第16話:都市伝説の目撃者
男の名は、鈴原義道。
親の遺産を引き継ぎ数十億の資産を有する彼は、生粋のゲーマーだった。TCKのβテスト募集の情報を耳に入れた彼は、その人脈と金を駆使して難なくこの世界初の完全没入型MMOに参加する権利を手に入れた。
TCKでは「ナナクサ」と名乗り、青虎というギルドに所属している。相応に巨大なギルドで、このままいけば鬼の臍は勿論、鳳凰騎士団をも上回る第3勢力になるのではないかと噂されている、新進気鋭のギルドだ。
彼は丁度ナラキア郊外で十数名のギルドメンバーとともにモンスターを狩り終え、安全地帯で野営の準備を整えているところだった。辺りに木は生えておらず、背の低い草原がどこまでも広がっている。
「いやはや、今日は久々の泊まりやねぇ!」
ギルドメンバーの1人、ロクロがはしゃいだ声をあげる。
「噂によると、キャンプするだけの緩いギルドもあるらしいぜ」
ナナクサの言葉に、アムナスがその中性的な顔を顰める。
「うへぇ、何だよそれ」
「本格的なキャンプはしたい、でも準備は面倒くさい、でもでも全部準備してあるのは本格的じゃない、ってな贅沢な連中がいるんだとよ。
TCKなら適当にそれっぽくしとけば、テント設営も料理も上手くいくし、幾ら動いても疲労感はない。ごっこ遊びには最高ってなわけだ」
「いやはや、金持ちの道楽ってことか。分からんねぇ」
「そうは言いつつ、お前も楽しみだったんだろ、泊まり」
「まあね。明日は部下に会社任せてるから、今日は目一杯楽しもう」
ナナクサはそうして暫くギルドメンバーと団欒を楽しんでいたが、やがて聞こえてきた奇妙な音に眉を顰めた。周囲を見渡せば、ちらほらと訝しげな表情を顔に浮かべている者がいる。
「どうした、ナナクサ」
「いや、さっきから聞こえてくるこの音、何だか気味が悪くないか。人の声みたいだ」
「気のせいだろ。無視しろよ、そんなもん」
「……いや、そうとも言えないみたいだ。あれを見てみろよ」
アムナスの示す方向に視線をやると、少し遠くに奇妙なものが見えた。月明かりの下で、複数の影が蠢いている。
「あれは……プレイヤーか?」
横に立つロクロが首を傾げる。
「いや、それにしては動きがおかしくないか? それに、何というか……グラフィックが……」
「魔物かな。見たことないぞ、あんなの」
「何かのイベントじゃね? ほら、社長の高城何とかって祭好きなんだろ」
「にしても、この声やっぱ気持ちわりぃ」
他のギルドメンバーたちも気づき、何やら口々に喚き始めている。ある種の不思議な高揚感がその場の全員を飲み込もうとした時、再びアムナスが声を上げた。
「おい、何だ、あいつは」
その黒い集団の中に、襤褸をまとった何者かの姿がちらりと見えた。背丈が子ども程度しかないそいつは、目深なフードのようなものを被っている。
そいつが真っ黒な顔を、ついとこちらに向けた。
「……子ども……?」
ナナクサの口からそんな言葉が漏れた瞬間、黒い稲妻のようなものが空中に走った。
瞬きする間もなかったはずなのに、いつの間にか、その襤褸に包まれた何者かが、ナナクサの目の前に立っていた。
「……は?」
ナナクサは、自身の喉に手を当てた。まるで銀の喉輪を嵌められたように息苦しい。
突如として、周囲の草が汚らしい瘴気をまき散らしながら枯れ始めた。否、何か異質な――蟲のようなものに姿形を変化させ、うねうねと気色悪くのたうっている。
ナナクサは、目の前で異常な出来事が起こっていることを瞬時に悟った。こんな自然描写、TCKに実装されていないはずだった。以前、懇意にしていたリースブレイン社の幹部にこっそり仕様書を見せてもらったことがあるから知っていた。
急な出来事に、ギルドメンバーたちは困惑していた。ある者は啞然とし、ある者は顔を覆い、ある者は怯えたように大声を上げた。
「な、何だよこいつ……何だよコイツッ」
ロクロはすっかり気が動転してしまっているのか、興奮したように「何だよコイツ」と何度も繰り返した。
「おい、ロクロ、よせっ」
「いきなり何だよお前ッ。俺たちは『青虎』だぞ?あんまり調子乗ってると――」
アムナスの制止を振り切り近づいていこうとしたロクロの姿が――ヴン、という音とともに消えた。
「え? 消えた……? おい、ロクロ?」
その直後、そこかしこから、ヴン、という電子音が聞こえてきた。周囲を見渡すと、他のギルドメンバーもロクロ同様次々に跡形もなく掻き消えていく。
ナナクサは思わず大声で叫んだ。
「きょ、強制ログアウト?!噓だろ、こんなこと、起こるはずが……」
「落ち着け、ナナクサ。いずれにせよ、こいつは恐らくバグだ。残念だが俺たちもログアウトして、ヘルプデスクに連絡しよう」
「あ、ああ。確かにそうだ」
アムナスの声で冷静さを取り戻したナナクサだったが、メニューボードを開こうとして呆然とした。
「どういうことだよ、開かないぞ!」
何度も空をタップしているのに、一向にメニューボードが開かない。それどころか、空中のそこかしこに黒い小さな穴がぷつぷつと空き始め、辺りの景色も奇妙に歪みをきたしているようだった。
「馬鹿な、こんなこと……!」
先ほどまで落ち着きを見せていたアムナスも、流石に不安と焦りの入り混じってた視線をこちらに向けてくる。
「だ、大丈夫だよ、きっと。ほら、こんな異常事態なんだから、運営がすぐにきてくれ――」
ナナクサが半分自分にも言い聞かせるようにそう言った時、名状しがたい感覚が彼の全身を包んだ。
言うなれば、身体はそのままに、魂だけが掃除機で上に吸い込まれていくような。幽体離脱のような自然なものではなく、無理矢理心と身体を引き剥がされるような。
その時初めて、彼の内側に恐怖という二文字がむくむくと湧き上がってきた。
「グ……なん……だ……」
意識が遠のいていく。
自我に踏みとどまることができない。
おかしな声が、口から漏れる。まるで動物のような唸り声。
さっき聞いたのは、この声だろうか。
あの襤褸を纏った何者かの姿が、ぼんやりと瞳に映る。その目深なフードの下の孔の中に、うすぼんやりと顔が見えた。
子どもなどではない。相応の歳を経ねば刻まれぬ深い皺が、顔のそこかしこに地割れのように走っている。目は虚ろで、口は半開き。
死神のような顔をした老人が、そこには立っていた。
脇にいたアムナスが、いつの間にか見るも恐ろしげな化け物のような成りになっている。最初に遠くに見えた、あの黒い群れと同じだ。醜い蟲のようなグラフィックが、彼の美麗な瞳から蛆のように湧いてくる。
ああ――俺もこうなるのか。
そういえば、昔耳に挟んだことがある。集団で意識を失うバグがあるって。TCKに限ってそんなことがあるはずないと一笑に付したが、あの噂は――
そこまで考えたところで、ナナクサの思考は途切れ、
彼は、
“蟲堕ち”に変性した。




