其の10 江戸魔法陣
信長の家臣たちの其の後を書いておく。
清州会議にて秀吉の計らいにより信長嫡孫・三法師が織田氏の後継者となった。信長三男・織田信孝は此れに不満を持った。柴田勝家は信孝を支持した。羽柴秀吉×柴田勝家の権力抗争が始まる。嫡孫・・・秀吉の野望が此の時、露になるようである。
柴田勝家
影武者である。信長生前では筆頭家老であったが、本能寺の変以後、織田信孝を後援したため、秀吉よりも下になってしまった。
天正11年(1583年)、秀吉と天下を争った一戦、賎ヶ岳の戦いにて惨敗。北ノ庄城落城前夜、最期の酒宴を張り、茶々(淀、秀頼の母)・初・江の3姉妹を城から出し、妻お市を殺した。
影武者は「勝家どの。せめて、最期は貴方の名を汚す事無い死に様を視せます!」と云い、十字切りで切腹、介錯させた。享年62。
辞世句
夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
丹波長秀
天正11年(1583年)、賎ヶ岳の戦いにて秀吉を補佐。若狭、越前、加賀二郡を与えられ、123万石の大名となった。
天正13年(1585年)4月16日、胃がんで死去。享年は51。
滝川一益
天正11年(1583年)正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた。戦が始まると、一益は北伊勢の諸城を攻略したが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、自害。其の後、信孝も自害。残った一益は長島城で籠城し孤軍奮闘したが7月に降伏した。一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、朝山日乗の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り、越前にて蟄居した。伊勢の所領は信長次男・ボンクラと云われた織田信雄のものとなった。
天正14年(1586年)9月9日、死去。享年は62。
話を戻す。
「光秀だと!」
家老たちが一斉に刀を抜いた。
家康は天海を視て不思議に思った。穏やかな眼をしていた。
「此れが信長家臣団の秀才と云われた武将か?」
「殿!」
「まあ、まて。お前達は下がって善い。天海どのと二人で話したい」
「危険人物ですぞ!」
「大丈夫だ」
家臣たちはぶつぶつ云いながら席を離れた。
「あなたは明智光秀どのだな?」
「・・・天台宗僧侶・天海で御座います」
「儂の暗殺の命を受けた者、信長暗殺の首謀者が僧侶になって前に居るとは・・・時とは不思議なものよ」
「暗殺・・・其処まで御存知か。一度しかお会いしていないのに・・・殿は鋭いお方だ。いかにもわたしは元織田信長家臣・明智光秀で御座います」
「やはりな。安土の宴の時・・・あなたは血気盛んだった。しかし、よくぞ此処に来られた。ばれたら命は無いと思わなかったか?」
「殿が天下を取った今、わたしなど屑同然。殺されても善いとも思いましたが、懐の深い、家康どのにもう一度会ってみたい。運命に任せようと思いました」
「あなたは山崎の戦い後、伏見の薮で百姓たちに殺されたと聞いたが?」
「山崎の戦い後、逃げました。逃走中、百姓たちが鍬、竹槍や鎌を持って躍起になって追って来た。此れまで!と思った時、須佐一族に助けられたのです」
「須佐一族・・・半蔵から口碑(こうひ~伝説)を聞いている。大津の合戦に兵を派遣しなかったのは彼の意見だった。彼等を敵に回すな、徳川が滅ぶと云われたのだ」
「服部半蔵正成どのですね。わたしは父上に会いました」
「保長どのに?!正成を此処に呼べ!」
「天海どの、父上を何処で?」正成は聞いた。
「出雲の須佐部落におります」
「生きておりますか?」
「はい、今も」
「武角どのが・・・保護してくれたか。しかし、何故、あなたと須佐が?」
天海は経緯を説明した。
「信長どのが魔?だと!本能寺に須佐が?」
「はい、信長の最期は武角どのに聞きました。怨霊たちが無数の蟲に化けて喰い殺し、骨さえ無くし昇天させたと」
「なんと!屍が見付からないわけだ」家康と正成は納得した。
「信長どのは気性の激しい方だったが、天才だった。しかし、あの異常な残虐さは何だったのか?今、わかった気がする」
「第六天魔王・・・と、自ら云っていた」
天海は、「わたしは何もかも失いました。明智のものたちには可哀想なことをした。わたしが変わって天下取りに?そんなものは考えていなかった。信長が恐ろしくなっただけです。わたしは死ぬべきだった。しかし・・・」
「しかし?」
「須佐に助けられた。出雲部落に連れて行かれて・・・武角どのが云ったのです」
「如何様に?」
「生きなさい、と。わたしは従った。何年居ても構わない、隙なら呪術を取得してみては?と」
「天海どのは呪術を教わったと?」
「はい、魔法術、風水、星読、須佐歴史や妖術、法力です」
「法力?」
「炎を呼び、雷を呼ぶ・・・わたしには不要でした。覚えたのは呪術です。其の後、天台宗で教を学びました」
「呪術とは?」
「超自然の力を得る方法です。小角先生と陰陽師に習いました」
「陰陽師に・・・小角先生とは?」
「役小角先生です」
「役小角だと!」
「あなたは慈眼大師と呼ばれているそうですな。千里眼が出来ると」
「世間の戯れ言です」
正成が云った。「殿、彼等は時を超えた長寿人です。須佐之男命、天皇の戦闘員・・敵は魔です。須佐武角は始祖です。他族から引き抜く場合をある。例えば源頼光などです。須佐の苗字を与える時もある。多族の場合、須佐ノ某になります。ノが無い、須佐某が直系です」
「魔の戦闘員・・・軍隊、天皇の志能備か。古事記の八咫烏は武角か?」
「はい」
「う〜む。一体、如何程の時を生きているのじゃ?・・・」
「彼等は不死ではありません。傷付けば死ぬし、歳も取りますが、歳を重ねる速度が違うのです。あの部落に居るだけで長寿になります」と天海が述べた。
「其の部落に案内出来るか?」
「無理だと思います。彼等の了承が無いと、部落自体を消し去ります」
「部落を消す?」
「山霧の術で、部落を隠すんです」
「天海どの、其の呪術とやらを江戸の地に施せるか?」
「はい、ですが可成り大掛かりになります。此の土地は不十分です。ですから防衛も兼ねた海側の土地の埋め立て、呪術には神社寺院の移築、建築・・・」
「如何様に?・・・」
天海は大まかに述べた。矢張り元武将。家康のため、防衛や土木の計画まで入っていた。
「・・・秀忠を呼べ」
正成は此処で退室した。
家康と秀忠、天海は論を重ねた。
「父上、此れはやるべきです」
「そう云っても秀忠、何年掛かる?数代掛かるぞ、此の計画は。徳川は保つかな?」
「其の為の魔法陣です」
江戸の地は城から東が直ぐ海だった。敵が船団で攻めて来たら一溜まりもない。大砲の射程距離になる。其の為、其の先を埋めた。防衛上からである。東京の下町は埋め立てで出来た土地である。下町からは飲み水が採れなかったので山手上流に上水整備が成された。経済の大辻は江戸城を中心に蜘蛛の巣のように広げた。つまり、東京の元を造ったのである。
徳川は三代掛けて江戸を人工に造り上げた。道具は鍬である。
素志て江戸城を中心に魔法陣を備えた。
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府(静岡)にて死去。遺骸は遺命により駿河国久能山(久能山東照宮)に葬られた。が後、下野国日光へ改葬。
「天海どの、儂は死が近い。死んだらに二荒山に祀ってくれ。北斗呪術だ」
家康は死して天に輝く星になった。江戸には隠し北斗七星術がある。二荒(日光)東照宮は其の真北、北極星である。
天海大僧正は徳川に三代仕えた。
天台宗僧。南光坊天海、智楽院、大僧正。諡号・慈眼大師。多くの名があった。
「思えば数奇な生き様だ。わたしは山崎の乱後、死んでいたはずが生きた。絶望の果てを須佐殿に助けられた。僧になって徳川氏と再び出合い、縁あって仕えた。不思議なものだ。一時は家康暗殺を指示したのに。徳川氏との半生は充実したものだった。長寿を全うし、色色なものを視て来た。・・・須佐殿、常世からなら、また会いに行けるだろうか・・」
寛永20年(1643年)、108歳没。5年後、朝廷より慈眼大師号を追贈される。墓所は栃木県日光市。
光秀の生誕は、享禄元年(1528年)とされる。つまり本当は115歳没である。1526年、1516年説もある。1516年とすれば127歳没である。
慶安元年(1648年)、天海着手「寛永寺版(天海版)大蔵経」が、幕府によって完成。しかし、天海の呪術を其の後、行った者は居ない。
日光東照宮内の柱に小さく桔梗紋が描かれている。明智家の紋章である。
「名こそ惜しけれ!」
鎌倉武士のスローガンのように、滅亡した明智を惜しんだのかもしれない。
完
「明智光秀?」
光秀が出雲須佐部落を訪れた。「会おう」武角は訪問を許し、座に通した。座に通したのは光秀のみ。お付きの者は別部屋である。座には武角の他、佐助、舞など6名が座した。
「明智光秀殿か?」
「いかにも。本日は武角殿におり行って頼みがあり馳せ参じました」
「聞こう」
光秀は論じた。信長は狂気だと。何かこの世のもので無いものが憑いている。我らは退治しなければならない。しかし、無理だ。人智で測れない力があるみたいだ。で、あなた方の力を借りたい。
武角は感じていた。何か途方もない魔が信長に憑いていると。
近く信長は京都本能寺に宿泊すると光秀は述べた。その時を狙う。
「では本能寺全体に火事を起こしてくれ。あなた方は外で逃げ惑う者を叩け」
つまり、逃げ場を断て。その隙に須佐が寺中の信長を滅する・・・。
光秀は安心した。しかし・・・主君を罠にかけるなど・・・武士としてあってはならない。私は呪われるだろうな。
第六天魔王・・・。
実際は信玄が亡くなり戒名(仏名)が書状で送られて来た時の返事に書いた言葉であります。終始云い放っていたわけではありません。
「仏教など叩き潰す」と云うのが第六天魔王。信玄を虚仮にしたかったのでしょう。
光秀は何故?本能寺で信長を襲ったのか?未だ謎であります。
光秀家臣団は「信長を討って、明智どのが天下を獲る時が来た!」と思った。
光秀は信長家臣団の中で秀才と云われた頭脳の持ち主。秀吉や勝家軍などに一気に報復をされたら勝てるとは思っていなかった筈です。
幾つかの見解、研究と史実を組み合わせてみた。
比叡山延暦寺焼け打ちの時、光秀は「おやめください」と云った。家臣が主君に逆らうなど此の時代有り得ないことです。打ち首ものです。光秀は信長に何かと蹴られたり、殴られたりしていたとも云われる。遺恨はなかったのか?・・・であります。
家康暗殺指令があったとも云う。
其の為の家康の安土への招き。宴を光秀が主催した。宴の時、「毒をもれ!」と信長に云われたと云う。関西視察の時にも計画していたのかもしれない。すると同行した長谷川秀一や西尾吉次はどういう役割だったのか?家康を守るため、命がけで伊賀越えを先導した二人であります。西尾吉次などは其の侭、家康家臣になっている。家康同行人達は重臣ばかりでした。強襲した処で成功したのか?信長が「毒をもれ!」と云ったのは正しかったかもしれない。道中を襲ったなら、長谷川と西尾も巻き添えで殺したかもしれない。そもそも家康を何故?今、暗殺せねばならないのか?同盟大名として必要な筈。自分も何時か殺される・・・と思ったか?
秀吉絡みだと云う意見もある。暗に光秀と計画されたことだったとしている。
足利や天皇からも恨まれていただろうから、本来、信長は誰に殺されても怪訝しくは無い。欲だったり、遺恨だったり。様々であります。
わたしが思ったのは明占領計画。明(古代中国)を獲る・・と云っていたらしい。「数十万の兵を出す明に勝てるのか?明智家は滅亡する」光秀が思っても怪訝しくないと思った。へたしたら船団で遣って来て日本占領も犯すでしょう。全面戦争です。更に枝葉をつけ、「亜細亜も狙うぞ」とした。「狂ってる・・・」
素志て、光秀は信長の背に幻想のように「魔」を視るのです。そういう事柄があったのなら、此れが謀反の引き金ではないか?
本能寺の変の後、信長の屍が見付からなかったのは史実です。だから生き残り説が多様にある。しかし、思うに逃げ仰せたなら信長は直ぐさま、兵を建て直した筈です。光秀を断じて許す筈が無い。信長は本能寺で死んだ。屍が見付からなかったのは意味不明ですが、死んだのです。
山崎の戦い(天王山の戦い)。光秀の最期であります。
伏見・小栗栖の藪(現、明智藪)で土民の落ち武者狩りに遭い、其処で竹槍に刺されて絶命した説。力尽きて家臣の介錯で自刃し、首を竹薮の溝に隠した説があります。
屍を秀吉の処に持って来た者も居た。其の遺体は顔の皮が剥がされ、潰されて、誰だか解らなかったと云う。褒美貰いたさに其処らの兵の遺体を持って来た可能性が高い。
つまり彼も死んだと云う確証は無いのです。
其処で後の天海=明智光秀説が出て来るんですが、噂は元禄年間(1688年~1703年)の頃からのようです。天海死後です。年齢が近い事、他にも似ている部分が多数あるらしいけれど、信憑性はよくわからない。と、云っても嘘だと云う確かな証拠も無い。
日光東照宮内、回りには、桔梗紋やら明智平(古くは名所は無いので後世に銘々したと思われる)など明智を思わせるものが多い。桔梗紋は他家も使用していることから明智に繋げるのは無理がありますが、どうも多い。江戸城以前の支配者・太田道灌も桔梗紋です。しかし、明白なものが何もない。無論、此処を建立指示したのは天海です。他の地域場所にもある。誰かが後、光秀を惜しんでやった・・・とも取れるものでもあるのです。
天海が呪術を何処で取得したのか?四神相応に照らし合わせて土地を開拓したり、四方八方を色々な古術を使って江戸を鎮護している。何でも御座れ!です。天海流呪術らしきを云われますが、後、此の術を追う者は居なかった。
此処では天海=明智光秀としました。須佐に助けられ、須佐に術を教わり天台宗僧になる。
信長を残虐者、悪鬼の如く書き、最期も怨霊の宿った蟲に生きながら喰われて死ぬ・・・と云う設定にした。信長ファンには申し訳なく思っています。わたしが一番残虐かもしれません。
信長は一つに括れない人であります。第六天魔王などと云ったわりに、本能寺を建立したのは信長です。
比叡山延暦寺焼け打ちとは、文中、一益が述べる。「叡山の僧たちは武装して独立国の如く強がり、宮廷さえ手を焼いていた。退治は世の定めだ」
後の宮本武蔵が奈良、宝蔵院流槍術の使い手・奥蔵院日栄と云う僧と対決したりしている。可成りの腕を持っていたらしい。
須佐は数千年を生きる古代忍者ですが、不死ではありません。しかし、まだまだ長生きするでしょう。八岐大蛇、金毛九尾狐、鵺、酒呑童子、見知らぬ魑魅魍魎、魔とはそういうものです。今回は対武将でしたが、須佐の力は魔と戦った時、本領を発揮します。
今回は戦国の史実絡みが多い。実在の人物が多々です。
最後まで読んでくれて感謝。ありがとうございました。




