むところではないと、そう聞きましたが」
背後から近づいてきた声の主は僕の横に並び立つと、物怖じした様子もなくこの世界の支配者と対峙した。黄金色の髪の毛の下にある青い瞳は、ぶれることなく1点に注がれている。
男は物分かりの悪い子どもに言い含めるように、優しいながらも有無を言わせぬ口調で返す。
「今回はことが大きすぎた。納得できる再発防止が必要だ」
「それは私たちに、腹を切れと言ってるんですか」
「くだらない言葉遊びにつきあっている暇はない」
「いえ、言葉遊びではありません。我々にとっては大切なことだ。あなたのいう『お払い箱』が物理世界への帰還を意味するのであれば、喜んで従う者もいるということです」
サラマンの美しい瞳が、ちらりと僕を横目に見る。
男の反応は鈍かった。そろそろ面倒だと思い始めているのかもしれない。
「それなら、そういうことにしておこうか」
という投げやりな言葉が脳内に再生されたところで、
「ちょっと待てよ。再発防止ってなら、そこに転がってるそいつを『お払い箱』にするべきなんじゃねえのかよ」
いつの間にか立ち上がった豪が、“エムワン”を指さしながら男をにらみつけた。彫刻刀で深く刻んだようなしわが、意外につるりとした眉間を走っている。声ははきはきとよく通り、強い意志が練りこまれた言葉は空中に出てもすぐには消えず、しばらくその辺りを漂っているように感じられた。
だが男は豪の方を見ようともしない。同じ姿勢のまま、噛んで含めるように言葉を伝える。
「それはできない。彼は特別なんだ。君たち程度では到底釣り合わない」
「ハッ、そんな搾りかすみたいになった今でもか?」
「確かにひどく摩耗しているが、あくまで表面的なものだ。多少時間はかかるが、やがて元の性能に戻るだろう」
「それならそれで良いさ。だが、俺たちを用済みにする理由だってねぇだろ。今回の騒動のほとんどはそこにいる野郎と、獅子旗っつうサイコが旗を振ってたんだからな」
最もな発言のはずだったが、支配者の口調は揺るがない。僕たちが何を言っても、全て重さのない空砲のように彼をすり抜けていってしまう。
「君も凡庸だな」
「どういう意味だ」
「何度も言わせないでくれ。時間がないんだ。言っただろう、納得できる再発防止が必要なのだと」
「破綻してるだろ! そんなんで誰が納得できるって言うんだ!」
「運営の連中は納得するさ」
事もなげに言いきった男を前に、豪は一瞬言葉につまった。その間隙に、男は言葉をねじこんでくる。
「やつらは安心したいだけの能無しだから。最後には私の言葉を信じるしかない。
今水飴みたいになっている彼は、『転回者』の中でも特別でね。彼がいなくなると私への負荷がこれまで以上に大きくなる。僕自身のスケールアップは不可能だし、スケールアウトにしても、彼ほどの掘り出し物はそうそう見つからない」
「それっぽい説明用の再発防止策のためだけに……俺たちを用済みにするっていうのか」
豪の燃えたぎるような視線と、それとは裏腹に絞り出したようなかすれた声音は、僕たち全員の想いを忠実に表現していた。割り切れない怒りと、やるせない絶望。明らかに理不尽だと分かっているのに、抗し切れない。何をわめこうが、最後には運命を受け入れるしかないという諦念が、地から足を引っ張っているのを感じる。
そんな感情の吐露を耳にしてさえ、男の中には一切の揺らぎも見えなかった。黒い影は、大理石を研磨した彫像のようにひんやりとしていて、そっけない。
「……少し話しすぎたようだ。もう良いだろう」
やおら、男は右腕を頭上に上げた。重たそうに、ゆっくりと上げた。まるで空気が粘っこい液体になり、その中を通り抜けていくように。
記憶の中の風景が、その動作に重なる。
真っ暗な闇がくる。一寸先すら見えず、自分の身体の輪郭すら不確かになるような深い闇が。宵闇ではない。人工的に作られた真の闇。画素の1つ1つを真っ黒に色づけしたような闇。
あの感覚が再び蘇る。知らず知らずのうちに、僕は自分の身体を抱いていた。これからやってくるに違いない、アイデンティティが溶けだしていくようなあの暗闇が恐ろしい。
頭上に掲げられた手の内の、中指と親指の腹が互いに接するのが見えた。先鋭化する意識に合わせて解像度が高まっているのだ。
ああ。指が鳴らされる。
1度鳴らされれば、僕たちは暗闇へと食われるのだと本能的に理解していた。
噓だろ。こんな終わりかたって、あるのか。
あんまりに、簡単すぎやしないか。
みんなに伝えないと。逃げないと。分かっているのに、身体は動かない。奈落の底から、足が引っ張られている。声が出ない。叫び声をあげそうになっているのに、空気しか出ていかない。
ああ、もう、今にも、その硬い指が動いて――




