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第一章1話

 日下部雪那は走っていた。非常灯も絶えた暗い通路、立て籠る文化センターのバリケードが破られようとしている。


 いわゆる『ゾンビパニック』──ゾンビの感染爆発によって発生した略奪や交通事故、無計画な避難による遭難死などの混乱で警察は感染に対抗する手段を失った。東京を脱出できなくなった市民たちは避難所に逃げるか自宅で助けを待つしか出来なくなり、警察も組織的な行動が出来なくなり、各地で孤立していった。ここもそんな避難所の一つだった。計画性も無い避難生活は長期化し、人々の希望は日に日に薄れていた。


 日下部は今の行っていることがただの延命措置に過ぎないのは分かっていた。助けなど来ない。その絶望からすでに自ら命を断つ者やこの避難所を出ていった者が何人もいた。残されたのは自力でここを脱出する術を持たない女子供ばかりだった。


 乾いた破裂音が聞こえる。文化センター内の中央ロビーの階段を守ろうと義務を果たすために残っていた同僚たちが最後の抵抗を試みているのだ。日下部は彼らが時間を稼ぐ間にコンサート場内を囲む通路の、電気が通わずに閉まらなくなっている非常扉を片っ端から閉め、最後の砦となっている奥のスタッフフロアへの入り口を塞いでいる最中だった。


「うわああああ────っ!」


 絶望的な悲鳴が背後で聞こえ、思わず日下部は立ち止まって振り返った。


「────やだ、やだ────あああ────!」


 今まさに生きたまま食われようとする同僚の絶叫。日下部は壁にもたれ掛かると思わず泣き崩れそうになった。


 心が挫けそうだ。この先に立て籠って何になる?最後は餓死か、奴等に食われるかだ。


 腰のホルスターに収まる拳銃に手が伸びた。恐怖とのし掛かる責任から解放されたかった。だが、自分の帰りを待つ人々の顔が浮かび、日下部は涙を拭って立ち上がる。


 その時、頭上を低空で飛ぶヘリコプターのエンジン音が聞こえた。タイミングが良すぎて最初は幻聴かと思った。ここ一週間、ヘリは愚か飛行機すら飛んでいなかった。


 防犯シャッターが降りた狭い視界の窓から外を見る。ライトを照らしながらヘリが旋回し、こちらに向かってくる。


「助け……?」


 思わず呟いた日下部を嘲笑うようにヘリは針路を変えて文化ホールに背を向ける。


「待って……!行かないで……!」


 思わず叫ぶ日下部。彼女はヘリを見るあまり、ヘリのエンジン音に釣られて走り出すゾンビの姿は映っていなかった。



 ※



『レコン12(ヒトニイ)、こちらライフセーバー08(ゼロエイト)北側集団(ノースグループ)、北東方向への誘導に成功。燃料ビンゴ。このまま帰投する。幸運を』


「レコン12、了解」


 那智は無線機に吹き込みながら目の前の文化ホールを89式小銃の機関部上に載せたELCANのスペクターDR四倍率スコープで確認した。外にいたゾンビのほとんどはビルの合間を飛ぶUH-60Jを追いかけて通りを走っていく。巣に近づく外敵を追い出そうとするスズメバチを連想してから、いや、羽が無いから軍隊アリだなと思い返す。なるべく気楽を装わないと心拍数が上がりそうだった。


「行こう」


 板垣が言い、那智は頷き、板垣に続いた。


 板垣は陸自と同じ迷彩の戦闘服の上から私物の〈CRYE〉製JPCプレートキャリアを身に付け、これまた私物の〈OPSCORE〉のバリスティックヘルメットを被っていた。自衛官が官品と呼ぶ支給される装備はもはや服だけなのではないかと思うほどの私物装備は平事なら呆れるが、有事の今は羨ましい。


 官品は正直使いづらく、命のかかった場面で使うには頼りなかった。意識の高い者たちは創意工夫のために自費で使いやすく任務に最適な私物の装備を買っていた。


 まるで特殊部隊だと思う印象の板垣は、実際特殊部隊の隊員として遜色ない技術と身体能力を持っており、陸上自衛隊の精鋭が集う第1空挺団で基本降下課程や遊撃作戦を担うレンジャー課程を経ている。准看護士と救急救命士の資格も保持し、戦闘救難(コンバットレスキュー)を遂行する救難のプロだった。


 那智からすると雲の上の存在だ。那智に期待されるのは所詮コンパスマンだ。首都圏を守る第1師団の偵察隊員としての地の利を活かし、一歩の狂いもなく板垣を要救護者の元へと連れていく案内人。


 だが、それだけの任務に甘んずるつもりはない。機甲科のモットーは百発即ち百中。つまりは撃てば絶対に当てるという射撃技術だ。偵察隊は小数で斥候による潜入や警戒・監視、時には後方での遊撃活動など一般部隊の中では過酷な任務が付与されるためにそれなりに高い能力が求められている。射撃訓練にも普通科以上に力が入っており、那智も自分の腕には自信があった。


 今、小銃に載せたELCANスペクターDRスコープは欲しかったオフロードバイクと同じ値段だったが、自らの射撃技術向上と任務に備えるために那智は貯金をはたいて買い求めたのだった。


 文化センターに近づくにつれ、死臭が濃くなった。外で激戦が繰り広げられたのは『ゾンビパニック』の頃だったことが確認されている。元は同じ人の成れの果てが頭を撃ち抜かれて転がっている。老若男女、市民、警官関係ない。


 死体を踏み越えていくとバリケードを乗り越えられない足を失ったゾンビが呻き声を上げていた。


「這いずりだ」


 那智が呟く。その僅かな声に反応してゾンビがこちらを向く。老婆のゾンビはこちらに向かってその枯れ木のような細腕で這ってこようとする。那智は89式小銃に銃剣を着剣するとその老婆の頭に向かって刺突した。


 パキッ……という頭蓋骨を割って脳に剣先が達した身の毛のよだつ感触に一瞬怯みながらも残心で引き抜く。ゾンビとの格闘戦に備えて銃剣は、刺突した際に引き抜けるように鉄線挟(ワイヤーカッター)と刀身の峯の鋸刃は削って潰してあった。


「銃剣道やってたの」


「格闘だよ……」


 那智は答えながら進む。文化ホールの入り口はガラス張りで防犯用のシャッターが降りていたが、その一部が内側に押し倒されていた。


 中央ホールへと二人は進んだ。イスや机、鉄製のロッカーなどで設けた即席のバリケードはことごとく破られたようだが、ここでかなりのゾンビを倒していた。死体が十体積み重なり、血がリノリウムの床に溜まっている。


 素早く89式小銃の披筒部に取り付けた〈シュアファイア〉のスカウトライトで階段を照らしながら那智を先頭に階段を駆け上る。警察官たちが発砲した火器のトリシネートの匂いがまだ残っている。しかしそれ以上に強い血の匂いと、臓物から発せられる異臭が鼻をついた。


 バラクラバの上から首に巻いたシュマグを鼻まで引き上げながら那智は進む。階段を登りきった先の会場入り口前の通路には無数の薬莢と腹を抉られ、引き裂かれた警察官たちの死体が転がっていた。


 制服警官が二人、機動隊員が一人。機動隊員は装具のせいで致命傷を受けずに四肢をかじられ、恐ろしく苦しんだことが想像できた。


「今さっきまで戦ってたんだな」


 那智はあと三十分でも一時間でも早くこの場にたどり着けていればと悔恨した。


「もう転化している」


 板垣の苦々しい言葉を聞いて那智は驚いた。手前の制服姿の中年の警察官の死体が蘇ろうとしていた。正確には蘇るのではなく、突然変異によって人ならざる存在へと転化しようとしている。


 腕がぴくぴくと動き、指先が奇妙に痙攣していた。咄嗟にその警察官の頭に向かって銃剣刺突し、後頭部から脳幹に剣を突き立てる。


 引き抜くとようやく完全に動きが止まった。しかしさらに二人の警察官もすでに動き出そうとしていた。


「やばい」


 板垣は腰に差していた伸縮式の警棒を抜いて伸ばした。それを立ち上がろうとした警察官の死体に向けて振り下ろす。頭蓋骨が砕け、頭を潰す音が那智にも聞こえた。しかし板垣はもう一体の機動隊員のゾンビに向けてさらに警棒を振り下ろす。


 装具の上から肩を砕いた板垣はゾンビが床に再び伏せるとその首めがけて足を振り下ろす。首の骨を砕かれたゾンビは今度こそ永遠の眠りについた。


 改めて不条理だと那智は思う。人々を守ろうとして戦った彼らは死後もこんな目に遭うなんて。


 警察官たちの死体が二度と蘇らないように無力化した那智と板垣は武器を拾った。〈S&Wスミスアンドウェッソン〉M37エアウェイト回転式拳銃。 蓮根のような回転式弾倉(シリンダー)内には・38スペシャルが五発全弾残されていた。板垣はMP5F短機関銃を拾い上げる。こちらは弾が尽きていた。そばには空の弾倉二本が転がっている。


 那智はMP5Fを受け取ると背負っているパトロールバックパックにはみ出すのを厭わず突っ込んだ。


「急ごう」


 那智が言うと板垣は頷いた。二人は文化ホールの中を素早く移動する。幸い床はカーペットが敷かれ、足音が響かないが、それはゾンビも同じだ。いつ遭遇するか分からないゾンビを警戒して二人はお互いの警戒範囲を守りながら前進する。通路のあちこちに死体が転がっていた。壁には弾痕が刻まれている。


 通路の先で防火扉が閉じられていた。無数の血の手形がついている。


 防火扉を那智がチェックしようとしたとき、手前のトイレからゾンビが飛び出してきた。


 不覚──!那智は咄嗟に構えていた89式小銃を単発で発砲し、一発目をゾンビの胸に、二発目をゾンビの首に命中させた。


 銅で弾芯を披甲し、貫通性能を高めたフルメタルジャケット弾の5.56ミリの小口径高速弾は胸を直撃し、体内でヨーイング(横方向へのブレ)して人体を存分に痛め付けて貫通し、さらに流体静力学的ショックにより、音速の衝撃波を人体に伝えた。ゾンビの動きが鈍った所を次弾が首を直撃する。軟組織内でヨーイングする5.56mm弾は同様に首の筋繊維や脛椎を破壊して飛び出し、ゾンビを無力化する。


 ゾンビは走り出した勢いのまま倒れて那智の側まで転がってきた。


「来るぞ」


 板垣が呟いた。この文化ホール内を彷徨いていたゾンビたちがこの銃声を聞き付けて殺到してくる。那智は今更になって載せていたELCANを四倍率に切り換えたままにしていたことに気付き、近距離用の一倍に戻した。


「トイレから通風口に隠れよう」


「映画みたいにうまくいくと思うなよ」


 板垣は不承ながらも那智と共にトイレの中に入る。トイレの洋式便座に登った那智は銃床で天井を叩く。


 天井のパネル素材が壊れ、埃と共に落ちてくる。


「行けそうか?」


 トイレの入り口を見張りながら板垣が聞く。


「無理っぽいな」


「くそ」


 板垣が悪態と共に発砲する。89式の5.56mm弾の発砲音よりも強烈な7.62mm弾の銃声が狭いトイレに鳴り響いた。


 板垣の射撃した先でこちらに向かって走ってきたぼろ切れのようなスーツを着たゾンビの頭が砕け、 血肉と脳漿を撒き散らす。


 その背後から走っていた老人の胸に一発直撃させると、老人は後方に吹き飛んでいった。


「仕方ない、迎え撃つぞ」


「了解」


 板垣は廊下に出ると通路の自動販売機を引き倒し、ゾンビの早さを鈍らせるバリケードを作る。那智はその間に膝射ち姿勢(ニーリング)で構えると近づくゾンビに向かって5.56mm弾を浴びせた。板垣に胸を撃ち抜かれて転がった老人の頭を撃ち抜くと、頭蓋が割れて頭を変形させて老人は床に伸びた。その奥から腕振り無しの全力疾走で向かってくるゾンビの胸に一発、動きが鈍った所に次弾を頭目掛けて叩き込む。


 7.62mm弾の威力ほどは無いが、5.56mm弾を食らえば動きを止められる。痛覚の麻痺した人間を止められないと言われた小口径高速弾だが、頭や脛椎を破壊しない限り動き続ける不死身のゾンビには効果があった。


 倒れたゾンビに躓いたゾンビの頭頂部から5.56mm弾が侵入し、脳を破壊する。


「キリが無いな」


 那智は余裕を装って呟くが、残弾をカウントしながら弾倉交換のタイミングを見計らい、一発の無駄なくゾンビを撃破することに全身全霊を注いでいた。


 ありったけのものでバリケードを築いた板垣が64式小銃を構えて射撃に加わる。銃声がこだまし、音速を越える弾丸が飛翔する甲高い音が響く。


 雷管のDDNPジアゾジニトロフェノールの匂いと血の臭いが濃くなり、鼻を刺激する。


 ゾンビが板垣の倒した自動販売機を越えようとした所で頭を撃ち抜く。頭蓋が割れて頭の歪んだゾンビが勢いよく自動販売機にぶつかる。その死体に遮られたゾンビはバカの一つ覚えのように乗り越えようとするが、那智はそれを許さない。


 右の眼球から入った5.56mm弾は貫通して背後にいたゾンビの肩を撃ち抜き、小突かれたように止まったゾンビの頭をさらに撃ち抜く。


 板垣も次々にゾンビを撃ち倒していた。やがて走ってくるゾンビが途絶えた。二人は硝煙の漂う廊下でしばらく後続を警戒して銃を構えていた。


 背後から防火扉を誰かが操作する音が聞こえ、那智は正面を板垣に任せて振り返った。


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