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須佐妖戦帖 第2章「志能備の須佐」  作者: 蚰蜒(ゲジゲジ)
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其の7 明智光秀

柴田勝家が戦死した。

安土城会議である。柴田勝家以外の家老、重臣達は生き残った。

「善いか?此の事は伏せろ。筆頭家老・柴田が死んだと知れると、其処を突いて来る大名が居るやもしれぬ」と信長。

「勝家殿の影武者を使いますか?」

「そうしよう。其のような者は居るのか?」

「はい」

「殿、此のいくさで、我が軍勢が弱ったことは事実」

「作戦上の工作も殆ど何も出来なかった。成功していれば、状況も変わったろうに・・・」

酸をく工作があった。須佐には火や爆発より効果あり!だったが、間を損じた。


「急務で全て建て直せ。其れから此の戦自体を世間に知らせるな。特に大津周辺の住民、合戦参加大名達、及び配下には脅しておけ。口碑(こうひ-言伝え)さえ許すな。フロイスにも書かすな。喋る者は打ち首、拷問だと。光秀!大津は坂本城からお前が監視しろ!記録には武田との甲州征伐の最中にしておけ」

「御意!」

「解散だ。光秀、ちょっと、残れ」

「はい」

「お前に頼みがある・・・」

「何でしょう?」


「猿の毛利との戦を補佐しろ。奴は儂のために自ら九州も獲ると云っとる。他に細川忠興・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩河吉大夫らを参戦させる。彼等と先陣を切れ!中国を獲るぞ。織田が弱った・・・なぞと云わせるか!信長包囲網に加担した毛利の殲滅だ。事は重大だ。わかるな?」

「御意!」

「信孝と長秀は四国征伐だ。一気に行くぞ」


「もう一つ・・・家康を・・・殺れ」

「家康殿を!?同盟大名では無いですか?!」

「奴は喰えん。此の事実を何処かで耳に挟むだろう。筆頭の危険人物だ。いつでもわしの動向を探っている」

如何様いかようにして殺害するのですか?」

「表沙汰は友好関係だ。近い内に安土に呼び、ねぎらいとして接待する。大阪やらにも招こうと思う。何処で殺るかは、お前に任せる」

「御意!」

「家康は暫く骨を休めさすさ。毛利戦に行く前に・・・殺れ」

「毛利戦にて武運を飾ります」

「其の後はみんからだ」

「はっ?明?韓?」

「近い将来、明と韓を獲る。九州、中国(毛利中国地方)から出陣よ」

「殿、明は広大な国。戦になると数十万の兵を出すと云いますぞ」

「なんの!中国、九州を獲って明と対抗してみせるわ。光秀、お前が指揮を取れ」

「わ、わたしめがですか?!」

「明を足がかりにして亜細亜を獲るぞ」

「あ!亜細亜ぁ?!!」


光秀は退室した。

「狂ってる。明なんぞと戦えば明智家は滅ぶぞ。常軌を逸している・・・」

光秀の懸念は確かなものになった。

大津の合戦での怪我の養生のためとうそぶき、大津居城・坂本城に戻った。


元亀2年(1571年)9月の比叡山焼き討ち後、宇佐山城の城主であった光秀に、信長は滋賀郡支配を命じ此の城を築城させた。延暦寺監視と琵琶河制海権確保が目的である。

「まさか、大津で合戦するとは・・」

坂本城は合戦場から南に位置した比叡山麓である。其の為、須佐の業火の難から逃れた。

信長や傷ついた兵の手当を此処で暫く預かったのである。


光秀は一度は城に戻ったが、直ぐ、旅立った。数人の供を従え、出雲に出向いたのである。

「出雲へ行ったことは内密にしろ」


同年、天正10年(1582年)

5月15日。光秀、安土城において武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役。

5月17日。光秀、信長に呼び出され、命じられた。

「当日、家康の食事に毒を持て」

「毒殺ですか?殺る場所はわたしに任せた筈では?」

「よいから殺れ!」

「人が多過ぎます。秘密裏に殺そうと計画を練っていました」

「光秀、叡山の焼き討ち時みたいに、またわしに逆らうか?」

「逆らうなど・・・只、人目が多過ぎると述べたまでです」

「ええい!貴様はもうよい!接待から外れろ。中国に直ぐさま行け!」

光秀は接待役を途中解任され居城・坂本城に帰された。元元、短気な信長だが、此処最近、特に激しくなった。

「大津の合戦からだ・・・」


家康接待は丹羽長秀が任された。

案内役は長谷川秀一。

5月19日。安土総見寺にて徳川家康歓待の宴。

5月20日。京都高雲寺にて家康の饗応。丹羽長秀、菅屋長頼・堀秀政らも参加。

5月21日。家康、大坂の堺を見物に行く。秀一は案内役として西尾吉次と共に家康一行に同行。

5月26日。光秀、異居城・丹波亀山城に移り、出陣の準備を進める。愛宕権現に参篭。

28日・29日。光秀、連歌の会「愛宕百韻」を催す。

時は今 天が下知る 五月哉

此の時の光秀の句が、謀反の決意との解釈がある。

5月29日。信長は中国遠征出兵準備のため、上洛。本能寺に逗留。

6月1日。堺・津田宗及宅、茶会に家康・穴山梅雪と共に参加。

同6月1日。信長、本能寺で茶会。

同6月1日夕方。光秀、大津の生き残り兵一万三千を携えて丹波亀山城を出陣。

軍勢に「森蘭丸から使いあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいと要請が入った」と云い、信長は京都へ向かったと述べた。しかし、重臣達には信長討伐を告げた。雑兵達は信長の命で徳川家康を討つのだと思っていた。

「行正」


○藤田行正 (*~1582)伝五郎。美濃出身。光秀側近の一人。近江攻略に活躍。山崎の合戦で自殺。静原山城主。


「はい」

「主君討伐・・・どう思う?」

それがしは、明智光秀様の家臣。仰せの通りに従うまでです。殿の時代が来ることを嬉しく思います」

「そうじゃない。儂が信長殿に勝てると思うか?」

「・・・・・」

「正直に申して善い」

「さすれば信長公を殺ったとしても、家臣殿達がだまっていません。直ぐさま、報復されるでしょう。其の時は・・・万に一つも勝ち目は御座いません・・・」

「儂と共に死ぬか?」

「運命を共にします」

「先日、出雲に行った」

「出雲?」

「須佐部落に行った」

「須佐に?!!な、何をしに?よくぞご無事で」

「信長家臣団が総出で儂を討ちに来たら、勝てはせぬ。だから協力を頼みに行った」

「と、殿が一人で、で御座いますか?」

「うむ。甲賀の従者2人とだ。彼らは真摯に会ってくれた」

「甲賀が・・・・よく・・・で、須佐は何と?」

「断られた」

「そりゃ、そうでしょう。信長殿の家臣ですから」

「彼らは儂の話を聞いてくれた。決して個の野心では無いと」

「どういう話をされたのです?」

「信長は魔王だと。天の才のある魔王だと。だから危険だと。成敗してくれと」

「須佐は信じなかったのですね」

「いや、知っていた。だが、其れは貴方の役目だと云われた」

「殿の?」

「そうだ。まるで未来を見つめるような顔をした」

「殿が天下を穫る?と思ったのでしょうか?」

「其処から先は云わなかった。吉か?凶か・・・そうだ。こうも云った」

「はい」

「あなた方の他にも多勢の兵が遣って来る」

「はあ?」


6月2日未明。桂川を渡った処で光秀は、

「皆の者!よく聞け!敵は本能寺にあり!」

と、宣言した。

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