序章4
外は大混乱だった。自衛官すらも市民と一緒に逃げ惑っている。
銃声など一発も聞こえない。平時に実弾を携行しているのは駐屯地を守る警衛隊員くらいだ。弾薬は彼らが守る金庫のような弾薬庫に厳重に保管され、出すには複雑な手続きがいる。
営門に向かおうと人の流れに逆らって進む。
「どいて!道を開けてください!」
那智が怒鳴る。その前に手を押さえた若い金髪の女が立ち塞がる。
「助けて、噛まれたの!」
助けを求める市民に那智は足を止めてしまう。
「自分は……」
そこへ、唐突に突っ込んできたOL風の女がその金髪の女を押し倒してしまう。
「きゃあああ!助けて!」
泣き叫ぶ女を助けようと那智は掴みかかっているOLを掴んで引き離す。
「やめなさい!」
「あがあああああああっ!!」
那智に掴まれた女は恨みがましい呻き声を上げて今度は那智に掴みかかる。憎悪に歪んだ恐ろしい表情。那智はそれを小銃で防ぐ。正気じゃない……!
「逃げろ!」
那智はOL風の女を押さえながら周りの人間に怒鳴った。OL風の女のスーツは赤黒く汚れ、左の上腕部から夥しく出血している。肉が抉れ、皮が無くなっていた。
「ひっ、ひい!」
襲われた金髪の女や周りの者たちも逃げ出す。那智はなんとかOL風の女を押さえようとした。女は死に物狂いで腕を振り回し、掴もうとしてくる。殴られ、指が目を突こうとしてきた。
「やめろ!」
那智がその女を突き飛ばすと女は勢いよくアスファルトに叩きつけられる。しまった、と那智は咄嗟に思った。市民に、しかも女に手を出すなんてなんてことをと悔恨する前に那智は別の人間に襲いかかられる。
「うわっ、おい、なんだ!」
襲ってきたのは迷彩服の自衛官だった。首から血を流していてよく見れば駐車場地区で侵入者に襲われた通信隊の隊員だ。この男も憎悪に歪んだ顔で那智に襲いかかってくる。
「しっかりしろ!」
那智は襟を掴むとその隊員の足を払って地面に叩きつけた。受け身も取れなかった隊員はそれでも全く堪えずに再び起き上がろうともがく。
さらにOL風の女も加わって襲ってくる。背中にスリングで背負っていた89式小銃を使って正面打撃の要領で女をまた突き飛ばす。
後ろから絶叫が響き、振り返ると助けを求めてきた先程の金髪の女が襲われ、地面に押し倒されていた。女に数人の市民が群がっている。
「いやぁぁああ!やめて、痛い痛い痛い!!」
女は食われていた。群がった市民は悲鳴を上げる女に向かって必死に口を押し付け、皮を食い千切り、肉に噛みついている。
「食ってる……!」
見れば周囲では似たような光景がいくつもあった。人に人が群がり、食らいついている。吐き気が込み上げるが、吐いている暇を与えられない。営門に駆けつけようとした高機動車が飛び出してきた人を撥ねて慌てて止まる。降りてきた隊員が駆け寄るが、撥ねられた民間人は隊員に襲いかかり、たちまち操縦手も車長も人の波に呑まれる。担架を持って営門に走ってきた衛生隊員たちもその光景に慌てて逃げ出す。
那智は襲ってくる隊員を銃床打撃で吹き飛ばす。かなりの威力で骨も折れる打撃だったが、隊員はすぐに起き上がろうとしていた。
その奥から走ってくる暴徒と化した人々は正気を失った様子で辺り構わず人々を襲っている。
その中に、営門にいたはずの中林3曹を見つけ、那智は息を飲んだ。迷彩服を血塗れにして顔の穴という穴から黒い血を流した中林が目を見開いて、怒り狂った獣のような表情で、全力疾走して向かってくる。
次々に気の狂った暴徒たちが向かってきた。那智は慌てて踵を返して逃げ出す。
思考が追いつかない。なんだこれは。一体なんなんだ。
「助けてください!」
横合いから助けを求められ、那智は自分でも愚かだと理解しながらも再び踏みとどまった。見れば迷彩服の隊員──女性自衛官だ──二人が逃げ遅れ、三階建ての隊舎の側面の外壁に取り付けられた階段で追い詰められている。三階のドアが開かないらしい。それを追いかけるのは二人の暴徒。見捨てるという選択肢は思い付きもしなかった。
「待ってろ!」
那智は後ろから追われているのも構わず階段に走った。隊員と中林、そしてOL風の女が那智を追ってくる。
「ついてくるなよ!」
那智は階段を駆け登り、二階にあったベンチを掴むと登ってきた隊員に向かって放り込んだ。ベンチを受けて隊員は階段から転がり落ち、中林と女を巻き込んで踊り場で団子になる。さらに置いてあった消火器や煙缶(灰皿)を投げつけ、──すでに相手が重傷を負っても構わないと那智は容赦していなかった──急いで階段を駆け登る。
三階に追い詰められた二人の女性隊員もベンチを使って近づけまいと抵抗していた。目の前の女性隊員たちに夢中になっている暴徒二人の足を掴んで勢いよく引きずり下ろす。
二人は頭から階段に叩きつけられ、落ちてきたが激しく手足をばたつかせて起き上がる。
那智は起き上がって突進してきた暴徒の腕を掴んで引き回し、手すりに叩き付けると腰を掬い上げて二階から落とした。もう一人が掴みかかってくる。
作業服の上から凄まじい力で爪をたてられる。
「痛ぇな!!」
那智は膝蹴りをその肘に打ち込んで骨を折ると頭を掴んで足を払い、そのまま一階に突き落とした。
踊り場でベンチに挟まれてもがいていた中林たちにその男は転がり落ちてぶつかる。
『駐屯地各部隊に達する。只今を持って駐屯地を放棄する。全部隊脱出し、朝霞駐屯地に向かえ。繰り返す──』
駐屯地の混乱もピークだ。走り出した車輛が暴徒とも市民とも分からない人間を撥ね飛ばして出ていこうとしている。
結局銃声は聞こえなかった。応戦できなかったのだ。那智たちの隊舎の周りは呻き声や唸り声を上げ、気の狂った人々で溢れ返っていた。
「大丈夫か!」
「は、はい!」
女性隊員たちは一人が3等陸尉、一人が陸士長だった。どちらも二十代で士長の方は怯えきっていて腰が抜けている。
「早く立て、行くぞ!」
幹部相手に失礼だったが、それどころではなかった。周りは暴徒に取り囲まれている。逃げ場がなかった。
階段からは暴徒とその仲間と化した自衛官たちが迫っている。
「行くってどこへ……」
3尉は困惑したように聞く。周りでは人が襲われ、血走ったように暴徒たちが人を探して彷徨いている。那智は一瞬、逡巡するが、パイプイスを掴む。
機甲科は一瞥克制機、つまりは一瞥して全般の状況を把握、決断し、機先を制して行動する。遅疑逡巡は誤判断に劣る、迷っている暇などない。
「血路を開く。ここを突破したら偵察隊の隊舎まで走るぞ」
那智はパイプイスを構える。後ろの二人は息を飲んだ。
「行くぞ!」
那智は階段を駆け降り、向かってきた通信隊員の顔面をパイプイスで打つ。打たれて顔を背けてもそれでも向かってくる通信隊員の腹に蹴りを叩き込むとパイプイスで横から殴打する。
通信隊員は手すりに腰をぶつけて殴られた勢いでひっくり返って階段から落ちる。その間に女が襲いかかってきて那智を押し倒した。歯を那智の体に立てようと恐ろしい力で那智の抵抗を退ける。那智の足指先に誰かがかじりついた。
「うわっ」
踏み抜き防止の鉄板が半長靴の爪先には入っているが、那智はたまらず悲鳴を上げる。女を3尉と士長が蹴りつけて横に蹴倒す。那智は足にかじりついている男を蹴りつけると跳ね起きた女にパイプイスを叩きつけた。鼻梁が曲がり、血と歯が飛ぶ。女はそれでも凄まじい形相で那智に襲いかかろうとしてきた。那智は立ち上がった女の膝を蹴りつけて上体を崩すとその肩を今度は連続蹴りで蹴り飛ばし、突き落とす。登ってこようとしていた中林たちが再び巻き込まれて転がり落ちる。
那智はさらに階段を下ろうとするが、突き落とされた者までもが階段を登って那智たちに向かってくる。
──後ろの二人だけでも逃がす。
那智はパイプイスを武器に向かってきた男の頭を叩く。連結する軸が折れてパイプイスが分解する。
そこへディーゼルエンジンの音とサスペンションの軋む独特な音を立てて那智たちのいる階段の目の前に軽装甲機動車が車体を横付けした。屋根のガンナーハッチから斎賀が顔を出していた。
「飛べ!」
斎賀が叫ぶ。一階から登ってこようとする暴徒を那智が蹴り落とす間に士長と3尉が手すりを越えて軽装甲機動車の屋根に飛び乗った。
「きゃっ」
短い悲鳴に振り返ると着地し損ねた3尉が軽装甲機動車の屋根から転落していた。
「危ない!」
斎賀が飛び降り、回収に入る。そこへ階段でもたついていた暴徒が突進する。
「斎賀ァ────ッ!」
那智が叫び、それに気付いた斎賀が構えたのは銃ではなく、携帯シャベルだ。先が尖っていて凶悪な武器になる。斎賀はそれで襲ってきた女を突き倒した。
那智も軽装甲機動車の屋根に飛び降りると小銃を使って襲ってくる隊員の頭に銃床打撃を与える。弾かれた隊員の口から歯が飛び散った。それでも唸りながら襲いかかる。
斎賀は那智が応戦する隙に足を痛めた女性幹部を車内に収容する。那智が中林と通信隊員に苦戦していると、横から突っ込んできた二輛目の軽装甲機動車が二人を撥ね飛ばした。
「うわっ……」
二人が軽々と吹き飛んでアスファルトに叩きつけられる。
「那智、乗れ!」
その軽装甲機動車の車長席から怒鳴ったのは東2尉だった。中林たちは撥ね飛ばされたというのにすぐに起き上がろうとしていた。那智は急いで後ろのドアから軽装甲機動車に乗り込む。その乗り込もうとした那智の足を暴徒と化した自衛官が掴んだ。
「出せ!」
東が怒鳴り、二輛の軽装甲機動車が走り出す。那智の足を掴んだ自衛官は車に引きずられた。
「あ"あ"あ"ああッ!」
「離せ!」
那智はその自衛官の頭を蹴りつけて突き落とす。急いでドアを閉めたとき、横から暴徒が車体に激突してきた。暴徒は小銃弾を防ぐ軽装甲機動車の装甲に弾かれて後ろに消えた。