流王天哉の過去
世の中を「持つ者」と「持たざる者」に2分するとしたら、流王天哉は間違いなく前者だった。
男らしさの中に野性味を湛えた整った顔立ちに加え、スポーツは何でもそつなくこなし、天才とは呼べないまでも勉強もできた。性格も快活で、彼の周りにはいつだって自然と人が集まった。
父親はオーナー企業の社長をやっており、生活には困らなかった。母親は専業主婦として家事を100点満点にこなし、ありったけの愛を惜しむことなく息子に注いだ。そのかいあってか、流王天哉は極めて健やかに、誰もがうらやむ理想の息子として成長していった。
普段は表に出さないようにはしていたが、流王も本音では自らが「持つ者」であることを自覚していた。時折彼の前を横切る「持たざる者」を眺めては、心の奥底でひっそりとほくそ笑んでいた。
誰がどうみても、彼の人生は順風満帆だった。
女性に困ったことなどないし、将来だって約束されている。人生に不満はなく、毎日が愉快でたまらなかった。
しかし、そんな彼の頭上に突如小さな雨雲が現れる。
きっかけは、大学在学中に出会った友人だった。当時都内の大学生だった流王は、その友人が放った言葉の甘美な響きに心をすっかり奪われた。
「天哉、俺と起業しないか」
同級生だったその友人は、学内の起業サークルに所属していた。語学のクラスでたまたま隣の席だったのだが、話してみると妙にウマが合い、瞬く間に意気投合したのだ。
「確かに面白そうだな……でもやめとくよ」
「何でさ?」
「俺、親父の会社継ぐつもりだから。大学卒業したらみっちりしごいてもらうから、それまではフラフラしてたいなってさ」
友人は少し首を傾げ、
「天哉は、本当にそれで良いのか?」
「え?」
「確かに社長ってすげーけど、何だか敷かれたレールの上走ってるみたいで嫌じゃね?」
「んん、別にそんなことは考えたこともなかったけどなぁ」
「ふうん」
友人は「そっか、そっか」と呟いたが、どうにも納得していないようだった。
心底残念そうな顔で流王を一瞥し、彼は言った。
「天哉となら、絶対面白いことできるって思ったのになぁ」
その一言は、強力な毒のように彼の身体を侵した。
それほど強烈に求められたのは初めてだったし、自分の力で何か大きなことを成し遂げたいという気持ちが、流王の中ではずっと煙をあげて燻ぶっていたのだ。
自分だけの力で。
親の手は借りず、実力勝負で結果を出す。
そんな表面上は美しい言葉に羽虫のように誘われて、流王は深く考えることなく彼と起業することを決めた。
しかし、現実は甘くはなかった。会社を立ち上げたは良いものの、働けど働けど、彼らの考えたビジネスの芽はなかなか花をつけることはなかった。
原因はそれだけではない。ともに仕事をしてみて初めて、流王は共同創業者である友人がいかに「無能」かをまざまざと感じた。
物覚えが悪い。
要領も悪く、長い時間働いている割にはさっぱり成果が上がらない。
その癖がんこで意地っ張りで、自分のアイデアを曲げようとしない。
大きなことばかり語って、目の前の事務仕事は全て流王にまかせっきり。
彼にとって、起業サークルなど、ただの「絵空事」に過ぎなかったのだ。
流王がようやくそのことに気づいた頃には、会社だけでなく流王自身も多額の借金を抱えるまでになっていた。
金が減ると、不思議と人付き合いも減った。金の切れ目が縁の切れ目という言葉はグロテスクなほどに真実だった。
あっという間に資金はショートし、会社は倒産に追い込まれた。
信頼できる「と思っていた」友人は、夢想を吐き散らすポンコツに過ぎなかった。
電気の止まったワンルームの部屋で、流王は1人ふさぎ込んだ。
どうしよう。大失敗だ。借金も半端な額ではない。
……人生終わったかもしれない。
沼のように深い絶望に陥りそうになりながら実家の父に相談したが、反応は冷たかった。
「自分で考えなさい」
「父さんには頼るな」
自分の腕一つでのし上がってきた父にしてみれば、天哉のこぼす弱音には耐え難いものがあったのかもしれない。いや恐らくそれ以上に、自身が用意してやったレールの上を息子がお行儀良く走らなかったのが気に食わなかったのだろう。
頼りにしていた母さえも、父同様に冷めた目つきで天哉を眺めた。
「自分で勝手やって失敗したんだから、責任は自分で取りなさい」
両親からの辛辣な言葉は、ただでさえささくれだっていた天哉の心をぱっくりと裂いた。心から血を流しながら、流王は自分を呪い、かつての友人を呪い、自分を助けようともしない両親を呪い、過去に安直な判断をした自分をまた呪った。
自分は強い人間ではなかった。
失敗をしたことがないからこそ、その心はダイヤモンドのように融通が利かず、些細なことですぐに割れる。
もう――誰も信じない。
流王はその日に、誰にも行先を告げず姿を消した。
******
「怖い?」
白衣の女からの問いかけに、流王はその端正な顔を少し歪めた。
「正直に言うと、少しだけ」
「あら意外。強がると思ってたのに」
白衣の女は悪戯っぽく笑うと、ベッドの側に据え付けてある機械を何やらキーボードのように叩いた。
ここ数ヶ月の記憶が曖昧だ。何となく起き、何となくバイトし、何となく食事して、何となく寝る。たった1度の挫折が自分をこうも無味乾燥な虚無へと叩きこむことになるだなんて、想像だにしなかった。
あれから、家族を含め旧来の知り合いとは誰とも連絡を取っていない。
怖かったのだ。
自分が受け入れられないことが。
今まで、拒否されたことなど1度たりともなかったから。
そしてそんな折、怪しげな求人雑誌でこのアルバイトの求人情報を見つけたのだ。
60万円という金額には、全く心が踊らなかった。むしろ、目の前の世界から逃避したいという強い願望が、流王をこの求人情報へと引き付けた。
何なら、もう永遠に戻らなくたって良いさ。
そんな捨て鉢な気分で、彼は目をつむった。
「お願いします」
ブウウンという巨大な蜂の羽音のような音が耳に入ると同時に、流王の意識は暗転した。




