序章5
軽装甲機動車の車内は那智の命令通り装備が満載だった。後部座席と座席の間には高校生の少年が体育座りをしている。
軽装甲機動車は裏門へ向かう。途中、普通科連隊の高機動車が木に激突して止まっていた。それにも気を止めず、坂田は軽装甲機動車を走らせ続ける。
「他の車輛は?」
「偵察警戒車は出せなかった。指揮通信車と他の軽装甲機動車に乗せられるだけ乗せたが、他は多分駄目だ」
東は汗を拭いながら言った。那智の反対側の座席では山科1曹が腕を押さえて青ざめている。
「隊長はやられた。他の幕僚も多分駄目だ。うちの小隊も何人残ってるかは分からない」
「隊長が……死んだ?」
那智は驚いてミラー越しに東の顔を見たが、東は真剣だった。軽装甲機動車は逃げ惑う市民とそれを襲おうとする暴徒と化した人々の間を突っ切って駐屯地を出る。道路はあちこちに事故車や放置車輛が転がり、歩道は人々が走り回っていた。
「町中大混乱だ」
救急車の周りで救急隊員が血塗れになって彷徨いている。走る車がそれを撥ね飛ばしたが、そのまま車は走り去った。
警察官も暴徒と一緒に人々に襲いかかっている。道端で暴徒が人に群がり、食らいついている姿がいくつもあり、軽装甲機動車に何度もぶつかってきた。
軽装甲機動車はそれらを無視して走り抜ける。
「一体あれは、あれは、何なんですか!」
少年が堪り兼ねたように叫んだ。
「俺たちが知りたいくらいだ!死んだと思ったら起き上がって襲い掛かってきたんだぞ!」
山科が怒鳴り返す。普段大人しい山科が感情を爆発させていた。
「二人とも静かにしろ!とにかく朝霞も今さっき襲われたらしい。なんとか駐屯部隊は脱出したそうで、関越を使って群馬まで向かう」
「相馬原ですか」
群馬以北は第12旅団の担当地域になっている。第12旅団は空中機動旅団としてヘリコプター部隊が他の師旅団より充実していた。
群馬には新町駐屯地と相馬原駐屯地があり、相馬原駐屯地にはその空中機動力の骨幹となるヘリコプター部隊が駐屯し、飛行場がある他、第1偵察隊と同じく第12旅団直轄の第12偵察隊等の部隊も駐屯している。
「この騒ぎはもう大宮に迫ってるそうだ」
その言葉に那智は絶句した。
「大宮駐屯地の司令が弾薬の交付を独断で行ってる。もし事の収拾がついても証人喚問だな」
東の冗談に那智の頬は引きつった。
「弾薬って……!撃つんですか」
少年が叫ぶ。
「あれを見ただろ、正気じゃない。それにあんなに出血していて動き回れると思うか!」
坂田がバックミラー越しに怒鳴った。
「見ろ、俺だって食われかけたんだぞ」
山科も叫び、腕を見せた。前腕の皮が引き裂かれ、赤い肉が覗いている。酷い怪我だ。
「やめないか、高校生相手に!とにかく身を守るのが最優先だ」
東が怒鳴る。
「下ろしてください!」
少年の言葉に那智は思わず睨み付けた。
「死ぬ気か!」
「だって……!俺の家は東京です!」
「状況も分かっていないガキが!この車から降りた途端、お前はアイツらの餌になるのが目に見えてる!」
山科がいつになく感情的に叫ぶ。様子がおかしい。那智が山科を見ると汗ばみ、目は充血して鼻血を流している。
「や、山科1曹……?」
「なんだ!?」
山科は那智を振り向く。縮瞳が起き、結膜充血していた。まるで神経剤を受けたときの特徴だ。
「山科1曹、ヤバイです。静かにして」
「うるさい!」
山科が叫び、高校生の少年も山科の異常に気付いた。
「くそ、どいつもこいつも人を馬鹿にしやがって!」
山科は怒りだし、前の東の座席を蹴りつける。
「坂田、止めろ!」
東が怒鳴り、坂田が軽装甲機動車を止める。後ろから続く斎賀たちの乗る車輛も止まった。
『10、どうしました?』
後ろから続く斎賀が無線で呼び掛けてきた。
「11、こちら10《ヒトマル》。山科の様子がおかしい。容態を見る」
東が送受話器に吹き込んだ時、山科が痙攣し始めた。
「山科1曹!」
那智は少年と位置を変わる。山科の脈を取ろうとした那智の手を山科が振り払った。
「来るな────!!」
ガタガタと手を震わせながら山科はドアを開けようとする。汗が吹き出し、血管が浮き出るほどの力が入っている。東も坂田も呆気に取られていた。しばらくガタガタと震えていたが、唐突にそれが収まった。
ぱったりと山科が動かなくなる。
「山科1曹?」
那智はばたりと垂れた手を掴む。血の気は失せ、まだ暖かいが脈は無かった。
「山科1曹!」
那智が叫ぶ。東が降りて山科を車から引きずり下ろした。後ろの軽装甲機動車から女性自衛官の陸士長が降りてきた。
「私は担架要員です」
ネームに清水とある陸士長の手を借りて救命処置を始める。
「脈拍なし!」
「しっかりしろ!」
「山科1曹!」
東が心臓マッサージを行う。三十回行う前に突然、山科の目が見開かれた。
「山科!平気か」
東が安堵して声をかけた瞬間だった。山科の腕ががばっと東を掴もうと伸びる。咄嗟に気道を確保した清水士長が東の胸を突き飛ばしてその腕をかわさせた。
慌てて東は立ち上がって距離を取る。
「奴らと同じだ!」
少年が叫んだ。山科の顔がそちらを向き、その手前の那智を見る。瞳孔の開いた目が那智を見ている。
一瞬にして起き上がった山科が那智に飛びかかってきた。
「山科1曹」
那智は叫ぶように名前を呼ぶが、山科は正気を失っていた。那智は伸ばされた腕を取って払い腰を決める。勢いよく叩きつけられた山科は肺の空気が吐き出されて喘ぐーーようなことはなく、那智の足を掴んで歯を立てようとする。那智はそれを咄嗟に逆足の半長靴の底で防ぐ。
「山科1曹!やめて下さい」
そこへ斉賀が突進してくる。
「斉賀、山科1曹が……」
斉賀はそのまま手に持っていたシャベルを山科の頭に叩きつけた。山科の頭が割れ、血が飛び散る。信じられないものを見るように那智は斉賀を見た。山科は痛みに怯むことなく、怨嗟の声を上げる。
「よせ、斉賀!」
那智が叫ぶが再び斉賀はエンピを降り下ろす。バキッという鈍い音と共に山科の手が地面に落ちた。
「斉賀……」
「話はあとだ」
斉賀は血走った目で那智を見ると軽装甲機動車に戻る。
「一体、これは」
東は那智の肩を掴んだ。隣では清水が口を覆って泣き出しそうな顔をしている。
「那智、清水士長、車に乗れ」
人気の無かった道に近づいてくる気配があった。
「山科1曹……」
那智は無惨に転がる山科を振り返りながら軽装甲機動車に乗り込む。少年は黙っていた。坂田はハンドルを掴んだままがっくりと項垂れている。
「……出せ」
東の声から滲む無念さに那智は下を向いた。
それからは逃避行の連続だった。避難民が押し寄せた関越自動車道は渋滞しており、那智たちは警察の誘導で離散した部隊と合流しながらなんとか進み、一日かけて群馬の相馬原駐屯地にたどり着いた。
途中、襲われている市民を何度も見捨てなくてはならなかった。助けることが出来たのは本の一握りで、そしてその最中にもさらに仲間を失った。
相馬原駐屯地はまだ機能していた。人工密集地から外れた位置にあったこともあり、防災拠点となっていたが、撤退も決まっていた。
ここまで来て未だに武器の使用が認められる治安出動は下命されておらず、災害派遣命令で行動していた。そのため第12旅団は命令系統から逸脱し、超法規的措置で武器を使用していた。
陸自の司令部である陸上総隊も、統合幕僚監部も、防衛省も内閣府もすでに機能していなかったため、それはやむを得ない措置と言えた。
臨時国会期間中だったこともあり、国会に登院していた議員・政府要人がことごとく被害にあい、内閣・各省庁も事実上の壊滅状態に陥っていた。
暴動の原因は感染症だった。政府は壊滅する前に様々な複雑な病名をつけていたが、市民の間には『人食い病』などと呼ばれていた。
特徴は感染者によって負わされた咬み傷などから伝染する接触感染らしく、致死率は百パーセントだった。問題は死んだあとだ。潜伏期間や発症後の死亡まで個人差はあるが、死亡したのちに感染者の肉体は変異し、人の形をした人ならざる存在に転化する。その人の突然変異体のことを概ねの人々はゾンビと呼んだ。
ゾンビは人を襲う。人の血肉を食らおうとするのがゾンビの基本行動となり、噛み傷を負わせて感染を拡大させる存在となる。
前頭葉などは停止しており、脳幹にダメージを与えるか頚椎などを破壊して神経を切断すれば活性死体は無力化出来るが、言い換えればそれが出来なければどんなにダメージを与えたところで倒せない不死身の屍となる。
そしてこの異変は日本だけではなく海外でも急激に拡大していた。アメリカは日本よりも同時多発的に各地で感染爆発が起き、隣国韓国や中国もすでに壊滅状態だった。
欧州でも感染は拡大。デマではイギリスはドーバー海峡の英仏海峡トンネルを爆破し、感染を防いだ等と噂もあったが、定かではない。
とにかく洋上の護衛艦に脱出した那智たちはそこで統合任務部隊に再編され、混乱後の東京へと投入されたのだった。