第13話:闇に浮かぶ灯り
まるで、人型の穴が空中にぽっかりと空いているようだ。
一条は唾を飲み込むと、“エムワン”と思しきその影を目で追う。言い知れぬ禍々しい瘴気が、その穴から漏れ出ているように見える。不用意に近づけば、身体が腐り落ちるのではないかという不安が突如、胸に湧き起こる。
「……真っ黒だ」
背後からアルクトスの押し殺したような呟きが聞こえた。先ほどまでの彼とは別人のような低い声が背中に響く。
「色が読めない。こんなこと、初めてだ」
「色がどうのこうのって、さっきから何言ってんだよ」
人を食ったような路唯の問いかけに、アルクトスは口を結んだまま答えようとしない。
こんな時までチームを引っ掻き回すようなことをするなと、一条は思わず声を荒げそうになったが、ぐっと堪えた。
「まだ流王さんたちとは連絡が取れないみたいね。一旦様子見が良いかな?」
両手を双眼鏡のように目に当てながら、宇羅がこちらを振り向く。緊張した様子のないその普段通りの表情に、一条は胸を押しつぶすような圧力が少し和らいだように感じた。
「私も、それが良いと思います!」
麻袋を地面に降ろした茜が手を挙げる。宇羅とは対照的に、彼女は緊張のためなのか、びっくりしたように目を大きく見開いていた。
彼女は元々この作戦にも乗り気ではなかったから、恐らく闘いを避けるためにそう口にしただけだろう。茜には悪いが、こうした状況下でそうした個人の性格を織り込んでくる人間の意見は参考にできない。
ただ、結果論ではあるものの、一条も2人の意見に賛成だった。“エムワン”がどのような力を使うのか分からず、流王たちと合流できるか分からない以上、下手に手を出して返り討ちに合うのだけは避けなければならない。
一条がそのようなオーダーを下そうとした時、案の定、例のお騒がせ男が口を開いた。
「今、狩ろうよ」
「?! アルクトスさん、それはいくら何でも……」
茜の制止など全く意に介さず、アルクトスは続ける。
「目標がすぐそこにいるんだ。逃す手はないだろ」
「それはただの勘か?」
「ただの勘じゃない。仮にもTCKナンバーワンプレイヤーの勘だよ、おっさん」
「それじゃ俺たちは納得できん」
腕を組む一条に、アルクトスは正面から向き合った。
「僕は、こういう読みを外したことがない。ニオイで分かるんだ」
「指示を出すのは俺の役目だ」
「関係ないよ。力ずくが通用しない世界で、何を強制力に僕を従わせようとしているのかさっぱり分からないけど、止めたきゃ止めてみれば?」
せせら笑うアルクトスを睨みつけながら、一条は気取られぬように息を吐いた。
それ、こういうことになる。これだから、プレイヤーを同行させるのは反対だったのだ。
確かに彼の言う通り、力ずくで止めようにもPK禁止ルールのもとではどうしようもない。
茜は渋面でうつむき、宇羅は両手を腰に当ててうーんと唸っている。路唯は相変わらず皮肉そうな笑みを浮かべたまま、黙って事の成り行きを見守っている。
そうこうしている内にも、“エムワン”の影はフラフラと森の奥へと進んでいく。目的なく徘徊しているわけではなく、何かに向けて一歩ずつ歩みを進めているように、一条の目には映った。
やつがこのまま進めば、いずれ流王たちとかち合うはずだ。やはり、暫くは接触せず、遠くから監視するのが最良だろう。
「あんたの要望は理解した」
「お、流石おっさん話が早い。じゃあ早速――」
「ただ、1つ頼みがある。もう少しだけ、接敵を待ってくれんか」
「……それって、結局僕の意見は何も通ってないってことになるけど」
「いや、そうじゃない。
あのまま進んでいけば、いずれ流王さんたちと鉢合わせになるはずだ。進行具合から考えて、あと10分も経たない内に合流できるだろう。そしたらすぐにでもおっぱじめれば良い。
もし仮に、森の半分近くまで進んでも流王たちと合流できない場合、若しくはやつの進行方向が明らかに変わった場合でも、あんたの判断でコンタクトすることを認めよう」
「おいおい、いくら何でもそれは譲歩しすぎじゃねぇのか」
路唯の声には少し険が含まれていたが、宇羅がしかめっ面で彼の脇腹をつつくと、彼は両手を挙げて「お手上げ」のポーズを取った。
一方のアルクトスも不服そうに眉をつりあげた。再び反論されるかと思ったが、彼は少し逡巡した後「まあ、一旦飲み込むよ」と頷くと、路唯の方を振り返った。
「いずれにせよ、早くやつの後を追った方が良いね。路唯、一緒にもう少しやつに近づくぞ」
「はぁ? 何で俺が」
「嫌なら『瞳』をくれよ。こっちだって、お前自身には用なんてないんだからさ」
「……全く、ほんとに2人とも口さがないな。ほれ、さっさと行かんか」
一条がせっつくと、路唯とアルクトスは尚も小言をぶつけ合いながら姿を消した。
穏やかな空気が戻ったところで、茜がぽつりと呟く。
「意外とウマが合うかもしれませんね、あのコンビ」
そんなわけあるかと、一条は心の中で毒づいた。
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一条の視界の先に、小さくなった路唯とアルクトスの姿が見える。更にその先にいるはずの“エムワン”の姿は、ここからは闇と溶けあってほとんど見えない。
「どうだ、やつの様子は」
チャットで尋ねると、すぐさまアルクトスから返事が返ってくる。
「さっきとおんなじ調子で歩いてるよ……んあ、邪魔だなクソッ」
「どうした?」
「さっきの山羊がさ、丁度視界にかぶってくるんだよね。鬱陶しいなぁ」
「そんなことで集中を切らさんでくれよ。見失ったら終わりなんだから」
実力は申し分ないはずだが、どうにも肩の力が抜けない。この男はどこかで大ポカをやらかすんじゃないかという不安が、どうしても頭の中につきまとう。
その時、アルクトスの声音が少し変わった。
「……あれ」
「何だ」
「偶然だと思うけど……あいつ、こっち見たよ」
直接目にしたわけでもないのに、その情景がいやにリアルに脳裏をよぎった。ぞわり、と全身の毛が逆立つ。
「気づかれたのか」
「いや、この距離でまさかそんなことはないと思うけどなぁ」
一瞬ノイズがかかり、路唯の声が割り込んできた。
「やつを甘く見ない方が良い」
「うん。完全に立ち止まっちゃってるもんなぁ、あれ」
「近づきすぎなんだよ、お前は」
「ま、天才も時には木から落ちるし、河も流れるということで」
アルクトスの声の調子は場違いなほどに明るく、まるで遊園地に入る前の子どものように弾んでいる。
「仕方ないなぁ。静かに後をつけようかと思ってたけど、こんな『緊急事態』が発生しちまったんじゃ……ねぇ、おっさん」
「待て、まだ気づかれたと確定したわけじゃ――」
一条の言葉が終わらない内に、ブツリと彼とのチャットは途切れた。
まさか、アルクトスのやつ――
「おーい!!」
その声は、森中の全ての生き物の耳に届いたのではないかと思われるほど伸びやかだった。立ち並ぶ樹々を反射して、アルクトスの声はすぐに一条のもとへ辿り着いた。
「……馬鹿」
すぐ脇に立つ宇羅の口から漏れた呟きが、一条の想いを余すことなく表していた。
その呼びかけは、あまりにも素直だった。
“エムワン”が、我々の敵かどうかは定かではない。しかし同時に、味方だと確約されているわけでもない。
流王からの情報では、やつは非常に好戦的だという話だ。そんな得体の知れない相手に、突然隣人に挨拶でもするように真正面から声をかけたらどうなるのか。
いずれにせよ、もうこうなった以上、全員が隠れて様子を見ている必要などない。
一条は茜を残して、宇羅とともにアルクトスのもとへと向かった。全滅した場合に備えて、茜には離れた場所で引き続き監視を続けるように伝えてある。
アルクトスと路唯のもとへ到着すると、2人は既に武器と防具を換装済みだった。
「おいおい、何しとるんだ! いきなり喧嘩腰はなしって話だったろうが」
「興奮すんなって、おっさん。
あんたもホントは分かってんだろ? こいつに話が通じると思うか」
アルクトスは前方から視線を切らない。軽口を叩いてはいるが、その目つきには一塵の油断もなかった。
一条が彼の視線の先を追うと、予想外に近い距離に“そいつ”はいた。
アルクトスは「真っ黒」と形容したが、何とも言い得て妙だ。
遠目から見た時には影のよにしか見えなかったが、この距離だと“そいつ”が黒い襤褸切れのようなものを纏っていることが分かる。顔の半分近くは巨大なフードによって覆われており、不自然に白い唇が下半分から覗いていた。
「……おい、聞こえてるか、あんた」
一条の呼びかけにも返事はない。ただじっと、首だけこちらに向けているその様は、巨大な梟のようだ。
「あんた、“エムワン”だよな?
安心してくれ。俺たちは敵じゃない。ただ、あんたにちょっと教えて欲しいことがあるだけだ」
“エムワン”の半開きの口が、初めてもごもごと動く。
「……チガウ」
「何? “エムワン”ではないのか」
「オ前ダチハ……メ……変性者デハナイ……アカリガ……灯リガ邪魔ダ」
「どういう意味だ。何を話している」
「眩シサニ紛レル……邪魔ナ灯リ……闇ニガエレ」
“エムワン”の言葉の意味は分からなかったが、それが好意的なものではないことくらい、一条にも分かった。
「宇羅、換装しておけ」
影が、ゆっくりとこちらに向き直る。まるで子どものような体躯から放たれる圧力が、空気を酸化させ、一条の肌をジリジリと焼いた。




