其の7 明智光秀
柴田勝家が戦死した。
安土城会議である。柴田勝家以外の家老、重臣達は生き残った。
「善いか?此の事は伏せろ。筆頭家老・柴田が死んだと知れると、其処を突いて来る大名が居るやもしれぬ」と信長。
「勝家殿の影武者を使いますか?」
「そうしよう。其のような者は居るのか?」
「はい」
「殿、此の戦で、我が軍勢が弱ったことは事実」
「作戦上の工作も殆ど何も出来なかった。成功していれば、状況も変わったろうに・・・」
酸を撒く工作があった。須佐には火や爆発より効果あり!だったが、間を損じた。
「急務で全て建て直せ。其れから此の戦自体を世間に知らせるな。特に大津周辺の住民、合戦参加大名達、及び配下には脅しておけ。口碑(こうひ-言伝え)さえ許すな。フロイスにも書かすな。喋る者は打ち首、拷問だと。光秀!大津は坂本城からお前が監視しろ!記録には武田との甲州征伐の最中にしておけ」
「御意!」
「解散だ。光秀、ちょっと、残れ」
「はい」
「お前に頼みがある・・・」
「何でしょう?」
「猿の毛利との戦を補佐しろ。奴は儂のために自ら九州も獲ると云っとる。他に細川忠興・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩河吉大夫らを参戦させる。彼等と先陣を切れ!中国を獲るぞ。織田が弱った・・・なぞと云わせるか!信長包囲網に加担した毛利の殲滅だ。事は重大だ。わかるな?」
「御意!」
「信孝と長秀は四国征伐だ。一気に行くぞ」
「もう一つ・・・家康を・・・殺れ」
「家康殿を!?同盟大名では無いですか?!」
「奴は喰えん。此の事実を何処かで耳に挟むだろう。筆頭の危険人物だ。いつでも儂の動向を探っている」
「如何様にして殺害するのですか?」
「表沙汰は友好関係だ。近い内に安土に呼び、労いとして接待する。大阪やらにも招こうと思う。何処で殺るかは、お前に任せる」
「御意!」
「家康は暫く骨を休めさすさ。毛利戦に行く前に・・・殺れ」
「毛利戦にて武運を飾ります」
「其の後は明と韓だ」
「はっ?明?韓?」
「近い将来、明と韓を獲る。九州、中国(毛利中国地方)から出陣よ」
「殿、明は広大な国。戦になると数十万の兵を出すと云いますぞ」
「なんの!中国、九州を獲って明と対抗してみせるわ。光秀、お前が指揮を取れ」
「わ、わたしめがですか?!」
「明を足がかりにして亜細亜を獲るぞ」
「あ!亜細亜ぁ?!!」
光秀は退室した。
「狂ってる。明なんぞと戦えば明智家は滅ぶぞ。常軌を逸している・・・」
光秀の懸念は確かなものになった。
大津の合戦での怪我の養生のためと嘯き、大津居城・坂本城に戻った。
元亀2年(1571年)9月の比叡山焼き討ち後、宇佐山城の城主であった光秀に、信長は滋賀郡支配を命じ此の城を築城させた。延暦寺監視と琵琶河制海権確保が目的である。
「まさか、大津で合戦するとは・・」
坂本城は合戦場から南に位置した比叡山麓である。其の為、須佐の業火の難から逃れた。
信長や傷ついた兵の手当を此処で暫く預かったのである。
光秀は一度は城に戻ったが、直ぐ、旅立った。数人の供を従え、出雲に出向いたのである。
「出雲へ行ったことは内密にしろ」
同年、天正10年(1582年)
5月15日。光秀、安土城において武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役。
5月17日。光秀、信長に呼び出され、命じられた。
「当日、家康の食事に毒を持て」
「毒殺ですか?殺る場所はわたしに任せた筈では?」
「よいから殺れ!」
「人が多過ぎます。秘密裏に殺そうと計画を練っていました」
「光秀、叡山の焼き討ち時みたいに、また儂に逆らうか?」
「逆らうなど・・・只、人目が多過ぎると述べたまでです」
「ええい!貴様はもうよい!接待から外れろ。中国に直ぐさま行け!」
光秀は接待役を途中解任され居城・坂本城に帰された。元元、短気な信長だが、此処最近、特に激しくなった。
「大津の合戦からだ・・・」
家康接待は丹羽長秀が任された。
案内役は長谷川秀一。
5月19日。安土総見寺にて徳川家康歓待の宴。
5月20日。京都高雲寺にて家康の饗応。丹羽長秀、菅屋長頼・堀秀政らも参加。
5月21日。家康、大坂の堺を見物に行く。秀一は案内役として西尾吉次と共に家康一行に同行。
5月26日。光秀、異居城・丹波亀山城に移り、出陣の準備を進める。愛宕権現に参篭。
28日・29日。光秀、連歌の会「愛宕百韻」を催す。
時は今 天が下知る 五月哉
此の時の光秀の句が、謀反の決意との解釈がある。
5月29日。信長は中国遠征出兵準備のため、上洛。本能寺に逗留。
6月1日。堺・津田宗及宅、茶会に家康・穴山梅雪と共に参加。
同6月1日。信長、本能寺で茶会。
同6月1日夕方。光秀、大津の生き残り兵一万三千を携えて丹波亀山城を出陣。
軍勢に「森蘭丸から使いあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいと要請が入った」と云い、信長は京都へ向かったと述べた。しかし、重臣達には信長討伐を告げた。雑兵達は信長の命で徳川家康を討つのだと思っていた。
「行正」
○藤田行正 (*~1582)伝五郎。美濃出身。光秀側近の一人。近江攻略に活躍。山崎の合戦で自殺。静原山城主。
「はい」
「主君討伐・・・どう思う?」
「某は、明智光秀様の家臣。仰せの通りに従うまでです。殿の時代が来ることを嬉しく思います」
「そうじゃない。儂が信長殿に勝てると思うか?」
「・・・・・」
「正直に申して善い」
「さすれば信長公を殺ったとしても、家臣殿達がだまっていません。直ぐさま、報復されるでしょう。其の時は・・・万に一つも勝ち目は御座いません・・・」
「儂と共に死ぬか?」
「運命を共にします」
「先日、出雲に行った」
「出雲?」
「須佐部落に行った」
「須佐に?!!な、何をしに?よくぞご無事で」
「信長家臣団が総出で儂を討ちに来たら、勝てはせぬ。だから協力を頼みに行った」
「と、殿が一人で、で御座いますか?」
「うむ。甲賀の従者2人とだ。彼らは真摯に会ってくれた」
「甲賀が・・・・よく・・・で、須佐は何と?」
「断られた」
「そりゃ、そうでしょう。信長殿の家臣ですから」
「彼らは儂の話を聞いてくれた。決して個の野心では無いと」
「どういう話をされたのです?」
「信長は魔王だと。天の才のある魔王だと。だから危険だと。成敗してくれと」
「須佐は信じなかったのですね」
「いや、知っていた。だが、其れは貴方の役目だと云われた」
「殿の?」
「そうだ。まるで未来を見つめるような顔をした」
「殿が天下を穫る?と思ったのでしょうか?」
「其処から先は云わなかった。吉か?凶か・・・そうだ。こうも云った」
「はい」
「あなた方の他にも多勢の兵が遣って来る」
「はあ?」
6月2日未明。桂川を渡った処で光秀は、
「皆の者!よく聞け!敵は本能寺にあり!」
と、宣言した。




