第10話:修行④~覚悟を決めて前進すべし~
もう何日も、屋敷の部屋から出ていない。窓をしめきった洞穴のような部屋の隅で、僕はじっとうずくまっていた。
ほんの数日前までは、毎日日が暮れるまで修行に明け暮れていたというのに……こんなことになるのであれば、あの努力もまったく無駄だったと言わざるを得ない。時間と気力を費やして、使いもしない力の習得に必死になるとは、我ながら間抜けにもほどがある。
ごろりと床に横になると、流王の言葉が自然と思い出された。
TCKでのゲームオーバーは、現実世界での死を意味する。
冷静に考えて、あの場で彼が冗談を言うはずがない。ましてや、遠回しな比喩であろうはずがない。
つまり、流王の言葉は真実で、阿羅も宇羅もそれを承知しているということだ。彼女たちだけではない。先日顔を合わせた面々も皆、この真実を理解し、受け入れている。
……どうかしてるよ、まったく。
まぶたを閉じると、頬にあたるひんやりとした床の感触がより強くなった。僕は死んだように床に転がったまま、何をするでもなく、ただぼんやりと時が経つのを待った。
しかし、何も考えまいとすればするほど、頭の中に嫌なイメージが次から次へとわいてくる。
キュクロプスに頭を吹き飛ばされ、ゲームオーバーになる自分。
巨人に踏みつぶされ、ゲームオーバーになる自分。
ドラゴンの吐く炎に包まれ、ゲームオーバーになる自分。
あれほど楽しみだったはずの魔物との闘いが、今では何よりも恐ろしい。
安原と闘っていたあの時だって、下手をすれば僕は死んでいたのだ。ふとした拍子に思い出すたびに冷や汗が止まらなくなる。
仮に――仮にどうにかこの恐怖を乗り越えて屋敷の外に出たとして、「始まりの魔窟」までは少し距離がある。当然、道中で魔物と遭遇する可能性だってないわけではない。
そこで万一、ゲームオーバーになってしまったら。スタート地点にすらたどりつかないまま、視界に映るこの体力バー表示が0になった時、僕は――
その時、固く閉ざされていたはずの扉が勢い良く開いた音に驚いて、僕は目を開けた。
「おっじゃまー」
まるで恐縮していない口ぶりでずかずかとあがりこんできたのは、他ならぬ阿羅だった。彼女は床の上でさなぎのように丸まっている僕に目を止めると、あからさまに驚いた顔をした。
「嘘でしょ、あんた」
続いて、その後ろからひょっこりと宇羅が顔を出す。彼女は僕を一瞥すると、妹の耳元に口を寄せた。
「ね、言ったでしょ」
「いや、確かにこいつはちょっと時間かかるかもなぁって思ってたけど……まさかこんな有り様とはね」
阿羅は部屋を見回すと、つかつかと窓に向かって歩み寄り、突如何の断りもなく窓を開け放った。途端に部屋を満たしていたよどんだ闇は消え去り、開いた窓から陽光のシャワーが降り注ぐ。久しぶりに目にしたそのまぶしさに耐え切れず、僕は顔を手で覆った。
「……ッ!! いきなり何するんだよ!」
しかし、阿羅は語気を荒げた僕を気にとめる様子はない。それどころか、まるで子どもを急かす親のような調子で僕を無理やり立たせると、扉の所まで引っ張っていこうとする。
「いつまでこんなとこで引きこもってるつもり? ほら、さっさと行くよ」
「嫌だッ」
足を突っ張って意地でも動こうとしない僕を見て、宇羅がクスクスと笑う。
「丈嗣君、小学生みたい」
「一応ッ……これでも……25歳だッ……」
踏ん張りながら何とか答えると、僕は身体をよじり阿羅の腕を振り切った。これほどの抵抗を受けるとは思っていなかったのか、阿羅は呆れたように天井を仰ぐと、眉間に深いしわを寄せた。
「良い加減にしなよ。いつまでうじうじしてんのさ」
「ハァ?! そう簡単に受け入れられるような話じゃないだろ」
「なにがよ」
挑戦的な目つきを崩さない彼女に対し、僕は少しだけためらった。視線をそらすと、言い訳をするように少しだけ声のトーンを落とす。
「……死にたくない。怖いんだ。闘いたくない」
そう告白する僕を、宇羅は哀しそうに、阿羅は苛立った表情で見つめている。
宇羅は1歩前に出ると、優しい声音で僕に語りかける。
「気持ちは分かるけど、大丈夫だよ。もしもの時は私たちが守るから」
まさか、女の子に「守るから」なんて言われる羽目になるとは。
宇羅のことは嫌いではない――むしろ好意に近い感情を勝手に抱いている――が、こと戦闘で頼りになるとはとても思えない。その細い腕で、一体どうやって僕を「守る」つもりなのか。
僕は少しだけ意地悪な気持ちになり、彼女に問うた。
「2人が死んだら?」
「……え?」
「阿羅も宇羅ちゃんも勝てないような魔物が現れたら?」
しかし、宇羅はまったくひるまなかった。
「そんなこと、絶対にないから安心して」
そうさらりと答える。よほど自信があるのか、まるで気負った雰囲気がない。
その様子を見て、僕はムキになって反論した。
「じゃあ、罠に引っかかったら? 崖から落ちたら? 奇襲を受けて、助けられる間もなくこの体力が底をついたら?」
「丈嗣君……」
「それにこれは僕の試験なんだろ? あんまり手助けしたら、それこそ意味がなくなるんじゃないのか?」
口をつぐんでうつむく宇羅を見て、言いすぎたかもと、また自己嫌悪に陥る。
彼女はただ、僕を励まそうとしてくれているだけなのに。阿羅にしても、僕なんて放っておけば良いのにわざわざお節介を焼いてくるあたり、きっと根は良いやつなのだろう。
そんな2人の失望した顔を見たくなくて、僕は視線を外したまま自嘲の笑みを顔に浮かべた。
「いや、もう良いんだ。所詮僕には、覚悟がなかった。宇羅ちゃんも、阿羅も、もう僕みたいなのに構わなくたって良いよ。もう1日休んだら次の街を目指すことにする。そこで静かに、平凡に暮らすことにするよ。いつか、現実に戻れる日を夢見て」
ああ、自分で言っておいて何だが、ほんっとうに最低だ。僕が2人の立場だったら、こんなヘタレなど放っておこうと思うに違いない。
でも、良いんだ。現実と同じように、毎日引きこもって暮ごそう。
努力せず、目的もなく、いたずらに時間が過ぎるのを待っていれば、いつかは――
「ふざけんな」
あまりに怒気を含んだ声音に、僕は思わず顔を上げた。
そして彼女の表情を一目みて、はっと気づいた。
阿羅が何かに「本気で」憤っているのを目にするのが、実は初めてであったということに。
切れ長の目は赤く充血し、頬は引きつり、元来形の良い眉は八の字につりあがっている。
ぎりりと固く引き絞られた唇が開くと同時に、驚くべき言葉が飛び出した。
「私だって怖いんだよっ」
僕は言葉を発せず、呆気に取られて阿羅を見つめた。
「1年経った今だって、この辺りにいる雑魚を相手にする時でも、まだちょっとだけ緊張する。豪や路唯は馬鹿にしてくるけど、死ぬのが怖くないなんて方が、私にとっちゃ狂ってる」
「阿羅……」
「でも、私は逃げたりしない。部屋に閉じこもって、どうせ誰かがやってくれるだろうなんて甘い考え抱きながらただ無為に時間を過ごすなんて真っ平ごめんよ。
私は帰らなくちゃいけない。この世界は嫌いじゃないけど、それでも、私が生まれた世界は向こうにあって、だから、帰る方法があるのなら、私は自分の心を奮い立たせて前へ進むの」
彼女は鼻をすすると、僕を指さして叫んだ。
「あんた男だろう!いつまでもメソメソしてんなよ!
この課題クリアして、”エムワン”とかいうやつ見つけて、この世界から帰る方法を聞き出して、そんで一緒に戻るんだよっ。皆で、一緒にっ」
その瞬間、僕は悟った。
僕だけじゃない。
阿羅だって、宇羅だって、それに他の皆も――同じように闘っているのだ。
彼女の言葉からあふれた熱気が、僕の心を覆った不安を溶かしていく。
突き刺さった氷柱が小さくなっていく。
膝の震えが止まった。
肺一杯に空気を吸い込むと、頭の中に巣くっていたかびが取り払われて、磨き上げられた石のような落ち着きが、すとんと身体の中心に落ちた。
「自分の道は、自分で拓かなくてはな」
流王の言葉が蘇る。彼の言葉は力強く、灯台のように胸の内を照らした。
まだ恐ろしさは胸の内に残っている。ふとすればその弱さに足を取られ、つまずいてしまいそうになる。
それでも僕たちは前を向くのだ。帰るために。
自らの力で、現実世界へと戻るために。
******
「魔窟」の名に恥じず、崖にぽっかりと空いたその穴からは、禍々しい瘴気が絶えることなく吐き出され続けている。牙のように垂れ下がった鍾乳石は、思わず立ち入ることを躊躇させるような迫力があった。
何だかんだで、やってきてしまった。
足を止めた僕の肩に、ぽんと阿羅の手が置かれる。
「じゃ、ここからは先に行って」
「え?!」
「当たり前でしょ。あんたの試験なんだから、あんたがクリアしなくてどうすんの」
妹をフォローするように、宇羅がこっそりと耳打ちしてくる。
「安心して。ちょっと離れて後ろからついていくから。でも、基本的に助太刀はできないことになってるから、期待しちゃ駄目だよ」
2人に促され、嫌々闇の中へと足を踏み出す。洞窟の中はひやりと冷たく、足音を立てると、何倍にも増幅された反響音が辺りを跳ね回り、それだけで僕の身体はビクついた。
事前に聞いた説明では、この「始まりの魔窟」は一本道だから迷う心配はない。「老退竜の尾鱗」に辿り着くまで、ひたすら進むしかないわけだ。
「ま、逃げ腰の僕には丁度良いな」
独り呟いてから、思い出したように地面から生えていた鍾乳石に手を伸ばした。先端をもって力を入れると、比較的簡単に折ることができた。
左手に鍾乳石の欠片を握りしめて、僕は意識を集中する。その肌触り、硬さ、比重――自分の身体に、その質感を余すことなく染み込ませるのだ。
触れる時に、なるべく周りのモノに触っておくこと。触る対象が増えれば増えるほど、投影できるイメージも増えるし、力の使い方を身体に覚え込ませる訓練にもつながる。ここ数日の練習の中で、自分なりに導き出した1つのヒントだ。
手の内で鍾乳石をもてあそびながら尚も進んでいくと、やがて暗闇の中から獣の唸り声が聞こえてきた。野性味を帯びた黄色い瞳が、壁面に設置された篝火に反射している。
あれは――魔犬ライラプス。
どんな獲物も決して逃がさないと言われる神の猟犬。
僕は腰に差していた木剣を抜き、背負っていた木の盾を構える。デフォルトの装備品で、最初に安原と買った「初心者騎士セット」と比べてもステータスは段違いに低い。勿論そのまま使えば、ライラプスにダメージは通るべくもなく、僕の身体には無数の歯形と爪痕が残ることになるだろう。
そのまま使えば、の話だが。
この木剣と木の盾の利点は1つだけ。
軽く、扱いやすい。
魔犬は遠吠えを上げると、たくましい四肢で地を蹴った。動きに集中していないと、すぐさま目で追いきれなくなってしまう。ライラプスは風のように疾く、獲物である僕との距離を詰めた。
呼吸が荒くなる。手汗が、じっとりと木剣の柄の色を変えていく。
怖くないと言ったら噓になる。
だがそれでも、前に進むんだ。自分の道を拓くんだ。
己の手で、この難局を乗り越える。
ライラプスの牙が迫る。ギラリと光るそれはてらてらと濡れていて、まるで鍾乳石のようだ。
ぎりぎりまで引き付ける。
その牙が。爪が。あと一跳びで、この身体に突き刺さるという、まさにその瞬間。
僕は手の内の木剣に、嫌というほど触ってきた剣の感触を投影した。
毎日毎日、休むことなく触り続けた鋼の手触り。ポケットの中に入れた破片を、修行の合間も常にいじり続けてきた。寝る前には必ず、充分な時間をかけてその刀身の質感を記憶した。
身体に、脳に刻み付けられた、そのイメージ。
眼球の裏で、火花が散る。
「おおおおおおおお」
叫び声を上げながら、僕は鋼と化した木剣を、魔犬目がけて突き出した。




