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思い出カレー

 雨が降って、止んで、また降った。ぐずぐずしつこい雨もそのうち止んで、夕方には綺麗に晴れ上がる。

 無駄になった傘をもてあそびつつ歩けば、どこかからカレーの香りがぷん。と鼻に届いた。雨上がりの空気は、ちょうどよく湿って香りが広がりやすい。

 煮込まれて崩れたじゃがいもに、柔らかくとろけたニンジン。ごろり転がるお肉の固まり。とろりと煮込まれた黄色の熱々カレーを想像して、民子は唾を飲み込む。

 だから今晩はカレーにしよう。と思ったのだ。


 カレーほど、人の思い出に忍び込む食べ物はないんじゃないか。民子はそう思う。

「ただいま上島さん、今日はカレーだよ」

 食材がたっぷり詰まったビニール袋を下ろすことなく、民子は棚に駆け寄る。上島は相変わらず笑顔だが、今日は普段よりも嬉しそうに見える。

「カレー好きだもんね、上島さん」

 上島の好きなカレーは甘口カレー。ジャガイモは嫌。かぼちゃが好き。タマネギは通常の1.5倍。ニンジンはできるだけ小さく切って、お肉は豚肉の油部分をカリッと焼き上げたものを使う事。隠し味なんて言語道断。ただし、ケチャップはちょっといれても大丈夫。

 普段は民子の作る物にそれほど口を出してこない上島なのに、カレーだけはひどく口を出した。民子の作る真後ろで、まるで動物園の白熊のようにウロウロと監督するのである。

 それが無性に面白くて、民子はカレーの日だけ上島のことを「監督」と読んだ。

「監督、今日は監督の好きなカレーを作るよ」

 上島と出会う前まで作っていたカレーは、たぶん、本当に一般的なものだった。じゃがものフチがトロトロになるまで煮込んで、辛口のきりっとしたルーを溶かし込む。

 こだわりがあるとすれば、ベースに鶏ガラスープを使うことだ。

 安い鶏ガラでも青ネギや生姜と一緒に煮込むと、部屋中に濃厚な香りが広がるのが好きだった。特に梅雨の手前、蒸し暑い部屋の中で鶏ガラスープにルーを溶かすと、ああ。カレーを食べるんだ。と実感がじわじわと湧き上がるのである。

 しかし上島に言わせてみると「一般的なカレーなんかない」となる。民子の鶏ガラカレーは、やっぱり民子のカレーなのだ。そして、甘くて黄色いカレーは、上島と民子のカレーなのである。


「タマネギいっぱい、ニンジン小さく、かぼちゃは大きく」

 4つの大きなタマネギをざくざくと切って、家で一番大きな鍋でバター炒め。あとは具材を放り込んでいくだけだ。豚肉だけは、フライパンで脂がカリカリになるまでじっくり焼き上げる。

 全てを放り込んで水をたっぷり注ぐと、透明な水が白く濁った。覗き込むと、民子の顔が映る。いつもなら、上島の顔もそこに映るはずだ。思わず振り返る。しかし背後は茜色の光が差し込んだ床しかない。ただ、きらきらと輝くばかりである。

「上島さんがいなくなって、はじめて作るカレーだもんね」

 だからじっくり作ろう。と民子は思う。今後このカレーは、民子だけが受け継いでいく味だからである。

 ことことと煮込んでいると、日がだんだんと翳っていく。具材が柔らかく煮込まれたら、ルーの出番だ。

 民子はスーパーの袋から、うやうやしくカレールーの箱を取り出す。甘口の特価品。とことんこだわる癖に、上島はルーには無頓着であった。

 ルーが加わると、一気にカレーになる。重みが増えて、かき混ぜるおたまにぐっと力が加わる。混ぜれば混ぜるほど、カレーになっていく。

 思い出せば、実家のカレーは本格的なスパイスカレーだった。学校のキャンプ研修で生まれてはじめて、ルーを使うカレーというものに出会った。濃厚でとろりととろける味わいに、幼い民子は驚いたものである。

 親戚の家で食べたデミグラスソースのような黒いカレー、スキー場で食べた温いカレー、静香の作る隠し味の多すぎるカレー。どれもこれも美味しかった、と民子は過去のカレーに思いを馳せる。

 不思議と、民子は一度食べたものを忘れない。どれも思い出に深く繋がる味だからだ。

「……カレーはやっぱり国民食だ」

 民子がぼんやりと考えている間に、とろりとした黄色のカレーがふつふつと湧き上がる。底からゆっくりと湧き上がった泡が弾けるたびに、カレーの香りが漂った。

「味見味見」

 民子はまるで神聖な儀式のように、スプーンを取り出してそっとその先をつける。ぐらぐらと煮込まれたカレーをたっぷりすくうと、軽く吹いて口の中へ。

「あつっ」

 鍋からすくったばかりの出来立てカレーはとにかく熱い。しかし、こうして立ったまま食べる瞬間が一番美味しいと民子は思うのだ。

 熱くて甘くてスパイスが遠く香る、黄色いカレーが口の中いっぱい広がって、それは民子の心のどこかを刺激した。

「あ。そうだ。氷水も」

 大きなコップに氷を満たして水を注ぐ。炊飯器を開けて出来立てご飯が香る頃、窓の外には夜が訪れていた。

 スプーンをくわえたまま窓を大きく開け、民子は夜風を顔に受ける。

 民子の家から香るカレーの匂いで、また誰かがカレーの気分になるのだ。それは幸せの連鎖だな、と民子は思った。


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