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須佐妖戦帖 第2章「志能備の須佐」  作者: 蚰蜒(ゲジゲジ)
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其の9 慈眼大師

○羽柴秀吉の動向

本能寺の変当時、秀吉は備中高松城(城主・清水宗治-しみず むねはる)を包囲して毛利氏と合戦の真っ最中で、戦況は善かった。

6月3日、信長の死報を聞くと安国寺恵瓊(あんこくじ えけい-臨済宗僧侶、武将、外交僧)を介して毛利領備中・美作・伯耆の割譲、清水宗治の切腹を条件に和議を纏めた。

5日、光秀になびく武将を懸念して、「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」と虚報を伝えた。つまり信長は光秀の謀反の襲撃から逃げ仰せたと偽ったのである。

其の後12日、摂津の武将中川清秀・高山右近・池田恒興を味方につけ、四国出兵のため堺にいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。此の時の素早い行動を「中国大返し」と云う。

秀吉、諸軍勢を率いて京都に向かう。


○明智光秀の動向

光秀は本能寺の変後、京の治安維持に当たった。武田元明・京極高次らの軍を近江にやり、光秀の居城・坂本城や安土城の周辺を押さえた。

5日、光秀、安土城に入城。

9日、光秀、上洛し朝廷工作を始めるが、秀吉の大返しの報を聞き、山崎に出陣。


山崎の戦い勃発

12日、摂津国、山城国の境、山崎にて秀吉軍と光秀軍は対陣する。世に云う、山崎の戦い(天王山の戦い)である。

羽柴秀吉軍2万7千(池田恒興4,000、中川清秀2,500、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000)。明智光秀軍1万7千。

暫く局地的に小競り合いが続いた。


13日、相も変わらず一進一退の攻防が続いたが、午後六時頃、淀川沿いを北上した羽柴秀吉軍側池田恒興・元助父子、加藤光泰らが三方に別れ、密かに奇襲。続き、丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突き、明智軍は総崩れとなった。光秀は後方、勝竜寺城に退却。主力の斎藤隊も壊走し戦線離脱、松田政近、伊勢貞興が討死した。

光秀は勝竜寺城を密かに脱出し、居城坂本城を目指した。


14日、秀吉は堀秀政を光秀捜索に派遣した。堀隊は光秀のために急遽出兵した明智秀満軍を打出の浜で殲滅した。敗走した秀満は坂本城にて光秀の妻子を殺害、溝尾茂朝、明智光忠と共に自刃した。

秀吉軍・中川・高山両隊は丹波亀山城に向かい、光秀の息子明智光慶を自刃させ、僧侶を抜かせば、此処に明智氏は滅んだ。

16日、秀吉、近江を平定。

17日、斎藤利三は堅田で捕り押さえられ、六条河原にて斬首、しくは磔刑。


光秀は坂本城を目指して落ち延びていた。途中、伏見・小栗栖の藪(現「明智藪」)で土民の落ち武者狩りに遭い、家臣たちと散り散りに成りながら逃げた。家臣が百姓の竹槍で、なぶり殺しにされる処を視た。

「居たぞ!大将だ!明智だ!」

「これまでか・・・」

光秀が、覚悟した時、空から大鴉からすが舞い降りて来た。

グアアアアアアアーー!!

「ひゃああああああ!ーーー」百姓たちは腰を抜かして逃げて行った。

大鴉は光秀を捕まえると、空に舞い上がった。足が三本ある。八咫烏やたがらすだ。

「光秀さま。ご丈夫ですか?」

「そ、其方らは・・・」

背に二人の娘が乗っていた。

「わたしをどうするつもりだ?」

「出雲に連れて行きます。武角たけつのさまのお云い付けです」

「武角どのの・・・・」

光秀は八咫烏の背で娘たちから手当を受けた。

「おれは・・・・おれは・・・」

ゆったりと、一路、須佐の出雲部落に向かった。


羽柴秀吉は清洲会議によって信長後継者となり、天下人への道を歩み始めた。


さて、家康である。

6月2日、家康は本能寺の変の報を深夜、堺・飯盛山の宿にて商人・茶屋四郎次郎清延から聞いた。

「光秀配下の者や一揆等が襲って来る・・・」

家康の供廻は、僅か34名。重鎮が揃っており、襲われたら大打撃であった。

ともに上洛していた梅雪斎不白(穴山信君)の一行も居た。

「わたしめにお任せを。家康どのを三河・岡崎城へ無事にご帰還させましょう」

そう云ったのは、信長家中案内役・長谷川秀一はせがわ ひでかずだ。同じく信長家中・西尾吉次も居た。


秀一は、河内國から山城國、近江國を経て伊賀國へ抜ける道取りを説明した。急使も飛ばして大和国衆・十市遠光に護衛兵の派遣を要請。山城國宇治田原城主・山口甚介秀康(甲賀衆・多羅尾光俊、子息)にも書状を送った。其の後、近江國甲賀小川城主・多羅尾光俊(山口甚介秀康の父)の領地を通り、天正伊賀の乱の地・伊賀國の険しい山道を経た。

家康の同行の中に服部正成が居る。

有名な服部半蔵である。伊賀上忍・服部半蔵保長の子息だ。服部半蔵正成である。

「正成さま、お久しゅう御座います」

伊賀の郷では貧しくも家康一行を生き残りたちが迎えてくれた。

正成は十年程前から伊賀衆150人を預けられる家康の家臣だ。父は乱以後、目撃談は或るものの行方知れずであった。保長は将軍・足利義晴に従えたが、後、三河・松平清康に仕えた。清康は三河の地盤を固めた武将である。徳川家康の祖父にあたる。

「伊賀の地は復興出来ぬかな?正成、父上の行方は解らぬか?」

「はい、未だ・・・」

正成は忍では無い。武将である。


其の後、加太峠を越え、伊勢國から海路で三河国大浜(愛知県碧南市)へ戻り、岡崎城へ帰還した。此れが「神君伊賀越え」である。

秀一は尾張熱田まで家康に同行してから一行と別れて逃げた。吉次は、其の侭、家康の家臣になった。梅雪斎は一揆の襲撃により、切腹した説、家康と別行動を取り、殺害されたと云う説がある。

伊賀と甲賀は其の後世、徳川幕府に同心として雇われることになる。


戦国の世の移りは早い。豊臣(羽柴)秀吉が天下を取ったと思えば、慶長5年(1600年)、秀吉死後、五大老・徳川家康と元五奉行・石田三成を大将として東西に分かれ、「関ヶ原の戦い」が起こり、家康が勝利する。

素志て偉大な江戸時代が始まる。


慶長12年(1607年)、家康は駿府城にいた処、京都・比叡山で争いが起こり、家康に決を求めた。叡山を鎮めるため、天海と云う僧侶が推挙され、比叡山探題執行を命ぜられた。

慶長13年(1608年)、家康が駿府に天海を招き、初めて二人は対面をする。

家康が側近に聞いた。「天海とはどういう僧だ?」

「慈眼大師とも云われております。慈眼・・・つまり千里眼を持つ僧だそうです」


家康は天海を接見した。

「天台宗僧、天海と申します」

「あ、あなたは、もしや・・・・光秀どの?明智光秀どのか?!」

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