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気弱なチーターは現実世界に戻りたい  作者: origami063
第4章:“エムワン”討伐編
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第29話:決壊

 一条の身体がゆっくりと倒れていく。


 コマ送りのマンガを見せられているようだった。1枚ページがめくられるごとに、彼は地面と水平に近づいていく。地面が近づくごとにページがめくられる速度は徐々に遅くなり、やがて完全に静止した。


「あ……」


 漏れ出た声が引き金になったのか、次の瞬間、一条の身体は力なく地面に投げ出されていた。魂の逃げ出したあとの抜け殻のように見えた。


 豪を抱えたまま、僕はただその光景を眺めていた。首をめぐらせた不自然な体勢のまま、足に根が生えたように立ち止まって。


 何の感情もわいてこなかった。悲しみも、怒りも、恐れも、何も。

 ただ真っ白い色が、そこにあった。網膜に映る世界はその表面にとどまって、己の奥までしみこんでこない。

 心が拒否していた。目の前の現実を受け入れることを、きっぱりと拒絶していた。真っ白で何もない虚無しか残っていない。


「一条さん!!」


 叫び声が聞こえた。これは、阿羅(あら)の声だ。悲痛に満ちた彼女の声が耳の中にずっとエコーしていく。


 一条さん! 一条さん! 一条さん……


 声が消えた頃には、僕は現実に背を向けていた。ダチョウの卵のように分厚い殻の中に閉じこもると、外界の音はおろか、光もにおいも漂ってはこない。受け止めたくない出来事が起きた時、ここは良い避難場所になる。


 頭の内側に作り上げたシェルターの中に、僕はぺたりと座り込んだ。


 そういえば、阿羅の左腕は大丈夫だろうか。ひどく怯えた様子だったから、後で声をかけにいってやろう。

 (あかね)だって心配だ。今だって1人森の中で僕たちの帰りを待っているに違いない。心配性な彼女のことだ。今頃きっと、皆の帰りが遅いこと不安に思っている。


 ……ああ、やはり駄目だ。僕は頭を膝の間に埋めると、真っ黒な床を凝視(ぎょうし)した。そこに、コマ送りで倒れていく一条の姿が映る。色のない世界で、そこだけが古い映写機で投影されたようにうすぼんやりと輝いている。


 突如、火打石をこすりあわせたように、パッと怒りの感情が(おこ)った。僕は頭を抱えたまま、ずっと下まで続く暗闇に向かって叫んだ。赤色をした僕の怒りはしかし、冷たかった。


 内側からざらついた声が聞こえる。黒い意志が、耳の奥でささやいている。


 そうだ……脅威は排除(デリート)しなければならない。

 あの時のキュクロプスや、ツカサに身をやつした獅子旗にやったのと同じように。

 この冷たい怒りの矛先を、やつに――


丈嗣(たけつぐ)ッ! ボサッとすんなっ」


 すぐそばから聞こえたハリのある声が、僕を現実へと引き戻した。周りを覆っていた薄膜が破れ、音の奔流(ほんりゅう)が耳へと流れ込んでくる。


「ほんっと、良い加減しゃんとしろよ、お前」


 肩に担いだ豪の口から、そんなつぶやきが漏れた。顔を見ずとも、若干呆れているのがありありと伝わってくる。


 そこでようやく、頭が「帰ってきた」ことを認識した。頭の内にこしらえたあのシェルターは、豪の(かつ)によって粉々に砕かれたのだ。


 ……また、逃げてしまった。自己嫌悪が、さびのように身体を覆っていく。


 小さく深呼吸をすると、気持ちが落ち着いた気がした。それと同時に、現実に向き合わなくてはという冷静な思考が頭をもたげてくる。

 現実逃避していても何も変わらない……現実を変えるには、ただ行動あるのみ。


「ごめん……ちょっとびっくりしてさ」

「何がだよ」

「……一条さんが」


 最後まで口にするまでもなく、豪は「ああ」とつぶやいた。しかし彼の声音には諦め以外の感情が感じ取れた。


「分かってる。だが、まだ身体は消えてないだろ?」


 そう言われてみると、確かに一条はまだそこに横たわったままだった。死体のようだが、かすかに身体が動いている。それが彼の意志によるものか、はたまたグラフィックのノイズのせいなのかは分からないが、まだ希望はついえてはいない。


 全身が熱くなった。張り巡らされた血管がわきたつ。希望が熱に変換され、心臓へと力が送り込まれ始める。


 僕の変化を感じ取ったのか、豪はわずかに身体を身じろぎさせると続きを口にした。


「もし……仮に死んでしまったら、TCKからも完全に消滅するはずだ。身体が残ったままなら、まだ充分可能性はある。それより――」


 話続けようとする豪の声に、僕の言葉が覆いかぶさる。


「分かってる。“エムワン”はまだ、一条さんのそばにいる」

「見ての通り俺はこのザマだ。やつが次の標的を探している内に、さっさとサラマンの野郎と合流しないと、一条さんに申し訳が立たねぇ」


 豪の言葉は強気だったが、彼の身体はかすかに震えていた。

 一条は豪をかばって、“エムワン”に討たれた。生意気で口の減らない男だが、仲間にかける想いは人一倍強い。彼の震えは、彼が感じる罪悪感を鏡のように映している。震えがかすかでも、それは深く、重たかった。


 サラマンは、少し離れた場所から駆け寄ってくるところだった。頭を押さえながら、翼の故障した飛行機のようにフラフラと近づいてくる。彼の磨き上げられた鎧に、豪を担いだ僕の姿が小さく映り込んでいる。


 あの状態で、闘えるのか。いや、もっと言えば、3人集まった程度で何ができるのか。

 アルクトスも、そして一条もやつの前では無力だった。2頭の(わし)を食った怪物に、3匹の鳩が寄り集まったところで餌が増えるだけではないか。


 満身創痍(まんしんそうい)で近づいてくるサラマンを見ながら、ふとそんなネガティブな考えが頭に浮かぶ。思いつきは深い部分まで染みこみ、いくら強くこすっても色は淡くならない。


 頭痛に侵されているためか、負の感情の蛇口が開いたままになってしまったようだった。次々に脳裏をよぎるイメージはいずれも暗い未来を暗示し、その度に僕の気は滅入った。頭痛の波が押し寄せる度に、僕もサラマンのように左右に蛇行しながらも懸命に足を動かした。


 サラマンの姿が近づいた時、彼の鎧に黒い影が映っているのに気づいた。僕の後ろに、枯れ木のように力のない影が映っている。サラマンのやつれた顔に、絶望のスパイスがふりかけられた。こけた頬の筋肉がこわばり、光沢のない瞳を宿したまぶたが大きく開けられる。


 パリッ、という空気の裂ける音がした。音と同時に、サラマンの鎧に映り込む影が大きくなる――いや、近づいてくる。

 僕は必死に脚を動かした。サラマンに近づいたからといって、何が起こるわけでもない。ただそうしなければならないという使命感が、油の切れた脚部を動かし続ける。骨と関節が(きし)む嫌な音が、身体の内側から響いてくる。


 サラマンが立ち止まり、腰を低く落とした。顎を引き、上目遣いに僕の背後に迫る影をにらみつけている。しかし軸が安定していないのか、彼の身体はいかりを失った帆船(はんせん)のように頼りなく、かすかに揺れている。


 パリッ。


 もう、鎧を通して背後の様子をうかがうことはできない。サラマンは上体を前方に倒している。


 パリッ。


 担いだ豪の荒い息遣いが、着衣を通して伝わってくる。音ではなく、触覚として。彼も状況は理解しているはずだが、じっと静かに時を待っているようだった。あるいは僕を信頼しているのか。


 パリッ。


 背後に濃厚な気配を感じた。触れんばかりの近さに、やつがいる。


 その時、幸か不幸か足がもつれた。声を上げる間もなく、僕は地面に無様に転がった。豪は辛うじて受身を取ったようだったが、どこかを強く打ちつけたのか低いうめき声を上げた。


 図らずも、それが攻撃の狼煙(のろし)となった。


 フラフラの身体を支えながら、サラマンが力を振り絞り両手持ちの大剣を振るった。ダメージが入っていようがいまいが、僕たち“リソース”にできることはそれしかなかった。この世界を治めるサディスティックな上位者が介入するまで、あらん限りを出し尽くし応戦するしかないのだ。


 研ぎ澄まされた一閃だった。構えた状態であれほどふらついていたにも関わらず、動きだすとまるでそこに不可視の道が彫ってあるかのように、サラマンの剣先はぶれることなく“エムワン”へと吸い込まれていく。流れ星のごとく、光が軌跡上で尾を引いた。


 その光が、途中で闇に吸い込まれ、消えた。いつの間にか、彼の腕に握られていた業物は黒いぐずぐずとした粉になり果てていた。

 何の予兆も、音も、においもしなかった。差し出された“エムワン”の腕は無機質で乾いている。たった今渾身の一撃を無に帰した達成感も、間一髪でかわし切った安堵もない。腕は工場の組み立てアームのように無感動に、元の位置へと戻っていく。


 サラマンの唇が震えている。形の良い、触れれば柔らかな反発を返すであろう唇は、今は固く引き絞られ、血の気を失っている。小さな悪態が、その口から漏れた。


 闇が腕を伸ばしてきた。サラマンも、僕も、豪も動けなかった。見えない力がものすごい力で僕たちを今いる座標に固定している。息ができないほど乱暴に。指一本動かせないほど密に。


 頭が割れるように痛い。頭蓋が燃えているのだ。小気味よい音を立てながら、脳が火花を散らしている。僕は声にならない叫びを上げた。叫びは外には出ずに、身体の中へと落ちていく。


 それに反応したのか、地下室の奥で正体不明の瞳がぎょろりと僕を見上げた。顔も口もなく、ただ闇に浮かぶ瞳だけがそこにあった。時を待っていた力がその周りに渦を巻いている。漆黒の荒々しい力が、竜巻のように内側から噴き出してくる。


 キュクロプスを消した時――ツカサに扮した獅子旗に力を放った時――その感覚が、時を巻き戻したようによみがえってくる。口を開くと、力がそこからとめどなくあふれていくような感覚がある。必死に歯を食いしばるが、歯の隙間から、鼻腔から、耳の穴から、全身の毛穴から、湯気のように立ちのぼってくる。


 使うべきじゃない。


 でも、もう身体が辛いんだ。それにあと少しで、あの怪物の腕が僕に届く。


 ――使うべきじゃない。飲み込まれるぞ。


 僕だって、何も好きで使うわけじゃない。これは正当防衛だ。みんなを、そして自分を守らなくちゃいけない。

 力が必要なんだ。この全身をひたす媚薬(びやく)のような力が。むせかえるほど(かお)っている力が。あの怪物を排除(デリート)するには、もう他に道は残されていないんだ。


 もう、声は聞こえてこなかった。


 1つしかない瞳は、相変わらず僕を見上げている。その虹彩に、きらりと星が(またた)いた。光のない心の地下室が、一瞬黒く照った。


 直後、



 僕の脳味噌は闇にとろけた。

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