「辻道にて」
鳥の鳴く声がする。
────夢が覚める。
「……………………………ッ」
緑色。黒色。痛み。視界と思考が混濁し、外と内とが混ざり合う。やがて意識が形を成した時、綾は傍らの水面に映る、磔にされた自分の姿を認めた。
「ここ……………は…………」
首だけを巡らせて辺りを探るも、その風景に見覚えは無い。苔むした地面と僅かに差し込む木漏れ日を見るに、森か山の中、それもかなりの奥部にいるようだ。
そして、背後に立つ巨木の幹に、両の手首は固定されていた。
私は。
悲鳴を────聴いたのだ。
無我夢中で山に分け入り、そして────。
全身の軋みに顔を顰めながらも、霞む頭で記憶を探る─────と。
『──────目覚めたか』
「……………!?」
地の底から、或いは幽谷の狭間から鳴り渡るかのような重い声。およそ人のものとは思えぬ怪音が、しかし明確に人語の形を成して投げ掛けられる。突然の事態に当惑する綾を差し置いて、声は続けた。
『荒事は我らの本意に無し。然れど静観疾うに能わず。侵犯の禁は破れ、同胞の骸は累々なれば────我ら山の一連、既に汝らを看過せぬ』
「くっ………誰です、姿を現しなさい!」
『この身に影無し。山は個の衆、衆を以て一と成すもの故に、我らもまた個を以て一と成す事は無い。
…………だが。汝がもし、一成す衆、衆成す個、その一を問うているならば────』
刹那。
木立の狭間、緑深き闇の最中に、金色の双眸が浮かび上がる。
『我は衆の頭目。上なる者。山成す個、その最も大いなる一。
────山長。名を、ムエイ』
「…………山の、長………………」
暗闇からこちらを見据える巨大な瞳は、どう見ても獣のそれだったが────刃のような鋭さと、深い知性とを感じさせるその眼光に、綾は山長足り得る威風を感じ取った。理性ではなく本能が、目の前の存在の力を認めたように思えた。
「…………山長ムエイ。私を捕らえた目的は何ですか。この身は一介の剣士、山の恨みを買うような真似をしたつもりはありませんが」
口調は恭しく、然れど一分の隙も見せぬよう、綾は努めて冷静に問うた。山の長、ムエイは深い瞳を逸らさずに応える。
『儀礼。汝の疑を晴らすべき───或いは定むべき審判』
「………疑とは。私にどのような疑いが掛けられているというのです?」
『亡骸は積み上がり、骨肉はもはや塚を成す。幾つもの、幾つもの命が山に還った。
我らは見た。傷生む者の影を。銀を携え山を荒らす者の名残を』
「それが、私だと」
『然り』
獣の瞳に感情は無かった。ただ無機物のように光るその眼に、綾は人ならぬ理に生きるものども、人外の色を見る。
人の言葉を使っていても、人の理に従っているわけではない。彼らは彼らの、山の理に従って生きる者達だ────弁明が通じる事はないだろう。
「私を捕縛し、それで被害が収まれば、私が山荒らしの犯人である、と」
ムエイは陰の中で頷き、
『事実、汝を捕らえてより後、傷負う者は未だ無し』
「…………では、このままいけば」
『汝の血を以てして、山の傷の贖いと成す────今宵を越えた、暁と共に』
「………………ッ…………!」
宵を越えた、暁────即ち、明朝。恐らく私は殺される。
背筋を悪寒が駆け上がり、冷や汗となって額を伝った。平静を保とうと努めてはいたが、抑え切れぬ恐怖が胸の底から湧き上がる。
明日の明け方───それまでに、どうにかこの場を離れなければ。
『理解せよ、人間。我らは汝らの友に非ず』
「…………ええ。承知しています」
『ならば暁を待つがいい────夜明けと共に、全ては決する』
その言葉を残して、山長ムエイは身を翻し────去り際、小さな声で呟いた。
『故にこそ、未だ汝の疑は定まらず』
「…………それは、どういう────きゃっ!?」
旋風が木の葉を舞い上げ、辺りの草木を揺らして去り往く。重苦しい獣の気配は、既にそこから消えていた。
一人残された綾は、ちらりと腰元に目を移す。当然ながら、慣れ親しんだ愛刀の姿はそこに無い。焦る気持ちを抑えつつ、綾は考える。
言わずもがな、綾は山の獣を殺した覚えなどない。しかし事実として、綾が捕えられた後、山に被害は発生していないという。
ならば────何かの人為があるはずだ。人知れず山を襲撃し、綾の仕業であると仕向けたような人物が、いる。
だが、誰だ。
獣達の目を掻い潜り、独楽一座にすら悟られる事なく、こんな策謀を巡らせられる人物とは、一体──────。
「……………とにかく」
まずは、どうにかして脱出しなければ。
里に戻り、独楽一座へとこの事を知らせれば、つくもとこのえは動いてくれるだろう。正体知れぬ敵の存在を知らせる為にも、ここで命を落としてなるものか。
そして─────
────彼への罪を、晴らすためにも。
■
朱矢つくもは焦っていた。
「あと三日───いや二日でもいいんです! どうにか期限の引き延ばしを………!」
「そう言われてものう…………わしらも予定立ててやっとるのだが…………」
「なんとか! ほんとに! お願いしやす! 少しだけでもいいですから、旦那の退院を引き延ばしてくださいよう!」
場所は平逆、里の小さな診療所。辻兵衛が精療するこの医院で、つくもは老院長へと必死に頭を下げていた。
華耶樹綾の失踪───その事実を、どうにかして辻兵衛から隠す為に。
「そうは言うがなあ。あやつに事が知れるのも時間の問題だろうて。ここで必死に隠しても、いつかはバレると思うがのう」
「それは………そうです、けど…………」
独楽一座───つくもとこのえの二人が綾の失踪を知ったのは、つい今朝の事だ。家に戻る姿を見なかったという町人が一人と、夜中に山へ駆けてゆくのを見たという木こりが一人、一座に連絡を寄越した。
情報が拡散するのを危惧したつくもとこのえは、座の使用人達に固く口止めした上で、少人数での捜索を始めた。
しかし、今日が辻兵衛の退院日である事を思い出したつくもは、家に戻る辻兵衛が綾の不在を訝しむ事のないように、診療所へと退院日の延期を頼みに来たのである。
「け、けど! 少しでも時間を貰えれば、必ずその間に綾さまを見つけ出してみせます! だから─────」
「うーむ。他ならぬ一座さんの頼みじゃ。力になりたいのはやまやまだが………」
「今回ッきりです、院長!
旦那だけには知られちゃいけないんです………あの人がこれを知ったら、怪我も顧みず山まで探しに行くに決まってる!」
「何を知られてはいかんのだ」
「だからっ、綾さまが行方ふめ──────うわひゃああああ!!?」
─────振り返ると、いた。まっさおな顔の幽霊が────否、犬童辻兵衛が。
「だ、だん、だ、だだだ、だなあーッ!?」
「落ち着け独楽屋。口調が謎だ」
「い、犬童! あまり出歩くなと言っとったろうが! 何の用じゃ!?」
「用も何も、蔵の戸が空いている事を伝えに来たのだが。院長、また鍵を掛け忘れたろう? 俺の部屋からも中身が丸見え、あれでは盗めと言っているようなものよ」
「な、何? 本当か?」
「何故に嘘をつく必要があるのだ。いいから早く締めに行ってこい」
「ぬう………解った。傷に障るような真似はするでないぞ」
三白眼の辻兵衛に見送られ、院長は渋々その場を去っていった。場には辻兵衛と、顔を青くしたつくもの二人が残される。
横目でちらりと辻兵衛の顔を覗くも、その無表情からは何も読み取れない。
「独楽屋」
「は、はひいっ!?」
「先ほどから何を狼狽えておるのだ───病室に来い。少し無駄話に付き合え」
「え、あ、はい。わかりやした…………」
踵を返した辻兵衛を追って、つくもも歩き出した。元から痩身の辻兵衛だが、寝たきりで過ごしていたからか、その背中はいつもより、心なしか小さく見えた。
振り返らずに、剣士は言う。
「何やら口論していたようだが」
「え!? ああ、いえ。大した事ではないです、お気になさらず!」
聞かれて────いなかったのだろうか。
ならば一安心だ。盗み聞きでバレてしまうなど冗談にもならない。
「ふむ。あの院長、腕はいいものの偏屈だからな。文句の一つも言いたくはなろう─────入れ。そこの椅子にでも掛けるがいい」
言われるがまま、つくもは寝台脇の小さな丸椅子に腰掛ける。辻兵衛は緩慢な動作で布団に潜り込むと────痛みを堪えるかのように、微かに顔を顰めた。
退院とは言っても、まだ完全に傷が癒えたわけではない。いや、そもそも院長の見立てでは、あと三日ほどは安静にすべきなのだと聞く。辻兵衛本人の希望により、自宅療養で完治を待つ事に決まったのだ。
しかし───やはり、駄目だ。
こんな状態の辻兵衛を、綾の捜索に行かせてはならない。こうなればもう、ずっと病室で見張っているべきか。
「そういえば………先ほど、知られてはいけない、とか何とか言っていたな。お前、また何か企んでいるのか?」
「うぇ!? ああ、いや、えーっと………そう! もうすぐお姉の誕生日でして! 本人に知られないよう、お祝いの計画を立ててるんです!」
「番頭のか…………む、奴の誕生日はこの時期だったか?」
「い、いや────あはは………………」
────まずい。このままではボロが出る。だってお姉の誕生日夏だもん。いま秋だもん。残暑厳しくて勘違いしちゃいましたえへへーじゃ済まないもん。どうにかして話題を逸らさなくては────。
「そ、そんな事より! 旦那、昨日巫女様と何をお話していたんです? 診療所から出ていく巫女様を見やしたが」
「…………ああ。奴か。いや、他愛ない話だ。話すほどの事はない」
「そんな事言わずに話してくださいよう! 巫女様がどんなお話をされるのか、あたし興味があるんです!」
「要らぬ興味を持ちおって……………ふむ、そうだな。奴が言うには─────」
そこで辻兵衛は言葉を切った。無気力な眼差しを泳がせ、病室の白い天井を眺めている。何やら迷っている様子だ。
言葉を探す、というよりは────言葉を躊躇っているかのような。その言葉を発すれば、もう後には戻れないような。不退転の決意の前の、僅かばかりの逡巡の色。
そして。抜刀の如く、剣士は言った。
「俺は、あいつが。
あの女剣士の事が────好きらしい」
「……………………………………え?」
────好き。
好きって、それは─────
「うぇ、えええええええっ!?」
「叫ぶな馬鹿者。病院だ」
「あ、綾さまの事が、ですか? それは、えっと、あの、え? 冗談とかではなく?」
「…………まあ、俺も最初はそう思ったさ。口の減らない性悪巫女が、怪我人の俺をまたこき下ろすつもりなのだとな。
だが────あの女、全く真剣な目でそんな事を言いおるのだ。故に俺も、本気で考えざるを得なくなった。奴が何を言わんとしているのかをな」
「な、なるほど」
語る辻兵衛は平易な口調で、その言葉に虚飾は見られない。この男が色恋沙汰について本気で思案するなど、いつもなら有り得ないのだが。道端の男女を見ただけで不機嫌になるような男が。
しかし、まあ話は解った。
ユズリハがわざわざそんな話をするならば、きっと何か考えあっての事なのだろう。彼女が語り、辻兵衛が悩む「好き」の言葉には、きっと何か深い意味があるのだ。
「で、解ったんです?」
「いや。一晩考えたがな。結論は出なかった」
「あはは…………まあ、難しい話ですし」
「───────だが」
突然そう切り返すと、苦笑するつくもから視線を外し、辻兵衛は窓の外を眺めた。
騒がしく流れる往来の、その背景で、屹立する山の緑が風にざわめいている。山を────否、山の中までを透かし見るような遠い目をしながら、彼は続けた。
「解ったのだ。つい、先ほどな」
「え? 先ほど………ですか?」
「ああ。だから、答え合わせに行こうと思う」
言葉を切って振り返る、辻兵衛の眼。その瞳の色に、つくもは不穏なものを感じた。半笑いの顔、妙な言葉、鋭い視線。こういう時の辻兵衛には、決まって何か裏がある。
「旦那、まさか何か企んで…………」
問い質そうと身を乗り出した、その時だ。
「──────許せよ、独楽屋」
「きゃあッ……………!?」
突如。
視界が瞬き、白色に染まった。
白い帳の向こう側で、金属音と衣擦れ、次いで忙しない足音が鳴り渡る。
「ちょっと、待って…………旦那あ!?」
頭に引っ被せられた布団を取り払い、その名を呼んだ時にはもう─────
「…………やっぱり、聞かれてた…………ッ!!」
─────病室から、犬童辻兵衛の姿は消えていたのだった。
■
着地。
飛び立つように、走り出す。向かうは平逆表門、その先に聳える山の中────あの馬鹿女のいる場所まで。ぎゃんぎゃん騒ぐ少女の声が聴こえた気がするが、まあ無視だ。
「……………………ちッ」
打ち付ける足が傷口に響く。一歩ごとに鋭く反響する疼痛を、舌打ち一つに噛み殺しながら、辻兵衛は足を走らせた。
────ああ。俺はこんな男だったろうか?
小娘一人の捜索など、独楽屋に任せばよかろうものを。あの広大な山の中、手負いの体でシラミ潰しに探し回るつもりか。何とも馬鹿だ。無謀な真似だ。自ら死にに行くようなものだ。
「…………自ら………死にに行く……………」
ふと。
─────何だろうか。同じような言葉を、つい最近誰かに言ったような気がするのだが。
そう、これは。確か。
『自ら死にに行くような負け戦に臨むな─────大馬鹿者ッ!』
「…………………ああ」
他でもない。
これは、あの夜。奴に言った言葉ではないか。
何という愚かさかと、自分で自分を嘲笑う。あいつの無謀を咎めておきながら、結局自分も命を投げうつ大馬鹿者であったのか。全く、己ながら呆れ返る。
なのに。それなのに。
この二足が止まらず走るのは、一体、何故なのだろうか─────。
「げっちゅー」
「ぬうわあッ!?」
─────とか思ってたら止まった。
つーかコケた。強制的に。
顔面と地面で大根おろしされながらも、ようやく止まった辻兵衛は、足首に絡みつく純白の糸に気が付いた。その袂を握るのは、見慣れた片眼鏡の女。
「…………知っているか番頭。全力疾走している人間に糸を引っ掛けると物凄い勢いで転ぶのだ。そして物凄く痛いのだ」
「それは初耳だ、今度試してみるとしよう。怪我も気にせず山に出ていくような大馬鹿男を実験体にして」
辻兵衛の足に絡み付いた糸を手繰りながら、そう応えるこのえの眼差しは、心なしか厳しめだった。怒りというよりは、呆れの色を多分に含んでいるが。尖った視線を投げかけながら、番頭は言う。
「止めてもどうせ行くのだろう」
「まあな」
「一応言うが、相手は山だ。禽獣爬虫、全てが敵となる─────まともにやりあえば、お前死ぬぞ」
「山と戦う気はないさ。道に迷うた小娘一人、迎えに行ってくるだけだ」
軽口を叩く辻兵衛に、対するこのえはため息を返した。次いでおもむろに懐を探ると、取り出した何かを勢いよく放って、投げやりに呟く。
「ばーか」
こつんと辻兵衛の頭を打ったそれは、見れば馴染みの深い、独楽一座の書簡だった。また、足元に落ちたのは一振りの刀────綾が家に常備する、二本目の刀だ。怪訝な顔をする辻兵衛に、このえはそっぽを向いたまま続ける。
「お前を一座の特使に任命する。この書状を山へと届けろ。山中を治める山長へと」
「特使、だと?」
「ああ特使だ。里から山への客人だ」
唐突の命令に、いささか戸惑う辻兵衛だったが────その真意に気付いた時、にやりと口の端を吊り上げた。
────即ち。
使者という名目の元、好き勝手に暴れてこい、と。
「…………良いのか、番頭」
その言葉に、このえは大きく嘆息する。
「何を今更。
────行け。行ってしまえ。自分も他人も顧みず、馬鹿に無謀に突撃するのがお前だろうが。お前達だろうが」
次いで。
「────それが、剣士というモノだろうが」
────その言葉は、鍵の如くに。
なるほど。そうか。
そういう事か。
「……………ああ。そうだな」
解った。
巫女の言葉も。自分の行為も。何もかも。
そうだ。俺は─────
─────剣士で、あったのだ。
「…………無事に戻れよ。
私に心労を掛けた罰だ。次は目いっぱいキツい仕事を押し付けてやるからな」
「上等だ。退屈するよりずっと良い。
─────すぐに、戻ろう」
去り際、振り向く事はなく。
白磁の糸を、払いて駆ける。
そうだ。
俺は。
「俺達は──────剣士だ」
前だけを見て、ただ駆ける─────。
(第五話 了)