のこされたもの 【夫視点】
妻が死んだ。
連絡を受けたのはちょうど仕事が一段落して昼休憩に入ろうとしていたときだった。
秋も終わりの頃、冬に入ったとはいえ陽射しが暖かかったその日。暖房が暑苦しいとさえ思っていたのに、一瞬にして思考が冷たい白色に覆われた。
それからのことはまるで夢の中にいたように、フワフワとしか覚えていない。
少し前に誕生日を迎えたばかりの8歳の娘を小学校まで迎えに行き、それから妻が運び込まれたという病院へ向かった。
病院に着いて通されたのは、暗く、静かで、冷たい地下の霊安室だった。
無機質な白色の空間に、その中央にひときわ目立つ布に覆われたものがあった。
人型のそれを見た瞬間、鼓動が一際大きく鳴り響いた。
彼女のわけがない。
いつも眩しいほどの笑顔で、うるさいくらいに元気で、太陽のように暖かかった彼女が、こんな所に居るはずが無いだろう?
そう思いながら、震える手で布をめくった。
そこに居たのは、紛れもなく
最愛の、俺の妻だった。
布の下にあった彼女の顔は、そのほとんどが包帯で覆われていた。
職務中の事故だったらしい。
彼女は警察官だ。
いつもは署でのデスクワークが殆どだが、今日は検問に駆り出されていたらしい。
そこで何故か口論になっていた同僚と一般人の間に割り込もうとしたら反対車線に突き飛ばされ、運悪くそこを走っていた車に撥ねられたそうだ。
彼女を撥ねた車の運転手は、暖かい陽射しで少しうとうとしていたらしく、咄嗟に避けられなかったらしい。
淡々と、しかし悲しみを混ぜた声で説明する妻の上司の言葉をぼんやり聞きながら、包帯の無い方の妻の頬を触った。何時もの温もりなど一欠片も無い、ひどく冷たいものがそこにあった。
包帯の下のケガはきっと、酷いことになっているのだろう。
隠してもらっていてよかった。
彼女はケガばかりだったクセに人に見せることを酷く嫌っていたから。
そんなことを考えながら、自分の感情が何処か遠い所にあるように感じた。心が、全く自分の物で無いように上手く動いていない事に気が付いた。
娘の方を見ると、嗚咽を堪えながら妻の痣だらけの腕を揺すっていた。
彼女の目から溢れた涙が、服やシーツにシミを作っている。
先ほど説明をしてくれた妻の上司を見てみると、豪快そうな見た目とは裏腹に深く沈んだ表情で目が赤くなっている。
本当に妻の死を悼んでくれているのだろう。彼女はよく年上から可愛がられていたから。
それなのに俺は、泣くことも、叫ぶことも出来ないまま呆然と立って居ることしか出来なかった。
通夜は滞りなく進んだと思う。
俺は泣きじゃくる娘の背を支えながら、次々と焼香をしていく人たちに淡々と礼をしていく。
辺りからは啜り泣く声が聴こえる。
彼女の母親である義母は、義父に抱えられやっと居るようだった。
義父も泣き腫らした目でただ遺影を見つめている。
俺と妻の共通の友人だった、高校時代の同級生たちが、俺の方を痛ましげに見つめているのに気が付いたが何の反応も出来なかった。
俺はただ、そこに居るだけだった。
嘆くことも無いまま、感情が酷く凍ったままであることも気付かずに、通夜がひとりでに進行していく様子をただ見つめているだけだった。
次の日の葬儀も、沢山の悲しみと慟哭に包まれながら進んでいった。
やがて彼女を焼く火の煙が冬空に登っていった。
風に吹かれ、たなびく煙を只々見つめる。
今日はあの日と同じ様に、日差しが暖かい。
こういう日を小春日和というらしいのは、彼女から教わったことだ。