序章6
航空自衛隊の救難員、通称メディックとは英語ではParamedic──パラシュート降下衛生兵と表記される。パラとはパラシュート降下員のことで、高度三千メートルから深度三十メートルの活動領域での過酷な救難救助活動に従事する究極の救難員だからだ。
板垣悠太3曹はそんな屈強不屈な男たちに憧れ、航空自衛隊の門を叩いた。
救難員への道は決して楽な道では無かった。救難員はどんな困難な状況においても人命を救わねばならない。そのため約八ヶ月の救難員課程は苛酷さを極め、精神と肉体の限界まで追い込まれる。最後の最終想定では実際に真冬の雪山に登山し、遭難者をヘリコプターで救助するが、そこまで残れた仲間は少なかった。
そしてやっとのことで救難員となってもそこで終わりではなかった。
板垣の目標は高く、さらに上を目指した。
航空自衛隊の救難員と同じ職種が米空軍にもある。Pararescue Jumpers、通称PJと呼ばれる彼らは戦闘捜索救難任務に従事する、パラシュート降下資格と医療資格を持ち合わせた高度なスキルを擁する部隊だ。板垣の次なる目標はこのPJだった。
航空自衛隊の航空救難団の装備に個人携行火器は無かった。有事の際、敵勢力下において戦闘捜索救難を実施する際には丸腰で行くことに危機感を抱いた板垣は空挺レンジャー課程で知り合った空挺団の陸自隊員に射撃や格闘、さらなる戦闘技術を習い、体力錬成などと共にさらなる己の能力向上を目指すのが日課となっていた。
その日の板垣は待機任務もなく、救難員になって間もない片山空士長の面倒を見ながら体力錬成を行っていた。
救難員に限らず体が資本の自衛官は、自らを鍛え、強くなることを目指し、訓練に当たる。板垣は自らを鍛え、時には人命を救って俸給を頂くこの仕事をいたく気に入っていた。
吊るされたロープを腕だけで登るタイムを計測していた板垣は片山が降りてくると被っていたプロテックヘルメットを外した。
「片山はホントに力任せだよな」
「そうでしょうか」
汗が吹き出す片山は迷彩服の袖で拭う。
航空自衛隊の作業服が青磁色を基調としたデジタル迷彩の作業服に移行しても、戦闘捜索救難を前提とした救難員は、陸自の空挺団と同じく空挺迷彩服2型を使っていた。
最近の若者らしい片山は謙虚で、悪く言えば積極性が低く、大人しいが利口な青年だった。
「あんなに体軸を振り回してたら余計に疲れるよ」
板垣はそう言って自分の金で買い求めた装備を身にまとう。
独自に米空軍のPJを研究し、PJでも採用例の多いJPC(Jumpable Plate Carrier)──セラミック製の抗弾プレートを前面と背面に携行するためのプレートキャリアと呼ばれる軽量なベスト──を身にまとう。
もちろん重りのごとくずっしりとした抗弾プレート入りで、その他ポーチもしっかりと取り付けられている。カマーバンドを使って胴で固定しなくては肩に食い込んでくる。
さらに〈オプスコア〉のマリタイムFASTバリスティックヘルメットを被る。これはヘッドセットとの併用を考慮し、側面部が大きくカットされている特殊な抗弾ヘルメットで、暗視装置等を取り付ける基台も標準装備されていた。
ゴム製の89式小銃タイプの模擬銃を背負うと板垣は五インチ(12.7センチ)のロープに掴まり、腕の力だけで登り始めた。
如何なる訓練であれ、実戦と同等、或いはそれ以上に負荷を掛ければ、然るべき折にそれが活きる。訓練が厳しければ本番はそれだけ楽になる。言うは易しで、これをまともにやるには強い刻己心が要求される。だからと自分達が優れた人間だとは示し難いが、自己の実力に自負と矜持がなければ、こんな仕事はやっていない。
片山はその姿を見て、眼を見張っていた。
自分もベテランから見たら青二才の若造だが、後輩に劣るような隊員ではない。そのJPCの胸に張り付けたPJの文字のパッチを伊達にするつもりはなかった。
「凄い」
「感想はいいよ。やってみろ。足を左右に振るな」
片山がロープに掴まろうとしたその時、スクランブル発進を報せるベルが警戒待機格納庫の方で鳴った。
「スクランブルだ」
二機のF-15戦闘機がすでに動き始めている。エンジンを始動して翼をパタパタと動かして点検したF-15はそのまま誘導路に躍り出ると滑走路のエンドに向かって進みだした。パイロットと同様、二十四時間待機する整備員たちが敬礼してそれを見送っていた。
板垣と片山も敬礼してそれの離陸を見送った時、今度は救難隊でベルが鳴り響いた。
『ヒーロー01、02発進待機。要員は直ちに指揮所へ集合』
アナウンスを聞いた二人は着の身着のまま、救難隊の事務室へ走る。するとどこも蜂の巣をつついたような浮わついた騒ぎになっていた。
基地全体にサイレンの唸りが鳴り響く。
『非常呼集、非常呼集。基地全隊員は直ちに所属部隊へ集合。なおこれは訓練に非ず』
「なんだ」
「……攻撃?」
片山の言葉に板垣はぎくりと背筋を冷やした。あり得ないと即座に笑い捨てられない騒ぎだった。
救難隊のオペレーションも騒然となっていた。
「救難隊の出動要請がかかった」
板垣に救難ヘリのパイロットである山野一尉が教えてくれた。
「どこですか?状況は」
「それなんだが、大変なことになってる」
NHKが映る液晶テレビでは緊急速報のテロップが流れ、緊迫した様子のアナウンサーが内容を読み上げている。
「都内各所で暴動……!?」
片山が声を上げた。
「福岡や大阪でも?一体何があったんです?テロですか」
「分からないが、中毒症状を起こした者が無差別に人を襲っているらしい。警察も発砲する事態になってる」
「中毒症状?化学攻撃ですか」
「だから分からないと言っているだろう。とにかく救難隊は出動待機だ。総隊はドアガンまで装備しろと言ってきている」
「ドアガン……」
UH-60J捜索救難ヘリコプターは戦闘捜索救難に備えて5.56mm機関銃ミニミをドアガンとして装備することが出来る。
救難任務にドアガンとは穏やかではない。やはりテロだろうか。板垣は思案しながらテレビを見ていた。報道ヘリは練馬インターの渋滞の状態を伝えたあと、陸上自衛隊練馬駐屯地を映した。
「あれは……」
駐屯地内は明らかに様子のおかしい民間人や自衛官が彷徨いていた。無気力で服装は汚れて乱れている。高機動車が木に突っ込んでいるのも見えた。
「あれ、陸自の駐屯地だよな」
「どうなってるんだよ」
駐屯地の周りの市街地も渋滞や事故車が放置され、パトカーや救急車も見えるが警官や消防士の動きはない。夥しい血痕が地面には見えた。
その時、外で輸送ヘリのエンジン音が聞こえた。陸自のCH-47JA輸送ヘリが四機、飛行場に着陸しようとしている。
この百里に陸自のヘリが降りるなんて珍しい。そしてそのヘリは全て陸上総隊直轄の第1ヘリコプター団所属だった。
百里に午前中に降りたC-2輸送機のそばまで地上滑走したCH-47JA四機からはぞろぞろと自衛官ではないスーツや私服、中には白衣の人間が降りてくる。
彼らを護衛するように立つのは小銃で武装した陸自隊員で彼らはそのままC-2輸送機へと乗り込んでいく。
「中即連ですかね」
片山が呟いた。拳銃をレッグホルスターに収めた隊員の装備は特徴的だ。一般部隊で全員分の拳銃を装備している部隊は非常に限られている。
片山が名前を上げた中央即応連隊は市街地戦闘等にも精通した戦闘のプロの集まる部隊だった。
「……なんだろうな」
板垣はそう呟いたが、彼らが護衛する、民間人らしい集団のうち何名かは医療従事者だろうと検討をつけていた。
それからは陸自だけでなく空自のヘリや航空機もひっきりなしに百里基地に離着陸を繰り返した。時には米空軍の大型輸送機まで着陸した。
都心での暴動で、首都圏の交通網は麻痺し、助けを求める人は大勢いたが、自衛隊は出動しなかった。正確には出来なかった。
百里基地周辺は封鎖され、民間人は東北へと避難した。この暴動の原因は感染症にあり、この感染症に感染すると死に至り、そして死体は突然変異して非感染者に襲いかかるという科学的には説明のつかない事態が起きていた。自衛隊は武器使用を再三に渡って求め続けたが、対応するべき政府は混乱に陥り、結局自衛隊の上層部は超法規的活動という本来自衛隊が守るべき文民統制から逸脱した行動により、市民を救出、感染の拡大を阻止するべく動き出したが、その時にはすでに首都は壊滅していた。
臨時国会期間中だったこともあってか国会に登院していた議員・政府要人がことごとく被害にあい、内閣・各省庁も事実上の壊滅状態に陥った。
初期の対応が遅れたために感染は爆発的に拡大。避難民に紛れていた感染者が避難所で発症して死亡し、ゾンビに転化して人々を襲うという悪夢は何度も繰り返された。さらには混乱とパニックにより、感染拡大を阻止しようとする検問も暴徒化した市民に襲われ、食料の奪い合いや我先にと避難しようとする車によって道路が塞がり、警察と自衛隊の対応はさらに困難を極めた。
そのため生き残った閣僚などが立ち上げた臨時政府は北海道と四国、沖縄を物理的に封鎖することを決定し、自衛隊が集結した。
茨城県百里基地も一週間は拠点として機能したが、その後はゾンビが集まりだし、二週間後には遂に放棄が決定され、板垣たちは洋上の護衛艦へと退避した。
その退避までの間、板垣はつくば市への救難任務に何度か投入された。
筑波学園都市は国立大学や国の研究機関が集中する重要施設で、技術者や研究員は貴重な人材であり、重要人物として優先的な救助が行われた。
差別化した救助を行うのは、救助を求める声に対し、圧倒的に人手も器材も足りないためだ。また技術者や研究員はこの疫病に対抗するためにも必要な人材だった。すでに日本どころか人類が滅びるかもしれないというギリギリの状況で、政府は決断しなくてはならなかった。
救助を開始した当初、すでに感染して死亡後、転化したゾンビとの接触を避けるために町はバリケードで囲まれたが、ゾンビの数が増えるとそれを警察のみで防ぐのは困難になり、堅牢な建物や高層ビルで籠城し、助けを待っていた。
その中でも特に危険が差し迫っている場所に板垣は投入された。
当初はヘリも救難員も丸腰で降下した。ロープによるリペリングによってビルの屋上に降下した板垣はゾンビの侵入を防ぎながら着陸地点や救助方法を選定、障害物の多い屋上だったため、一人一人をホイストで吊り上げる手法を選択した。しかしそれは時間がかかった。ヘリの爆音にも釣られて屋上の入り口にはゾンビが集まってくる。
板垣は消防士らと共に放水でなんとかそれを撃退し、辛くも市民を守ることが出来たが、それでも勇敢な消防士一人を目の前で失うという結果となった。
それからはUH-60Jにドアガンの5.56mm機関銃ミニミを装備し、救難作業を援護することとなったが、ヘリからの射撃は収容中では射線が限られ、有効では無かった。
そのため板垣はミニミ機関銃を背負って降下した。
ミニミは毎分七百発以上の発射速度を持つ分隊支援用の軽機関銃だ。二百発を金属製リンクで繋ぎ、一気に撃ち切ることが出来るが、約七キロもある重量級の武器で、連射しか出来ない。これを振り回しての救難任務は非常にハードだった。
降下した板垣はミニミを用いて近づくゾンビを排除しつつ、ヘリの誘導と収容を行った。重く取り回し辛くとも機関銃の火力は申し分なく、これによって多くの命を救うことが出来たのは間違いなかった。
携行火器の存在は救難任務における生存性を高め、救難員たちの任務遂行に影響を与えた。
板垣は百里基地を撤退する前の最後の救難任務の際に無理を言って基地警備隊の64式7.62mm小銃を借用し、そのどさくさに紛れて以降これを使っていた。
自衛手段を持つ救難員である板垣は積極的に救難任務に参加した。この情報収集という名目で実施される救出作戦の人員の募集が行われたときも板垣は迷わずに志願した。
任務は長期に渡ると想定されていた。今までの救難任務は救難ヘリとそのクルーと共同で行ってきたが、今回は単独行動となる。
相棒となった陸自のレンジャー隊員は偵察隊員で、独特な男だったが、今では打ち解け、信頼のおける仲だった。
「自分の不始末は自分でつける。だから、俺に介錯させるな」
自己紹介を終えて開口一番に那智有希3曹の言った言葉に板垣は最初、怪訝に思った。だが、接していくうちに、那智の言った意味が理解できた。
「でも、自分でケリをつけられないときはどうするんだ?」
板垣は輸送艦《しもきた》の甲板で那智に聞いた。背後ではUH-60Jが発進準備を整えている。
「どうした、脈絡なく」
那智は首を傾げる。
「言ったろ、初めて会ったとき。介錯させるなって」
「ああ……そんなこと言ったな」
那智は苦笑して暗い海を見つめた。
「例えば、指食いちぎられたりして──」
「やめろって。これから任務の時に」
那智は話を遮って海を見続ける。あるいはその先の陸地か。
「そんなことがないのをまず祈るとして、……可能な限り介錯とかも必要ないように努力しよう」
「それは当たり前でさ、もしもの時だ」
「撃つよ。その時は躊躇わず」
「寝覚め悪そうだな」
「仕方ない。俺も生きたまま食われるのは嫌だからな」
生きたまま食われる恐怖がこの先に控えていることを板垣は思い出し、ため息をついた。
それでも、とUH-60Jに乗り込みながら板垣は思う。ぼうっと窓から外を見ている那智の落ち着いた様子に心がざわめく。
それでも、自分は恐怖を忘れ、他者を救うために生きる。
その思いを胸に、板垣は機体の床を蹴って屋上に降り立つ。
その恐怖を他人が味わっていることも、自分がなにもせずに待つことも嫌だから前へ進む。誰も見捨てない。それが板垣の戦う理由だった。