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気弱なチーターは現実世界に戻りたい  作者: origami063
特別章:それぞれの過去
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布施茜の過去

 布施茜は、自分に自信がなかった。


 生来の上がり症だった彼女は、初対面の人間と相対すると、(のど)から声が出なくなった。話すことがないとか、そういった次元ではない。緊張のあまり頭が真っ白になり、肺は干しレーズンのように小さく(しぼ)んだ。


 小学校から中学校に上がると、彼女は早速イジメの標的にされた。


「おい、『だんまりリンゴ』」


 人と話すと顔が真っ赤になってしまうから、彼女はクラスでそう呼ばれていた。


「ここの掃除やっときなよ。アタシらマックでお茶してるからさ」


 トイレ掃除はいつでも彼女の役目だった。

 彼女は持ち前の真面目さで、毎度しっかりとその役目を務め上げた――誰にも()められることはなかったが。


 トイレ掃除を押し付けられるくらいは、彼女にとっては日常茶飯事(にちじょうさはんじ)

 私物がゴミ箱に入れられていたり、学校に来たら机の上に花瓶(かびん)が置かれているようなこともあった。


 家に帰っても、気持ちが晴れることはなかった。

 茜の家庭は片親だった。母は仕事で夜遅くまで戻らない。

 薄暗いアパートの一室で、一人っきりでひたすら家事をこなした。掃除、洗濯、炊事。全てこなさなければ、キツい「お仕置き」が待っている。


 そんな中、彼女は言葉を発することなく、ただ黙っていた。

 口をつぐみ、嵐が通り過ぎるのを息を潜めて待っていた。


 休日は家に引きこもり、誰にも会わずに過ごした。


 大学への進学を機に、彼女は地元を離れることを決意した。

 少しでも、今いる環境から離れたかった。ただでさえ壊れやすい10代の少女の心は、何年も続いた陰湿なイジメで決壊寸前(けっかいすんぜん)になっていた。


「大学からは、一人暮らしがしたい」


 勇気を振り絞った娘の告白を聞いて、母親は猛反対した。


「何故一人暮らしする必要があるの?」

「あんたには、今まで通り家事をこなしてもらわないと困っちゃうのよ」

「お金はどうするの? 学費だってカツカツなのに、その上生活費なんて無理よ」


 酒臭い息を吐きながら、母親はそう叫びながら何度も机を叩いた。


 茜は(うつむ)いたまま、嵐が過ぎ去るのを待とうとした。

 でも……今回もそうしていては、新たな道は拓けない。もう一歩踏み込んで戦わないと、未来はこちらには見向きもしない。


「私……もう、うんざりなのッッッ」


 顔を真っ赤に染めて、彼女は叫んだ。

 もう、「だんまりリンゴ」なんかじゃない。


 その後は、もう止まらなかった。


 学校でイジメられていたこと。帰宅しても家事ばかりで、心身ともに疲弊(ひへい)してしまっていたこと。「お仕置き」が怖くて、家でも心休まらなかったこと。

 これまでの人生の中で溜め込んだ不満という不満を、彼女は生まれて初めて外の世界へぶちまけた。


 聞いてくれる友達も、家族もいなかった。

 吐き出し続けながら、彼女は期待した。目の前に座る母親が、自分の話に共感してくれることを。悩みを分かち合い、苦しみを飲み込んでくれることを。


 だが――


「アンタこそ、何甘えたこと言ってんのよ」

「好き勝手言って。あたしだって楽じゃないのよ」

「どれだけお金かかってると思ってるの?! ……なければ。アンタがいなければ、もっと楽に暮らせたかもしれないのに!!!」


 最後の一言に、茜はハッと顔を上げた。


 目の前には、狼狽(ろうばい)した母の顔があった。口にしてはならないことを思わず口にしてしまった――そんな後悔が、彼女の瞳を揺さぶっているようだった。


 気づくと、(ほお)を生暖かい水滴が伝っていた。

 母の顔は、(にじ)んで見えなくなっていた。


「ご、ごめ――」

「アアアアアアアアッッ」


 叫び声を上げながら、茜はリビングの一角に置いてあったボストンバッグをむんずと(つか)むと、そのまま玄関へ向かった。


 家を出るための荷物は、ずっと前から準備してきた。

 晩御飯代だと母が残したお金は、今まで使わず全て貯金箱へと入れてきた。毎晩鳴り続ける腹をごまかすため、夜中に何度も蛇口から水を飲んだ。


 きっと全て、今日のためだったのだ。


 玄関で靴を履いていると、背後に母が立つ気配がした。


「……ごめん。そんなつもりじゃなかったの」


 優しい声音に、足が止まりそうになる。思わず、振り返りそうになる。

 ……いや、本当はここで振り返っておくべきだったのだ。


 だが、感情的になった10代の少女の頭に、正常な判断力など残されてはいなかった。


「もう、帰らない。私、遠くで暮らす」

「お金、どうするの」

「持ってるから大丈夫」

「……学校は?」

「専門学校に入る。同意書とかは必要になったら送るから」

「そう」


 まだ間に合う。

 ここで引き留めてくれるなら、まだ引き返せる。


 本当は、お母さんと離れたくなんかないんだよ。


 私のこと、ちゃんと見て欲しかっただけなんだよ。


 こんなの全然、本気じゃなかったんだよ。


 一人にしないでッ……!!!


「分かった。頑張りなさい」


 その時茜は、その言葉の中にある感情を確かに()いだ。


 子育て(プレッシャー)からの解放。そして、安堵。


「学費とか、ちょっとなら助けられると思うから」


 ちょっとってどういうこと? 学費くらい、全部出してくれるのが普通じゃないの?


「都会なら、アルバイトの時給も高いし」


 だから何? 上がり症の私が、すんなりバイトなんてできると思ってるの?


「こっちからは、あんまり連絡しないようにするから。お互い忙しいと思うし」


 親じゃないの? 娘の暮らしとか、気にならないの?


 それ以上、母の言い訳じみた言葉を聞くことはできなかった。

 辛かった。これからの生活苦を想像するよりも、母親が自分にかける想いの小ささに、茜は絶望していた。


「もう、行くから」


 そう呟くと、少女は目の前の扉から一歩外へと踏み出した。


******


「怖い?」


 白衣の女からの問いかけに、茜はゆるゆると首を振った。


 結局、貯めていた資金はすぐに尽きた。バイトを始めようにも、この上がり症では接客はできない。悩んだ末、ホテルのベッドメイクのバイトを始めたが、あまりの忙しさに数ヶ月で辞めた。


 何度も母に連絡を取ろうと思った。

 でも、もう帰らないと決めたのだ。

 自分の決意が揺らぐことが怖かった。


 そんな時、怪しげな求人雑誌でこのアルバイトの求人情報を見つけたのだ。

 1ヶ月ゲームをするだけで60万円。こんなに美味しい話はない。


 ちょっとばかり危なくたって構わない。


「お願いします」


 ゲームの中なら、人と話したってそれほど緊張しないかもしれない。


 ブウウンという巨大な蜂の羽音のような音が耳に入ると同時に、茜の意識は暗転した。

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