序章2
謎の感染症の流行は突如として爆発的に起きた。世界の如何なる衛生機関もこの感染症への対抗手段を講じる前に感染爆発とそれに伴う、いわゆる「ゾンビパニック」と呼ばれる、死者が蘇り、人の肉を求めて走り回るという恐怖によって発生した略奪や交通事故、無計画な避難による遭難死などの混乱によって、各国政府は感染に対抗する手段を永遠に失った。
那智はその時、まだ東京にいた。
十二時前の東京練馬区の空は薄暗く、雲行きのよくない空模様だった。都心で渋滞や公共交通機関のダイヤに乱れが起きているなどと報じられていた矢先、都内で暴行事件が続発していた。
練馬駐屯地の事務室にいた那智は情報収集用のテレビを見て顔をしかめた。逮捕された容疑者は薬物中毒の疑いがあり、病院に運ばれたとある。都心だけでも重軽傷者が五十名を越え、死者も出ていた。
駐屯地の前を走る環八通りは例にも寄って渋滞だが、パトカーや消防のサイレンがひっきりなしに鳴り響いている。緊急車輛用の道を開けろとアナウンスが何度かあった。
「今日はえらい騒ぎだな」
那智に声をかけたのは同僚の斎賀善信3等陸曹で、訓練から戻ったばかりで何も知らないようだった。
陸曹とは旧軍で言う下士官のことで、陸士たる兵から昇進して士官との間に入って兵を指揮する役割を負っていた。また専門職であり、その職種に精通し、陸士隊員の教育や指導を行う。
陸士から陸曹となるには昇任試験に合格し、さらに半年以上の教育を受ける。その教育において那智と斎賀は同期で、気心の知れた仲だ。
「ああ。都心で暴行事件だって」
那智は答えながら不安な予感を覚えていた。引っ掛かる日というのが那智にはあった。朝から仕事がうまくいかなかったり、出鼻を挫かれる験が悪い日。こういう日には何かが起きる。
「やだやだ。日本の治安は世界で一番良いんじゃないのかよ」
「世界でも同様な事件が起きてるんだと」
ニュースはちょうど、アメリカの空港内で複数人が暴れ、負傷者が出ており、現在空港は閉鎖されていると伝えている。現地メディアの映像が使われていて空港に集まった警察車両のそばで物々しい装備に自動小銃まで持った警察官たちが立っている。
「あれで普通のオフィサーなんだろ。向こうは向こうで治安が悪すぎるわ」
斎賀は苦笑する。
「でもリボルバーの拳銃じゃ今時心細いだろ。テロリストが防弾チョッキ着てアサルトライフル撃つ時代だ」
「起きたら想定外だった、で責任逃れさ」
斎賀の皮肉に那智は笑えなかった。
「来週からの富士での訓練、準備終わったのか」
那智はメモ帳を出してまだ終わっていない事項を確認する。
「まだ五割だ。人手が足らんよ。午後から何人か回してくれないか」
「無茶言うな」
斎賀はそう言うと飯だぞ、と言って那智を連れ立って食堂に向かう。練馬駐屯地の隊員食堂は早くからも列が出来ている。識別帽と呼ばれる部隊ごとの帽子を被って列に並ぼうとしたとき、営門の方へ数名の隊員が緊迫した様子で走っていくのが見えた。
「なんだ?」
「連隊だな」
練馬駐屯地にいる第1普通科連隊の隊員たちが鉄帽に弾帯と呼ばれるベルトを腰に付けて走っていく。見知った顔を認めた那智は声をかける。
「よお、中林。どうしたんだよ」
「那智3曹」
声を掛けられた第1普通科連隊本部管理中隊の中林3等陸曹が振り返る。中林とは訓練で接点があった。那智よりも若く、今年の七月に陸曹に昇任したばかりだった。
「いえ、自分もよく分からなくて。警衛に応援を要請されたらしいんですが……」
中林の表情は困惑気味だ。
「警衛に応援……?」
その時、駐屯地全体に放送を知らせるアナウンスが鳴った。
『駐屯地全隊員に達する。駐屯地内に侵入者あり。各部隊当直は直ちに──』
誰かが柵を越えて駐屯地内に入ってきたことを知らせる放送に誰しも驚いた。たちまち食事どころではなくなる。中林も他の隊員の後を追って走っていった。
那智が隊舎に戻ると偵察隊の当直の岩田曹長がマニュアルも見ずに隊員たちに的確な指示を出して不足事態に対処していた。
「那智と斎賀は1小隊の陸士を連れてパークに見張りを立てろ。念のため鍵も持ってけ」
那智の下に陸士隊員が集まる。
「長妻、木銃を持ってこい。坂田は鍵だ。他は鉄帽着用。行くぞ」
「了解」
陸士の中でも序列が上の長妻士長が銃剣道用の木銃を、若いが那智の班員の坂田士長が車輛の鍵を取りに走る。那智は識別帽から88式鉄帽に被り変えて斎賀と他三名の陸士を連れて駐車場地区に走った。
機甲科偵察隊の主要装備は車輛だ。それを破壊されたり、奪われたりするわけにはいかない。
「木銃です」
長妻が遅れて後から人数分の木銃を持ってくる。相手がどんな武器を持っているかは分からないが、何も無いよりはましだ。
「訓練じゃないんですかね」
長妻が疑問を挟む。抜き打ちの点検なのではと思っているようだ。そこへ坂田も遅れて到着する。
「訓練で昼休みを潰されてたまるか」
那智はぼやきながら来週からの訓練に備え、ラックに荷物を積載した軽装甲機動車を見た。警備のために車輛を使うとなるとせっかく積み込んだ荷物も下ろさなくてはならない。
その時、駐屯地の外でブレーキ音が鳴り、激しい衝突音とガラスの割れる音が聞こえた。
「事故かな」
「なんかヤバイですね」
隊員たちの顔にも不安の色が浮かぶ。偶然なのか、それとも駐屯地への侵入事案と関連しているのか。隊員たちも浮き足だっていた。
「おいこら!」
怒声が聞こえ、振り返ると同じ駐屯地の通信隊の隊員が黒い染みだらけのスーツを着た中年の男と向き合っていた。呼ばれた中年の男は振り返るとその隊員に向かって不気味な腕振りで突進する。
「おい止まれ!」
その隊員は気圧されたようだが、立ち向かおうとした。男と隊員がぶつかり、那智たちが駆けつけようとした時、隊員が悲鳴を上げた。
「痛っぇええ!!」
「なんだ!?」
駆け寄った長妻が男を引き離すと隊員は首から血を流してのたうち回っていた。
「うわっ!」
「噛みつきやがったぞ!」
「取り押さえろ」
那智は長妻と共にその男を押さえつける。異様な力で中年の男は那智を振り払おうと腕を振り回してくる。
「この野郎、大人しくしろ!」
「やめろ、長妻!過剰防衛で訴えられるぞ」
那智が押さえつけていると男はおぞましい唸り声を上げる。人とは思えないようなその唸り声に怯んでいると斎賀が衛生科隊員と警務隊員を連れて走ってきた。
「三人目か!」
警務隊員の言葉に那智は驚く。一体何人侵入してきたんだ──!?
警務隊員はタイラップで力任せに暴れる男の腕を後ろ手にして手首と親指を縛り、さらに足首も縛る。
「おい、大人しくしないか!」
「なんです、この人?イカれてますよ!」
長妻が叫ぶ。
「薬物中毒か?」
「どうもそうらしいです」
警務隊員も困惑した様子で男の口に猿轡を噛ませて無理矢理引きずっていく。よく見るとスーツの黒い染みは血だ。靴も履いておらず、破けた靴下の下の足は怪我だらけだ。
首の皮を食い千切られた通信隊員は酷く苦しんでいて衛生隊員と同僚らに運ばれていく。
「他にもこんなのが?」
「分かりません。五、六人。営門の隊員が襲われて……」
那智はぞっとした。外では悲鳴や怒声が飛び交っている。サイレンの音がひっきりなしに鳴っていた。