布施茜の過去
布施茜は、自分に自信がなかった。
生来の上がり症だった彼女は、初対面の人間と相対すると、喉から声が出なくなった。話すことがないとか、そういった次元ではない。緊張のあまり頭が真っ白になり、肺は干しレーズンのように小さく萎んだ。
小学校から中学校に上がると、彼女は早速イジメの標的にされた。
「おい、『だんまりリンゴ』」
人と話すと顔が真っ赤になってしまうから、彼女はクラスでそう呼ばれていた。
「ここの掃除やっときなよ。アタシらマックでお茶してるからさ」
トイレ掃除はいつでも彼女の役目だった。
彼女は持ち前の真面目さで、毎度しっかりとその役目を務め上げた――誰にも褒められることはなかったが。
トイレ掃除を押し付けられるくらいは、彼女にとっては日常茶飯事。
私物がゴミ箱に入れられていたり、学校に来たら机の上に花瓶が置かれているようなこともあった。
家に帰っても、気持ちが晴れることはなかった。
茜の家庭は片親だった。母は仕事で夜遅くまで戻らない。
薄暗いアパートの一室で、一人っきりでひたすら家事をこなした。掃除、洗濯、炊事。全てこなさなければ、キツい「お仕置き」が待っている。
そんな中、彼女は言葉を発することなく、ただ黙っていた。
口をつぐみ、嵐が通り過ぎるのを息を潜めて待っていた。
休日は家に引きこもり、誰にも会わずに過ごした。
大学への進学を機に、彼女は地元を離れることを決意した。
少しでも、今いる環境から離れたかった。ただでさえ壊れやすい10代の少女の心は、何年も続いた陰湿なイジメで決壊寸前になっていた。
「大学からは、一人暮らしがしたい」
勇気を振り絞った娘の告白を聞いて、母親は猛反対した。
「何故一人暮らしする必要があるの?」
「あんたには、今まで通り家事をこなしてもらわないと困っちゃうのよ」
「お金はどうするの? 学費だってカツカツなのに、その上生活費なんて無理よ」
酒臭い息を吐きながら、母親はそう叫びながら何度も机を叩いた。
茜は俯いたまま、嵐が過ぎ去るのを待とうとした。
でも……今回もそうしていては、新たな道は拓けない。もう一歩踏み込んで戦わないと、未来はこちらには見向きもしない。
「私……もう、うんざりなのッッッ」
顔を真っ赤に染めて、彼女は叫んだ。
もう、「だんまりリンゴ」なんかじゃない。
その後は、もう止まらなかった。
学校でイジメられていたこと。帰宅しても家事ばかりで、心身ともに疲弊してしまっていたこと。「お仕置き」が怖くて、家でも心休まらなかったこと。
これまでの人生の中で溜め込んだ不満という不満を、彼女は生まれて初めて外の世界へぶちまけた。
聞いてくれる友達も、家族もいなかった。
吐き出し続けながら、彼女は期待した。目の前に座る母親が、自分の話に共感してくれることを。悩みを分かち合い、苦しみを飲み込んでくれることを。
だが――
「アンタこそ、何甘えたこと言ってんのよ」
「好き勝手言って。あたしだって楽じゃないのよ」
「どれだけお金かかってると思ってるの?! ……なければ。アンタがいなければ、もっと楽に暮らせたかもしれないのに!!!」
最後の一言に、茜はハッと顔を上げた。
目の前には、狼狽した母の顔があった。口にしてはならないことを思わず口にしてしまった――そんな後悔が、彼女の瞳を揺さぶっているようだった。
気づくと、頬を生暖かい水滴が伝っていた。
母の顔は、滲んで見えなくなっていた。
「ご、ごめ――」
「アアアアアアアアッッ」
叫び声を上げながら、茜はリビングの一角に置いてあったボストンバッグをむんずと掴むと、そのまま玄関へ向かった。
家を出るための荷物は、ずっと前から準備してきた。
晩御飯代だと母が残したお金は、今まで使わず全て貯金箱へと入れてきた。毎晩鳴り続ける腹をごまかすため、夜中に何度も蛇口から水を飲んだ。
きっと全て、今日のためだったのだ。
玄関で靴を履いていると、背後に母が立つ気配がした。
「……ごめん。そんなつもりじゃなかったの」
優しい声音に、足が止まりそうになる。思わず、振り返りそうになる。
……いや、本当はここで振り返っておくべきだったのだ。
だが、感情的になった10代の少女の頭に、正常な判断力など残されてはいなかった。
「もう、帰らない。私、遠くで暮らす」
「お金、どうするの」
「持ってるから大丈夫」
「……学校は?」
「専門学校に入る。同意書とかは必要になったら送るから」
「そう」
まだ間に合う。
ここで引き留めてくれるなら、まだ引き返せる。
本当は、お母さんと離れたくなんかないんだよ。
私のこと、ちゃんと見て欲しかっただけなんだよ。
こんなの全然、本気じゃなかったんだよ。
一人にしないでッ……!!!
「分かった。頑張りなさい」
その時茜は、その言葉の中にある感情を確かに嗅いだ。
子育てからの解放。そして、安堵。
「学費とか、ちょっとなら助けられると思うから」
ちょっとってどういうこと? 学費くらい、全部出してくれるのが普通じゃないの?
「都会なら、アルバイトの時給も高いし」
だから何? 上がり症の私が、すんなりバイトなんてできると思ってるの?
「こっちからは、あんまり連絡しないようにするから。お互い忙しいと思うし」
親じゃないの? 娘の暮らしとか、気にならないの?
それ以上、母の言い訳じみた言葉を聞くことはできなかった。
辛かった。これからの生活苦を想像するよりも、母親が自分にかける想いの小ささに、茜は絶望していた。
「もう、行くから」
そう呟くと、少女は目の前の扉から一歩外へと踏み出した。
******
「怖い?」
白衣の女からの問いかけに、茜はゆるゆると首を振った。
結局、貯めていた資金はすぐに尽きた。バイトを始めようにも、この上がり症では接客はできない。悩んだ末、ホテルのベッドメイクのバイトを始めたが、あまりの忙しさに数ヶ月で辞めた。
何度も母に連絡を取ろうと思った。
でも、もう帰らないと決めたのだ。
自分の決意が揺らぐことが怖かった。
そんな時、怪しげな求人雑誌でこのアルバイトの求人情報を見つけたのだ。
1ヶ月ゲームをするだけで60万円。こんなに美味しい話はない。
ちょっとばかり危なくたって構わない。
「お願いします」
ゲームの中なら、人と話したってそれほど緊張しないかもしれない。
ブウウンという巨大な蜂の羽音のような音が耳に入ると同時に、茜の意識は暗転した。




