第31話:ゲームマスター
その時確かに、僕は消えた。
ぷつりとテレビの電源を落とした時のように、唐突に。
そしてすぐさま再読み込みされた。事態を飲みこむより早く、一連の出来事は終わっていた。
先ほどまでと同じ光景が広がっていた。頭上に照る太陽、ゆったりと地をなでる風にそよぐ青々とした草。ぽっかりと空いた草原を取り囲むようにして、鬱蒼と緑が茂っている。
そう、ここは「オダバの森」の中。
地面は滑らかで、クレーターのような穴ぼこは見当たらない。太陽は手の届かない天上からじりじりとした日差しを放っている。間違っても、地面に向かって「引っぱられて」などいない。
すべてがなかったことになっていた。茶色くはげた大地も、空間の歪みも、ボールペンでついたようなドット抜けすらない。まっさらで、普段通りのTCK。
どういうことだ。すべてリセットされたのか。
さっきの声はなんだろう――。
そこまで思考を進めてから、僕の視線は目の前に立つ“エムワン”に吸い寄せられた。
彼の姿は、元に戻ってはいなかった。透き通った痩せぎすのマネキンは、糸の切れた人形のようにうなだれている。陽光がその透き通った身体を通ると、美しいガラス細工のようにキラキラと光が舞った。しかしそれを目にしても、空っぽの人形は空っぽの表情を浮かべているだけだった。
黒い蟲たちの姿はどこかへ消えてしまっていた。視線を落とすと、そこには見飽きた自分の身体があった。その上をうごめく何かが見えた気がしたが、気のせいだ。
こいつは、既に脅威ではない。
そう認識して初めて、僕は仲間の安全を確認した。
サラマンが片膝を立て、優しげにそよぐ草をなでている。いや、正確には感触を確かめている、という表現の方がしっくりくる。フィードバックを確認しながら、頭を整理しているといった様子だ。
少し離れた場所に、路唯が茫然と立っていた。たった今起きた出来事に頭が追いついていないらしく、表情がそげおちている。その狡猾そうな瞳だけが、無意識下であっても情報を見逃すまいと、すばしっこく右へ左へと動きまわっている。
そのすぐわきに、2人の姉妹がぺたりと地面にお尻をつけていた。一見年下のように見える姉が、妹の身体をのぞきこんでいる。阿羅の左腕を心配しているようだったが、不思議そうに無事な左腕を見つめる妹の姿を見て、姉の顔にはほほえみが広がった。
消えている。確かに阿羅の左腕を蝕んでいたはずの狂気が、きれいさっぱりと。
「……なんだぁ、これぇ」
いつの間にか仰向けになっていた豪が、あんぐりと口を開けている。天に向かって開かれた胸には、阿羅と同じように、何のノイズも現れてはいない。
「豪、お前、胸は」
たどたどしく、ぎこちない問いが口からもれた。もう長い間、言葉をしゃべっていなかった気がする。
豪は姿勢を変えない。両の手足を少し開いて、全身に太陽を浴びている。彼が息を吸い込むと、軽装備に包まれた胸がかすかに膨らんだ。
「わかんねぇ」
「……なんだよ、それ」
「だから、わかんねぇんだって。つか、俺よかお前のがやばかっただろ」
要領を得ない答えに、もどかしさがつのった。
「僕のことは良い……妙な感覚とかないのか」
ド直球の質問を、豪は真っ直ぐに打ち返した。
「ない」
そして、こう付け加えた。
「さっきまでのお前と、この状況を除けば、だが」
******
その音を捉えたのは、僕だけだったかもしれない。嬰児の握りこぶしほどのため息が聞こえたのだ。小さいながらに、わざとらしさを含んでいた。とても控えめな、しかし聞えよがしな感情の暗示。その呆れとたしなめで織られた呼気は、数秒後には透明に薄まって見分けがつかなくなった。
直後、男の声が聞こえた。
「今回はまた、随分派手にやってくれたね」
ため息と同じように、そこにも呆れとたしなめが半々に織りこまれていた。
僕たちは一様に、声のした方に顔を向けた。先ほどまで何もなかった草原の中に、ぽつんと1脚の椅子が――椅子のような形をした影が――置かれていた。そこに、これまた若い男が――男のような形をした影が――腰かけている――ように見える。
椅子と男は、ガラス窓に描かれた絵のように厚みがなかった。立体的なのに、奥行きを感じない。空間がそこだけ、人と椅子の形にくり抜かれているようだ。
影は、やんちゃな子どもに言って聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。空気の振動としてではなく、思念が直接頭に送りこまれてくる。不純物を介しない分、そのメッセージは明瞭で、かつ多分に感情を含んでいた。
「『転回者』同士の係争はご法度だと、何度も伝えたはずだが」
誰からも返事はない。全員が息をのんで、人型にくりぬかれた空間の穴を見つめている。言いたいことは沢山あった。たった今、何が起きたのか。ここは先ほどまでと同じTCKの世界なのか。そして、今しゃべっているあなたは――。
しかし、僕にはかかしのように、少し傾いて突っ立っていることしかできない。への字に結ばれた口は縫い合わされてしまっている。
オーディエンスが無反応だったことに対してか、あるいはそれも独り言の続きなのか、男はゆるゆると頭を振る。若い男のシルエットのはずなのに、その仕草は妙に古ぼけている。姿形とふるまいの、奇妙なギャップ。
「君はね、腐った大黒柱だよ。それもただ腐ってるならまだしも、中にいっぱいシロアリを飼っている。本当に頭が痛いよ。今回だって、できることなら引きこもっていたかったのに、まさかエリア一帯のメモリを丸々食いつぶしてしまうなんて……おや、返事がないかと思えば、何だいその有り様は」
そこまで聞いて、男が誰に話しかけていたのか合点がいった。目の前にいる、このガラス細工の抜け殻に向かって話しかけていたのだ。
男は“エムワン”をしげしげと眺めると、「手間のかかる……」とぼやいた。
僕らなど、そもそも視界に入っていないかのごとく振舞っている。それに腹が立ち、僕はちょっかいを出してやりたくなった。
「さっきから、誰に話しかけてるんですか」
影の男と“エムワン”しかいなかった世界に、僕は土足で踏み込んだ。無遠慮な声のトーンを選んだのは、そう意識してのことだ。無粋で横柄な顔をして2人の間へ分け入っていくのは勇気がいったが、1度足を踏み入れるとそれは蜜のようにどろりとした快感になった。男の意識が、はるかな高みから僕の存在を捉えるのを感じた。
男は数秒間を置いてから、ゆっくりと言葉をついだ。
「……ああ」
「何です」
「丸ごと複製した内の1人か……もしかして君かい、彼をこんな水飴みたいにしてしまったのは」
「ええ、そうですよ」
努めて何でもないことのように答えた僕を、男はじっと凝視している。真っ黒な凹みの向こう側で、本物の顔が僕を観察している気がした。自分の仮想的実体を、ハードとソフトの両面からスキャンされている気分だ。男の顔の中心がざわりと波打ち、その円形の余波が頭の表面をなでて後頭部へと消えていった。
「つまらないはったりにしか思えないけど、何でだろ、読み切れないな」
小首をかしげる男に、僕は疑問をぶつけてみた。
「嘘はついてませんよ……あなた」
ひょっとして、ゲームマスターじゃないですか。
男の影は否定も肯定もしなかった。前かがみで椅子に腰かけたまま、じっと動かない。
僕はそれを「肯定」の返事だと受け取った。
「どうせさっきまでの様子も観察してたんでしょう? 何たってこの世界の頂点に立ってるんだから。僕がやったんだって分かってるはずです」
あからさまな誘い水だったが、男の返答にためらいはなかった。
「……悪いけど、私は君たちと違ってリソースを遊ばせとく余裕がないんだよ。君が彼をこんなにしてくれたおかげで、今はログだって読んでるひまがないんだ。このお遊びで投影している影だって、本当ならすぐさま消し去って、本番環境の稼働維持リソースに当てたいくらいさ」
「じゃあ、何故こんなまどろっこしいことをしてるんです」
「何を分かり切ったことを。ポーズだよ、ポーズ」
「……それは誰に対しての、ですか」
「そんなこと知ってどうするんだい、どうせ――」
そこで突然、男の言葉が途切れた。調子の悪くなったラジオがぶつりと切れたような後味の悪さが漂った。
奇妙な間が空いた後に、男は静かにつぶやいた。
「見覚えがあるな」
「え?」
「寂しいな。自分から訪ねておいて、それはないだろう」
その言葉の意味を理解するのに、しばし時間が必要だった。
僕は、1度この男に会ったことがあるのか? 記憶の沼の中に手を突っ込んでかき回してみたが、それと思しき感触はない。もしかして、TCKに来る前のことを言っているのか? いや、流石にそんな偶然はあるはずがないか。
その時、こつんと何かが手に当たった。手を抜いてみると、どうでも良い記憶の泥の中に、黒い石のようなものが埋まっていた。
それを、何の気なしに額に当ててみる。
直後、記憶は驚くほど鮮やかに、蘇った。




