第30話:臨界点
頭蓋が燃えている。眼球の裏側で火花が散る。
僕はゆっくりと立ち上がった――いや、特に「立ち上がろう」と考えたわけではなかった。気づけばいつの間にか、僕は身体を起こしていた。上空から垂れる見えない糸が、僕の身体を勝手に操ってしまったようだった。僕は小さくなって、操られる僕自身を内側から見つめていた。
息を吐くだけで、横溢した力が口元からあふれた。沸騰したやかんの注ぎ口からもうもうと噴き出す水蒸気のように、それは熱かった。
最初に目に入ったのは、すぐわきに転がっている豪の姿だ。形の良い後頭部がこちらを向いている。どうやら身体をもたげようと四苦八苦しているようだったが、小指の先すらぴくりとも動いていない。鋭いピンでガラスケースの中に留められた巨大な蛾のイメージが、何故か重なる。
何かが地に伏す音が耳に入る。首をそちらに向けると、サラマンが四つん這いになっていた。先ほどまで巨大な剣が握られていた腕は、今は自身の身体を辛うじて支えるためのつっかえ棒として機能していた。
気分がすぐれないのか、うつむいた顔面の側面は蒼白だった。それでも亀のようにゆっくりと重たげに首をもたげると、彼は僕を見つめた。
(……何をしているんです)
彼の瞳はそう訴えかけていた。声はおろか、口すら動いていなかったが、僕には分かった。サラマンの瞳の奥の水晶体を透かして、彼の精神がむき出しになって視える。
(見て、分かりませんか)
僕が見つめ返すと、彼は即座に返答を投げてよこした。
(その口から漏れだしているのは、何です)
(僕たちを守る槍です)
サラマンのむき出しの精神が、驚愕に震えた。
僕は微笑みを浮かべると、彼に告げた。
(そこで、観ていてください)
そうして、やつと向き合った。
仮面のようだったその顔に、表情が生まれていた。人間らしくはなかった。むしろ野生の狼の遠吠えのように、荒削りで生々しい感情の発露だった。
そんなことは、どうだって良いんだけれど。
消してやる。みんなを守る。跡形もなく。生き残る。仇を討ってやる。一条さん……
耳元でぶんぶんと蜂がうなっている。耳障りな音だった。思考がまとまらず、崩されたブロックのようにバラバラだ。どこをどうすれば元に戻るのか、もう分からない。
僕と“エムワン”は、鏡に映った鏡像同士のように腕を伸ばした。僕の右腕とやつの左腕が、同じ角度で伸びる。
その右腕に、ざわりざわりと黒い蟲たちが生えてきた。蟲たちは僕の肌を食い破って出てくると、そのまま地面に落ち、少しだけ苦し気にのたうって消えた。植物が育つ姿を早回しで観ているように、黒いうねりは次々に僕の腕から発芽しては、数秒後には腐って地面に還っていく。
蟲がはい出す度に、腕を熱したドリルで貫くような感覚が襲った。痛みは感じないはずなのに、それに近い感覚が神経を伝わってくる。
蟲たちは腕の先端から徐々に身体の中心を目指し始めた。前腕から肘へ、二の腕の柔らかな筋肉へ、肩甲骨へと、僕を黒く作り替えていく。
僕たちがかざす腕の間を中心にして、空間がたわみ始めていた。頭上の太陽が、僕たちに向かって落ちてくる。大きさは変わらない。空のグラフィックに2次元的に張りつけられた太陽のイメージだけが近づいてくる。
まるで空が布か何かでできていて、そこに描かれた太陽のテクスチャを透明な巨大な手がつまんで引っぱっているようだった。目を凝らせば、布のように空にもしわができているのが見えるかもしれない。
光源設定がおかしくなったのか、地面の至る所に影が落ちた。朝焼けのような、夕焼けのような温かな橙色の光が、四方八方から僕たちを照らした。
他の仲間たちは目に入らない。右半身を覆わんとしている黒い蟲たちも、内側から熱したマグマがあふれるような感覚でさえ、今の僕の意識を遮ることはできない。
毛穴から噴き出す黒い力を、ある1点に集中させる。散らばっていた力の向きを、力任せにぐいと転換させる。すると力は徐々に、その座標に向かって進み始めた。針孔ほどの黒いドット抜けが、瞬く間に野球ボールほどの大きさに育った。
“エムワン”には、相変わらず何の変化も見られない。枯れた白樺のごとき左腕を、黒いぼろ切れの隙間から差し出している――と、その腕の皮が、ゆっくりと動き始めた。
腕だけではない。その身を覆う黒いぼろ切れも、乾いて粉の吹いた顔の皮膚も、まるで生き物のように波打って、やつの背後へと流れ始めた。
僕の力の集積が、そこにあった。“エムワン”の身体を透かして、僕にはその背後にある黒く重たい野球ボールの輪郭がはっきりと感じ取れた。
この空間においてそこが、今すべての中心なのだ。
あの黒い球の重さによって、空間が3次元的にたわんでいる。
降下してくる太陽のテクスチャが、ゆっくりとその着地点をずらし始めた。僕が作り上げたブラックホールに向かって、空が落ちていく。
地面がゆっくりと傾斜し始めた。“エムワン”の背後の地面が水飴のようにもちあがり、中空に浮かぶ黒い窓へと吸いこまれようとしている。
目の前に立つ怪物は、文字通りの「怪物」に変容しつつあった。身にまとっていた黒衣はもうない。立ち枯れた樹のように貧相な体躯が大気にさらされている。
そしてその身体さえ、背後の黒球は飲みこもうとしていた。顔を覆っていた白く干からびた肌が背後へと引っぱられ、今にも鼻の中心から真っ二つに裂けそうだ。そして事実、そうなった。あっけないほど簡単に“エムワン”から引きはがされた表皮の抜け殻は、一瞬寂しそうにはためいた後、闇の胃袋の中へと消えた。
残ったのは、皮膚のテクスチャが貼りつけられる前の、骨格をかたどったつるりとしたモデルだけだった。硝子でできたマネキンのようなそれには顔はおろか、乳首もへそもついていない。周囲との境界が極めてあいまいなそれは、つつけば霧散してしまいそうなほどに頼りない。
ああ、自分の中もああなっているのか……月並みな感想が心に浮かび、すぐに闇の中へと消えた。
指先に更に意識を集中する。自分からわきでた力の根源を、一滴も無駄にすることなくあの塊へと導くために。
見た目に反して、“エムワン”の残りカスはしぶとかった。背後で大きく口を開ける貪食の闇に耐えながら、なおも左腕を伸ばし続けていた。しゃぼん玉のように透き通った手が、空中をまさぐるようにもぞもぞと動いた。
消してやる。あの時のキュクロプスのように。何の痕跡も残さずに。
脅威を排除するという強靭な意志だけが頭に残っていた。名を呼ぶ仲間たちの声が聞こえた気がしたが、錐のように先鋭化した意識はそれを雑音として処理した。自我が侵食されている感覚とともに、内側を浸す全能感があった。
全身が煮えている。気がつくと、頭のてっぺんから爪先まで、あます場所なく黒い蟲に食い破られていた。絶え間なく走る電撃のような衝撃。血液が溶鉄に入れ替えられたような熱。
力をこめた右腕にノイズが走る。それは巨大なモザイクのように見えた。獅子旗に身体を掴み上げられた時とは、また異なるノイズだった。このTCKを構成する微細な画素が突然壊れでもしたようだ。
頭蓋が燃えている。眼球の奥で火花が散る。
HPは――未だにそんな概念が残っていることが驚きだが――もともと獅子旗との闘いで小指の先ほどしか残っていなかったが、今まさにそれも尽きようとしていた。ノイズのかかったHPバーの色は、血のような赤黒い色をしていた。
もう、時間がない。
……いや、もうそんなことは関係ない。
この力を使って、やつを消す。それだけだ。
力の暴風雨が吹き荒れ、自意識は紙くずのように引き裂かれていく。
自分の代わりに、原始的な衝動でできた何かが僕を占拠しようとしている。
踏みとどまろうとする理性のたがに、ぴしりとヒビが入る。
ああ……飲みこまれる。
ミイラ取りがミイラになる……これほど皮肉な話があるか。
視界に映る景色が、滑らかさを失っている。僕と“エムワン”が引き起こした天変地異が、TCKの演算性能の臨界点を突破したようだった。フレームレートが低下し、時間が飛び飛びになっているような感覚がある。
処理落ちする――
そう直観した刹那、
「そこまでだ」
聞き覚えのある声が響くと同時に、世界は暗転した。




