第12話:薄闇の影
これは、面倒なことになったかもしらん。
薄暗い森の中を歩きながら、一条は気づかれぬように額に浮かんだ汗を拭った。セーフリームニルの足跡を追いながらも、彼の頭は別のことでいっぱいになっていた。
初めて流王の口から“エムワン”征伐の話を聞いた時には耳を疑ったものだった。何しろ、α版からTCKに君臨する「転回者」だ。多少腕に覚えはあるとはいえ、一介の“サンプル”である我々が盾ついて無事で済むとは思えない。
彼が決断力と実行力を兼ね備えた人間であることは分かっているし、だからこそ親子ほどの年齢差にも関わらず縁の下から支えてきた。
しかし……最近の流王はどうも度が過ぎているように感じる。いくらこの仮想世界から抜け出すためとは言え、得られる情報に仲間を危険に晒すほどの価値があるのだろうか。
「一条さん、流王さんから何か連絡は?」
陰鬱とした頭の中に、一筋の光がすっと差した。振り向くと、薄っすらと茶色がかった大きな瞳がこちらを見つめている。宇羅の声と言葉には、不思議と嫌な想像をかき消してしまう魔力のようなものが備わっているらしい。
「いや、さっきから何度もコンタクトしてるんだが、まるで返事がない。
初めの内は連絡ができていたんだが……」
「おかしいね。“エムワン”に遭遇したらすぐに連絡取り合える状況にしておきたいって言ってたの、流王さんなのに」
「もしかしたら、抜き差しならん状況なのかもしれん。いずれにせよ、引き続き俺からは連絡を取り続けてみるから、宇羅ちゃんたちは周囲の警戒を頼む」
はぁい、とおっとりした返事をした宇羅にかぶせるようにして、わざとらしい溜息が背後から聞こえてくる。
「あーあ、何でこんなとこでピクニックなんかしなきゃいけないんだよぉ」
あんなひょろっちいのが鳳凰騎士団――いや、ひいてはTCK最強と名高い騎士だなんて、一条にはとても信じられなかった。そもそも、プレイヤーが自分たち“サンプル”と行動を同じくしている時点で、服の中に生魚を入れられたように落ち着かない。
豪によれば、俺以上の「使い手」という話だったが……。
「まあまあアル君、落ち着きなよ」
「お前、馴れ馴れしいよ。僕のことアル君って呼んで良いのはサー君だけだ」
「『お前』じゃなくて『路唯』ね」
「どうでも良いだろ、そんなこと。サー君にイジめられてたくせに、あんまし舐めた態度取ってると、もっかい思いっきりイジめちゃうよ?」
「アル君も、口の聞き方に気をつけた方が良い。寛仁よりも先に、お前をやったって何の問題もないんだ」
その上この性格だ。流王は、これを分かってアルクトスをこっちに寄越したんだろうか。だとしたら、後で文句の1つでも言ってやらないと気が済まない。
加えて皮肉屋の路唯も一緒とは……「オダバの森」に入ってからずっとこの調子だし、聞いていると頭が痛くなってくる。
そもそも会話に出てくる寛仁というのは一体何者なのだ。
「ちょ、ちょっと、ああの、やめた方が良いですよ、こんな時に」
茜もシャイな性格ながらに頑張ってくれているようだが、2人はまるで聞く耳をもっていない。大きな麻袋を引きずりながらオロオロとしている様子だけ見ると、まるで迷子になった中学生だ。
こんな調子で、いざ“エムワン”と対峙した時に適切な対応ができるのだろうか。
そろそろ一言釘を刺しておこうかと思った矢先、一条は足元の様子を見て立ち止まった。
「おっと、急に立ち止まらないでくれよ」
路唯がおちゃらけた調子で声をかけてくる。一条はそれには反応せず、低い声でつぶやく。
「……ここだ」
「……何が、どこ?」
「茶化すな路唯。足跡がここで途切れてる」
一条の背後から進み出てきた宇羅が、地面に屈みこむ。
「ホントだ。セーフリームニルの足跡、ここからいきなり始まってるみたい」
「そ、それって『オダバの森』で湧いたってことですか?」
茜の問いかけに、宇羅は顔をしかめる。
「うん……今の状況だけだと、そういうことになるんだと思う」
「おいおい、冗談だろ? このエリアで魔物は出現しないはずじゃねーの」
アルクトスが無邪気な声を上げた。
「このシケた森にいるのなんて、それこそ――ほれ、あそこにいるアホ面くらいのもんだろ」
彼が指し示した先の木立の中に、白い姿がちらりと垣間見える。一条が目を細めると、角の生えた獣がじっとこちらを観察しているのが分かった。その細長く角ばった瞳孔は、現実世界にいた頃と同様に、一条に悪魔を連想させた。
「ありゃあ山羊だな」
「野武士のおっさん、大正解! おめでとうの印に、『アル君ポイント』を1ポイントあげよう」
「いらん。それと、俺の名前は一条だ。良い加減、訳の分からんあだ名で呼ぶのはやめてくれ」
茜が独り言のように呟く。
「やっぱり、ここでセーフリームニルが出現したっていうのはどうも信じられません」
「豪のやつがあの山羊と見間違えたってことはないのか」
路唯の質問に、彼女はゆるゆると首を横に振った。
「いくら何でも、そんなミスは犯さないと思います」
「それに、この足跡はセーフリームニルのものだ。山羊のそれとは違う」
一条はそう付け足すと、再び山羊の方へと視線を移したが、既に姿は見えなくなっていた。頭上を仰ぎ見ると、樹々の枝同士が蜘蛛の巣のように手をつなぎあい、その隙間から微かなオレンジ色の光がちらちらと差し込んでくる。
「これからどうするよ? 何だったら、もう帰っても良い?」
欠伸をかみ殺すアルクトスを横目に、一条は全員に向き直った。
「とりあえず、もう少し先まで進んでみよう」
「エエーーッ?! 野武士のおっさんそりゃないよぉ」
「ガタガタ喚くな。リーダーは俺だぞ」
歩き出したものの、正直な話、一条自身も先行きが見えていなかった。先ほどから流王と連絡はつかないし、結局セーフリームニルの出現の原因を見つけることもできていない。“エムワン”に至っては、まだその尻尾を掴んですらいない状況だ。
こうなったら、とりあえず流王と合流することが先決だ。真っ直ぐ進んでいけば、想定通りなら彼らと合流することができるはず。
暫く進んだところで、茜が唐突に押し殺した声を上げた。
「あ、あれ見て下さい!」
「どうした」
彼女の指し示す先には、先ほど目にしたと思しき山羊がいた。5頭ほどが小さな群れが、森の奥へとしずしずと歩を進めている。こちらには気づいていないようだった。
「……さっきの山羊みたいだが」
「そっちじゃなくて! その奥に、ほら」
山羊の行く先に視線を向けると、陽光の届かない薄闇の中に、何者かが立っているのが見えた。一瞬流王たちかと思ったが、すぐに考え直す。もっと奥まで進まなければ、流王たちの班とはぶつからないはず。
その影は、成人男性より少し小さい――子どもほどの背丈だった。薄暗い上遠目のためにはっきりとは分からないが、ローブのようなものを身に纏っているように見える。影は一条たちに背を向けたまま、ゆっくりと森の奥へと進んでいるようだった。
目にした瞬間、ぞわり、と全身の毛が逆立った。毛穴という毛穴が大きく開き、そこから冷気が身体に流れ込んだような寒気が一条を襲った。
その姿は――流王から伝えられた、“エムワン”の特徴そのままだった。




