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須佐妖戦帖 第2章「志能備の須佐」  作者: 蚰蜒(ゲジゲジ)
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其の1 天正伊賀の乱

伊賀を滅ぼした織田信長は、戦さ後、伊賀の里でふいに手裏剣で狙われる。其の手裏剣には文が巻かれ

「御命頂戴スル 須佐一族」。

「須佐一族?何者だ?」

売られた喧嘩は買う!と信長は須佐の調査と壊滅を命令するが・・・・。其れは此の世のものでは無い戦いとなり、信長は精神を病んで行く。

織田信長の進撃が続き、覇王となりつつある時代。居城、安土あづち城建設の頃の物語である。


時は天正4年(1576年)、北畠きたばたけ家養嗣子、織田信長次男・織田信雄(元服後 北畠具豊、相続後 信意)は、北畠具教きたばたけ とものりと息子2人、北畠家家臣14人を暗殺し、同日、田丸城に他、北畠一族を饗応と偽り謀殺した。素志そして伊勢國を掌握し、更に伊賀國(伊賀忍者國)をも分捕ろうと目論んでいた。

「織田家の能無し者・・・俺はそう呼ばれて来た。北畠に厄介祓ばらいされた・・・・視てろよ。眼に物視せてやる」

天正6年(1578年)2月、伊賀國郷士・下山平兵衛と云う者が信雄を訪れ、伊賀國への手引きを申し出た。同年3月、丸山城を要塞に修築することを配下に命じた。伊賀との戦の用意である。


一方、伊賀では周辺地域が次々に織田氏の支配下となっていた。忍者と云う者達は鎌倉時代から郎党の集まりであり小競り合いを繰り返していたが、周囲が戦国大名ばかりになり、抗戦、防戦のため何時頃からか?衆の連合共同組織を組み、修練に明け暮れた(伊賀惣国一揆と云う)。其れが忍者の元である。

彼等は屢々(しばしば)、連合会議を行って、意見を述べ合っていた。其の中心人物を「伊賀十二人衆」と云う夫々(それぞれ)の族長である。彼等は信長に臣従するか?徹底抗戦するか?で意見が割れた。


其の頃、丸山城を要塞に修築していると云う情報が入った。伊賀忍者衆は情報活動が主だ。情報収拾は手の物である。其の事を知った伊賀衆は驚愕した。丸山城西側の天童山内から密に様子をうかがったのである。


丸山城指図 

山城也、此山根置周取廻六百九十六間、山下地形よ里山までの高サ三十間有南方を正面とす 麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間 山下整地広さ南北四十四間 東西二十五間 右整地之内に三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり

―伊賀旧考


鉄壁壮大である・・・と記される。


伊賀忍達が平楽寺に集まり、「完成前に粉砕しよう。いくさだ!」と決断した。丸山城周辺の衆を集結させ、10月、彼等は総攻撃を開始した。

「伊賀者だ!伊賀者が攻めて来た!」

不意を突かれた丸山城内は混乱し、残存兵を糾合(きゅうごう~寄せ集め)し、伊勢に逃げ去った。

「退避!退避ーーー!」


天正7年(1579年)9 月16日、信雄は再び八千の兵を率いて伊賀國に3方から侵攻した。しかし、伊賀忍衆は各地で抗戦し、信雄軍を又もや伊勢國に敗走させた。伊賀衆の夜襲や奇襲で、2~3日で信雄軍は二千の兵に減った。 信雄も危うく殺されそうになる。

信雄軍の被害は甚大で千五百人を率いた家臣・柘植保重などが討死した。


信長は此の信雄の伊賀侵攻を知らなかった。信雄が勝手に伊賀で戦を起こし、更に敗戦したことを知った信長は激怒した。

「あのうつけが!」信雄は謹慎を命じられた。

更に信長は此の頃、本願寺との抗争が激しくなっていた。伊賀國平定は後回しせざるを得なかった。


此の信雄が起こした乱が「第一次天正伊賀の乱」である。


2年後の天正9年(1581年)4月、上柘植・福地宗隆、河合村・耳須弥次郎と云う者達が安土城の信長を訪れ、「伊賀攻略の際は道案内をいたします」と申し出た。

再び具豊(信雄)を総大将に5万の兵を持って伊賀に侵攻した。


伊賀衆は比自山城に三千五百人(非戦闘員含めると一万人)、平楽寺 (後の伊賀上野城、万福寺)に千五百人が籠城した。

伊賀衆は強かった。夜襲、奇襲の応酬で蒲生氏郷や丹羽長秀の隊を翻弄させたが、総攻撃の前日、比自山城から全ての城兵は柏原城に逃亡した。しかし、其の後、伊賀側から逃亡者が相次いだ。内通、寝返りである。柏原城以外の場では地獄絵図が展開された。村や寺院は焼き払われ、住民は子供、女までも皆殺し、平楽寺では僧侶約七百人が斬首された。

残った者たちは柏原城に籠城した。


奈良の申楽太夫が柏原城にやって来て、和睦の仲介に入り、惣名代として滝野吉政が早朝、具豊に会い、和睦を行い、城を開けた。

戦は終わった。


逃げた残党は捕縛され殺されたが、十二人衆の親族や豪族らは他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国したと云う。

此れが「第二次天正伊賀の乱」である。

天正9年(1581年)伊賀平定。


統括者(伊賀上忍三家)の中によく知られた人物が居る。

百地丹波ももち たんば

伊賀流の始祖とされる。伊賀で姿を視た者は殆どいなかったが、第二次の戦で初めて公に姿を現わした。後の消息は不明。戦死の確証も無い。

○服部半蔵保長(はっとり はんぞう やすなが)

元名、千賀地。千賀地保遠の子。後の徳川家康家臣・服部半蔵正成の父。狭い土地での生活に貧し、伊賀を出て旧名、「服部」に戻して、室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えた。

藤林長門守ふじばやし ながとのかみ

北伊賀に勢力を誇った豪族。詳細は殆ど伝わっていない。


生き残った服部半蔵保長は戦後間もなく戦場を再訪した。建物は全て焼き払われ、腐った屍体が山の様に其の侭放置されたいた。

「伊賀は立ち上がれない・・・」涙を流した。

「信長に屈した方が善かったか?」そして一人、屍体を埋葬し始めた。

「保長どの・・・」

「誰かな?わしを呼び止めるのは?信長の配下の者か?殺しに来たのか?ああ!貴方は・・・須佐の・・・・!!」


一週間あまり経った頃、信長自身が家臣を連れて伊賀を訪れた。

「全滅じゃな。新八郎(織田信兼)、雄利(滝川雄利)。お前等に此の地を授けよう」

「あ、有り難き幸せに存じます」

「期待しているぞ。此の地を織田の名のもとに守ってくれ」

御館おやかた様!」

わしに逆らう者は皆、こうなるのよ」

ヒュン!

「う、うわ!」

其の時、何処からか一本の棒手裏剣が飛んで来て信長の顔をかすめた。よろめいて馬から落ちそうになった。

「誰だ!何処からだ!」

「右だ!右から飛んで来た!」

「棒手裏剣だ!忍だ!伊賀者が隠れているぞ!」

「殺せ!」

しかし、辺りは焼き払われた平野で隠れる所など何処にも無い。

「何処からだ?」

皆、刀を構えて辺りを見回して迂路迂路うろうろしている。

「居たか?!」「わ、わかりませぬ!人影などありません!」

「御館様」

「何だ?」

「手裏剣に何かいてあります」

「文のようだな。貸せ」

信長は捲かれた紙をといた。

「何を!」

其処にはこう書かれてあった。


御命頂戴スル  

   須佐一族

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