第14話:変性者
迫る影は、全部で5つ。いずれも、尋常ならざる速度でこちらに向かってくる。
見間違いなのか、時々その影がブレている気がした。まるで場所が一点に定まっていないように、いくつかの影が重なっているように見える。
怯える茜に、僕は叫ぶようにして尋ねた。
「茜ちゃん、"蟲堕ち"って一体」
彼女はその一言で我に返ったようにこちらを振り向いた。その瞳には未だ恐怖の色が残っているが、表情は引きしまっている。
「詳しい話はあとで。とにかく逃げるわよ」
「な、何で急に」
「"蟲堕ち"はTCKのルール外の存在……いわゆるバグなの。向こうからは攻撃できても、こっちは反撃できない。それに、運営だってすぐに飛んでくるわ。下手な騒ぎは起こさない方が良い」
めったに出現なんてしないんだけど、と彼女は不安げに付け加えた。
まるで、目に見えない毒ガスが知らない内に身を取り囲んでいたような寒気が、うなじを粟立たせる。完全に思われていたTCKの裏側に巣くう、ドロドロとした闇を垣間見た気がした。
しかし、逃げると言ったって、こちらはツカサの相手をしなければならない。この男と"蟲堕ち"の双方の追撃を振り切るのは至難の業に思われた。
再びツカサに目を転じると、彼は恨めし気に"蟲堕ち"をにらみつけていた。
「こんな時に……よりによってこのタイミングであの出来損ない……許さん……」
ぶつぶつとつぶやいていたが、不意にくるりと踵を返すと、"蟲堕ち"と逆方向に歩き始める
その背に向けて、豪があらん限りの声を上げた。
「おい、どこ行きやがる」
だが、ツカサは足を止めなかった。振り向きもしないまま、
「逃げるんだよ。見て分からないかな」
「俺との勝負がまだ終わってねぇだろ」
「"蟲堕ち"がきてる」
「そんなん関係あるかよ。少なくとも、俺には関係ねぇ。あんなのろまなやつらの攻撃、誰が食らうかよ」
「君は、本質が見えていないな」
ツカサは足を止めると、振り返って豪の視線を受け止めた。彼の表情に恐れは見えなかったが、おごりもまたなかった。感情を削ぎ落した機械のような判断力だけが、そのきつい口元に表れている。
「事象面だけ見て脅威を判定するのは愚の骨頂だ。やつらの背後に何がいるのか……少しは想像力を働かすんだな」
その言葉を最後に、ツカサの姿は空気に溶けるようにかき消えた。
止める暇もないほどに一瞬の出来事だった。
「……意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇよ、馬鹿野郎」
豪は半ばつぶやくようにそう吐き捨てた。
かつての親友にようやく出会えたと思ったら、その実最悪の敵方に取り込まれていた上、意を決して臨もうとした闘いには水を差される。その心境は察するに余りあるが、目前に脅威が刻一刻と迫っている状況で気遣っている余裕はない。
茜は豪の肩に手をかけると、ゆさゆさと身体を揺さぶる。
「豪君、早く! もうそこまで来てる」
「うるせぇな、分かってるよ。バトルエリアは解除されてるのか」
「みたい、だね」
「丈嗣、お前大丈夫なのかよ」
「ああ、まだちょっとフラフラするけど、回復アイテム使ったから体力は満タン……鼻血、出てない?」
「そんなもん出るか、馬鹿」
改めて背後を確認すると、近づいてきてはいるものの、まだ"蟲堕ち"たちとの距離は充分にあった。これなら、ファストトラベルのポイントまで逃げ切るのは容易だ。
少しだけやつらを間近で見てみたいという思いもあったが、そんな浮ついた気持ちはすぐにかき消した。不用意な好奇心で、仲間や自分を失いたくはない。
「よし、それじゃ――」
行こうか。
そう、声を発しようとした時、僕の視線は自然に"蟲堕ち"の影に吸い寄せられた。
違和感がある。何か、先ほどとは違っている。
「何してるの、丈嗣君。早くしないと――」
「足りない」
「え?」
「数が足りないんだ。さっきは5体いた。今あそこに見える影は、全部で4つ」
「……残り1体は、どこ行ったんだ」
豪と茜の表情に緊張の糸がピンと張りつめる。
耳を澄ませると、風に揺られる草木の音の他に、異音が混じっていた。
かまいたちが地面に生える草いきれを切り裂く不穏な音。しかし鋭すぎるあまり、集中しないと聞き取れないほどかすかな死の足音。
その、音は真っ直ぐに――僕へと突き進んでいる。
「茜ちゃん、豪君、離れてっ」
盾を構えた瞬間、茂みの奥から1つの影が飛び出してきた。
まるで、スローモーション映画のように、僕にはその姿がくっきりと見えた。自分の意識以外の時間が突然止まったかのような、そんな錯覚を覚えた。
それは、人の形をしていた。
していたが、それは人とは呼べない、おぞましい「何か」だった。
像をはっきりと結べない。まるで目がぼやけているように、その姿は虚ろで、現実感がなかった。時折身体のグラフィックにかかるノイズが、目の前の存在がこの世界の秩序から外れた存在であることを示している。
そして、何よりも異様だったのは、その身体の上をいくつもの蟲のようなもの這い回っていたことだ。身体のそこかしこを食い破り、眼窩の底で蠢く異形。蛆に食い荒らされた死体のような、グロテスクな外見。これまで目にしてきたどの魔物よりおぞましく、醜悪な空気をまとっている。
耐えがたい悪寒が、身体の芯を侵していく。
こんな醜い……バグの影響だから意図したものではないのだろうが、このグラフィックの乱れは果たして偶然なんだろうか。
まるで明確な「悪意」が、そこには潜んでいるようではないか。
そこまで観察して、僕はあることに気づいた。
最初は見間違いだと思った。だが、見れば見るほど、その思いは確信に向かっていく。
こいつは、間違いない。
この男は――。
その時、異形の口が開いた。
掠れた、異音にまみれた不協和音がそこからは漏れた。
「ミヅゲタ……変性者」
動けない。
なぜだか、凄まじい恐怖に足がすくむ。
何かとても恐ろしいものに、僕は「見つかってしまった」のではないか。
「丈嗣ッ! 屈めッ」
耳に飛び込んできた、豪の声。とっさに身を屈めると、次の瞬間、目の前の影が吹き飛んだ。
いつの間にか、豪がすぐ横に立っていた。彼は僕の腕を掴むと、茜に声をかけて走り出した。
「大丈夫か、おい」
「ああ、ありがとう。……というか、今豪君の攻撃当たってなかった? 茜ちゃんからは、やつらにはこっちからの攻撃は効かないって」
「いや、茜は間違ってねえ。俺の能力は、対象物を『吹き飛ばす』だけで、ダメージはないんだ。仮にダメージ付与されていたとしても、やつらには効かない。決闘モードじゃないから、PK禁止ルールが適用されてるんだ」
走りながら、豪は背後に時折視線をやった。
「にしても、あれは何なんだ。まるで、人みたいだったけど」
「……"蟲堕ち"は、まれにプレイヤーに発生するバグだって言われてる。あいつも、元は普通のプレイヤーだったはずだ」
「でも彼ら、まるで獣みたいだ。あんなバグが起きたら、プレイヤーの身体にも影響が出るんじゃ……。そもそも、原因は何なんなんだ? リースブレイン社はこのバグのことを知って――」
「ああ、うるせぇな!そんなん俺が知るかよ。
とにかく、今は走れ!」
その後は全員無言で、ただがむしゃらにファストトラベルポイントに向けて走り続けた。
*****
どうにか宿にたどり着いた僕たちは、全員無言でベッドに倒れこんだ。
精神的にも肉体的にも、疲労が重石のごとくのしかかっている。緊張から解放され、どっと疲れを感じた。豪も茜も、ベッドに伏せたまま一言も発しない。
「……あいつ、知ってる男だった」
僕の一言に、2人とも無言で応えた。
「あの時、ほら、お腹が空いたって茜ちゃんが言って、立ち寄った店にやってきた、鳳凰騎士団の男。確か――」
「ミルゲだろ」
豪の言葉はくぐもっていたが、はっきりと耳の奥まで届いた。
迅騎士ミルゲ。鳳凰騎士団において、第13序次だと高らかに語っていた男。
確かに気分の良い男とは言えなかったが、それにしてもあんな――。
僕はごろりとあおむけになると、なおも横で突っ伏したままの豪に問いかける。
「"蟲堕ち"の原因って何なんだ」
「分からない。俺が知ってるのは、やつらがプレイヤーの成れの果てだってことだけだ」
「原因が分からないってことは、その……僕たち"サンプル"もああなる可能性があるってことなのかな」
怖さ半分、好奇心半分でそう尋ねると、茜がゆっくりと身体をもたげた。
「今のところ、"サンプル"が"蟲堕ち"したケースはないそうよ。恐らく私たちが力を使えることに関係しているんでしょうけど」
それを聞いて、少しだけ安心した。
どう見ても、ミルゲからは理性が飛んでいた。尋常な精神状態でなかったことは明らかだ。あの後、彼は元の精神状態に戻れるのだろうか。ゲームから帰ってきたら文字通りの廃人になっていました、なんて、とても笑える話ではない。
自分がああなってしまったらと想像すると、恐怖に震えが止まらなくなる。
プレイヤーであれば一度TCKから逃れて治療を受けることもできよう。だが、僕たち"サンプル"にその保証はない。ああなってしまえば、一生気が触れたままこの世界を徘徊するか、駆けつけた運営によって駆除されるかの2つに1つだ。
同時に、初めて僕はTCKに対して疑問をもった。
あれほどのバグ、当然リースブレイン社も認識していないはずがない。運営が迅速に飛んでくるという話からも、彼らだって存在は知っているのだ。
常識的に考えれば、あんなバグがあるのなら今すぐにでもサービスを止めて、根本対応を図るべきだ。万一マスコミなどに露見すれば、TCKはおろか、企業価値にも大きな傷がつきかねない。
それにそもそも、僕たち"サンプル"だって、言わばハメられたようなものだ。
未だ目的は不明だが、れっきとした監禁ではないのか。
そんな物思いに耽っていたが、茜が豪に向けてかけた優しい声音で我に返る。
「それにしても、残念だったね、豪君」
だが豪は、ふてくされたようにベッドに突っ伏したままだった。
豪の心中を想うと、先ほどまでの疑問は雲のように散り、かわりに鉛の玉を飲み込んだような陰鬱さが、胸の内にに垂れこめた。
僕が彼の立場でも、ああする以外に気持ちを表現できないだろう。
端的に言えば、彼は親友に裏切られたのだ。信を置いていた友人からの、予想外の決別の意志。それも悪びれることもなく、むしろ不気味な自己陶酔さえ感じさせながらああ言われれたなら――一体なにを信じれば良いのか、分からなくなってしまっても不思議ではない。
しばらく沈黙していたが、先ほどと同じくぐもった声で、彼はぽつりとつぶやいた。
「……次は、絶対連れて帰る」
窓から差し込む朝焼けのきらめきの中に、その言葉は静かに溶けていった。




