二人のお好み焼き
土曜日の夕暮れは、平日よりも静かに訪れる。そんな気がする。
温い日差しを背に受けながら、民子はいつもより明るく、元気よく扉を開けた。
「ただいまっ」
いつもならすぐに閉める扉を、今日はちょっとだけ開けておく。
「民子の家に来るの、久しぶりじゃない?」
なぜなら、後ろに静香が続いているからである。彼女は見事な巻き髪をふわっとかきあげて、玄関に堂々と立つ。
驚くほど高いヒールを器用に脱ぐ姿を、民子は惚れ惚れと見つめた。
静香ほど見事に、女として生きる人を民子は知らない。
「ただいま、上島さん。今日は静香が一緒なんだよ」
棚に駆け寄り、笑顔の上島に話しかける。上島は静香が苦手であった。さぞ、困惑しているだろうと思うと民子は楽しくて仕方ない。
「今日はね、うちで一緒にご飯食べるんだよ」
「挨拶してるんだ」
ひょい、と後ろから静香が顔を出す。こってりとした睫毛を上下させて、彼女は上島の写真を睨む。
「久しぶりじゃん、上島。なにこれ馬鹿笑い写真。もっと良い写真無かったの?」
「すっごく上島さん。って感じしない?」
「すっごく、あいつっぽい」
ふん。と鼻を鳴らて静香は背を向ける。そして机に置いたビニール袋を漁りはじめた。
「食事の用意しよ。もーお腹空いちゃった」
夕日の差し込む台所で、静香は腕を捲る。ネイルで完璧な指先も、タイトなスカートも、どれをとっても料理のできる女には見えない。しかし静香は料理がうまい。
「台所借りるわよ。ほんと民子の台所ってシンプル。塩と胡椒と砂糖しかないなんて」
「私も静香くらい料理上手ならなあって、思うよ」
民子は静香の後ろに回りこみ、彼女の手元を見る。
「焼くのとラーメン作るのは得意だよ私。でもそれくらい」
「民子一人暮らしなんだから、真面目に料理覚えなさいよ。私は何年か、お好み焼き屋で働いてたからね。お好み焼きだけは上手いの」
静香は器用にキャベツを千切りにしていく。トントンと、包丁とまな板が触れ合う音、キャベツが水分を振るって切れる音、ボウルに解き入れた粉とキャベツが混じる音。
食べ物は口で食べるだけではない。耳に届く音から美味しそうで、幸せだ。何より、自分以外の人間が台所で料理の音を立てている。それも不思議で、幸せだ。と民子は思う。
調理を続ける静香の背には、ふわふわ柔らかい巻き髪が左右に揺れている。
「って言っても、こんな風に市販の粉混ぜて焼くだけだけどさ」
「なんでお好み焼き屋さんやめたの?」
「一回だけの約束で遊んであげた店長が、私に夢中になったから……はい、できた。民子。早くホットプレート用意して」
普段は一人で食事を取るテーブルに、ホットプレートが設置される。手を差し伸べて暖かくなるまでじっと耐え、油を引く。薄い豚肉を丁寧にひく。ふつ、とフチから油が浮いてやがて威勢良く弾ける。隅っこがカリカリになるまで耐えたあと、静香は慎重に生地をその上に乗せた。
「一気に焼くとさ、なんか固くなってやじゃない? だから私は、小さいのをたくさん焼くの」
彼女の作ったお好み焼きは、直径10センチ程度の小さなものだ。スプーンで丁寧に成型して、そして再び耐える。
お好み焼きは、耐える食べ物だ。焼き上がっていく様子をじっと見つめながら、ただ耐える。
そしてひっくり返すと、豚肉の油を纏った焦げ色が民子の胃を鳴らした。
「小さいとひっくり返しやすいでしょ?」
「おお~」
急遽二人で夕ご飯を。と決まったのは、ほんの1時間前のことである。
たまたま出会い、お茶をした。今日の予定が何も無いという女二人は顔を見合わせ、じゃあ一緒にご飯でも。となる。
どこかへ食べに出ても良かったが、静香が突然「お好み焼きを作ってあげる」などと言いだしたのだ。
予定もしていなかったが、その言葉を聞くだけで民子の口の中にソースの香りが広がった。甘い春キャベツをたっぷり使った、ふわふわのお好み焼き。想像だけでたまらなくなった。
そして、女二人のお好み焼きパーティ、となったのである。
「ソースも美味しいし、お醤油もいいよね。ポン酢に七味を振るのも好きだなぁ私」
「小さいのいっぱい焼くから、好きな味付けで食べるといいよ。ポン酢も美味しいし、ケチャップも案外、いける」
まずはソースね。鉄板だから。静香は厳かに言って、ソースの蓋を開ける。
今日の彼女は見事な緑のネイルである。飾り付けられた指が、庶民的なソースの蓋を開けるのが面白い。
しかし今日の彼女はあくまでも料理人に徹している。
焼き上がった小さなお好み焼きに、素早くソースを掛ける。生地から垂れたソースが鉄板に触れて、じゅ。と音を立てる。
やがてそれは、ふつふつ沸き立ちながら楽しげに音を立てる。甘酸っぱい香りが部屋中に広がった。
「色んな味付けで食べるなら、本当はお皿に移してから味付けしたほうがいいんだけど」
「ソースは焼けた香りがないと……」
「でしょ」
絞り出されたソースはあくまでも、ただのソースだ。焼けた香りが加わるとまた別の食べ物になる。
ソースが軽く焦げるまで待って、二人は同時にスプーンを差し出す。
「あつっあつっ」
コテがあれば本当は良いんだけど。と不満げな静香であったが、スプーンですくった生地を口に入れて嬉しそうに笑う。
「あつっ」
民子もつられて大きな口でひとくち。甘い。キャベツが甘いのか、それともソースか。
柔らかい生地の中から、ふわりとキャベツが顔を出す。ソースの焦げた香りと、キャベツが一体となった。口の中が火傷しそうなのに、口いっぱい頬張ってしまう。あついあついと騒ぐ二人は顔を合わせて笑った。
「お酒のもうっと」
静香は一口二口、口に放り込んだあと、鞄の奥底からワインを取り出した。赤い、ネットリとした液体が瓶の中で揺れている。
「どうせ民子んちにはオープナーないだろうから、持って来た。グラスは借りるわよ」
彼女は器用にそれを開けるとグラスに注いだ。
ワインは不思議だ。飲めないけれど、香りは分かる。グラスに注ぐと、まるで木のような香りがする。元はぶどうなのに。と民子はいつも不思議に思う。
見つめる民子に気付いたのか、静香はもう一本別の瓶を取り出した。
「民子飲めないでしょ。民子にはこれあげる」
「ぶどうジュース?」
「ワイナリーで作ってるやつ。それがワインになるの」
お洒落な瓶に入ったそれは、ワインにしか見えない。これがワインになるのか、と民子はまじまじ見つめる。
「渡しておいてなんだけど、食後に飲みなさいよね。ジュースとお好み焼きなんて悪趣味」
そう言いながらワインを飲み干す静香を見て、民子はつい吹きだした。ワインとお好み焼きも、合うようには思えない。
「いいの。お酒と高カロリーは合うんだから」
静香は飲みながらも器用にお好み焼をさらった。ソースの味が染みこんだ鉄板を一回洗って、それから第二弾。次は醤油にマヨネーズだ。
ソースより、焦げた醤油の香りはますます胃を刺激する。そこにぽてりとマヨネーズを乗せれば、不思議と味に丸みが生まれる。
「ん。美味しい。私はやっぱり醤油かな。ワインには合わないけどね」
それでもワインを飲み干す静香は、様になっていた。彼女は口紅の付いたグラスを指先で拭いながら、民子を見る。
「ワインっていうから、何か合わない感じするけどさ。ブドー酒って言うと、なんかよくない?」
「わかる。ブドー酒を飲んでみたいね。って小学校の時、静香ずっと言ってたもんね。あとは、バターをバタ。って言ったり。なんでだろ、言い方を変えるだけで一気に美味しそうで」
「バタで作ったオムレツに、カップ一杯のブドー酒……図書室で読んだわね、そんな本」
静香が歌うように言う。民子の鼻先に、懐かしい香りが届いた気がする。
それは夏休み前の図書室だ。小学生の民子と静香がそこにいる。掃除当番の役割を放棄して、蒸し暑い図書室で読みふけったのは海外の児童文庫。
草原の上を吹く風も、木の机の上に置かれたブドー酒も、薪のオーブンで焼かれたパンも、厚いフライパンで作られるバタいっぱいのオムレツも、小学生の二人にすれば未知の物で、なんて素晴らしいんだろう。と言い合った。
大人になればきっと、こんな美味しいものが食べられると、励まし合った。現実は埃臭い図書室の一角だったけれど。
「今から思うと夏休みって、いいねえ。この年になると、あんなに長い休みなんてないもん」
「……ねえ民子。私さ、前にさ、吹っ切れ。なんて言ったでしょ」
ふ。と静香の口調が変わる。まるで泣いているような声だ。驚いて顔を上げるが、静香の顔はいつもと変わらない、凜とした表情である。
彼女はワインを手に持ったまま、真っ直ぐに民子を見ていた。
「うん?」
「あれはね、本心から吹っ切ってほしいってこと。吹っ切ったふりをするくらいなら、泣いて泣いて我が侭いって私を呼びつけるくらいのほうがいい」
以前、静香に会ったとき、彼女は民子に「上島とのことを吹っ切れ」とそう言った。民子は何とも言えずに、曖昧な笑顔で誤魔化した。
吹っ切れたふりをしたつもりでも、本当に吹っ切ったわけでもない。上島の存在は、じゅくじゅくと古傷のように民子の中にある。
ただ、上島との思い出に浸って、一人の家で過ごすのも悪くは無い。最近は、そう思っている。
「……静香、焦げちゃうよ」
「誤魔化さないで」
気付けば外はもう薄暗い。どこかで犬が吠えている。どちらも電気を付けよう、とは言わない。ただホットプレートを挟んで向かいあったまま、見つめ合う。
「民子。あんたのお母さんが亡くなった時さ」
暗闇の中、静香の声は低く響いてそれは民子の思い出を刺激した。
思い出は線香の香りだ。
「あのときも、あんたの吹っ切れ方が早かったでしょ」
それは、民子の母が亡くなった葬式の夜。大学の終わりの頃だった。その前に父を、祖母を亡くした民子にとって母は最後の家族だった。
しかしあっさりと母も民子を見限り亡くなった。短命の家系ではないはずだ。ただ、生に執着しない家系なのだろう。美味しい物を山のように食べて、そして彼らはこの世を去った。
訪問客の少ない葬式の夜。民子は片隅で黙々と仕出し弁当を食べていた。こんな時でもお腹が空くのは不思議である。
冷たい弁当も意外に美味しいものだな、などとそんな事を思っていた。その民子の隣に座ったのは静香だった。
完璧な喪服姿に、完璧な髪型で、しかしその完璧なメイクは涙でぐしゃぐしゃに崩れていた。
「……だから、私が泣いちゃったじゃない」
わんわんと、子供のように泣く静香を見て、民子も泣いた。弁当を放り出して抱きしめ合って泣いた。泣いて良いのだと、不思議とそう思えた。
あの時も、静香と暗闇の中で向かいあったのである。
「だからさ、ああもう。何言いたいか忘れちゃった……そうそう、無理するなっていいたいの。ほら私こんな性格で、友達少ないじゃない?」
まだ熱いプレートに、第三弾の生地を流し込みながら静香は続ける。
「生涯添い遂げられる友人の数って知ってる? びっくりするくらい少ないの」
生地が、じゅ。と音をたてる。二人の間にある音は、会話とそして食べ物の焼ける香りだけだ。
「だからあんたを、大事にしたいのよ、民子」
「有難う」
民子と静香の付き合いはもう、長い。せっかちでお洒落で遊び人の静香と、鈍くさく地味な民子の組み合わせはいかにも不格好だったけれど、不思議と気が合った。
「もし、二人ともこのまま結婚も妊娠もしないまま、ずっとずっとお婆ちゃんになったらさ」
静香が笑う。彼女の指がプレートごしに伸ばされて民子の頭を乱雑に撫でた。
「どっちもずっとずっと一人だったら、一緒に家族になろっか、民子」
「いいね」
民子も笑って、ぶどうジュースの蓋を開けた。甘い香りが鼻をくすぐる。
食べ物が熟するとこんなに甘い。人の関係も熟すると、甘くなるのだ。それは人生を幸せにする甘さだろう。例え叶わない夢や、優しい嘘だとしても。
「いいね……すごくいい」
静香の言葉を聞きながら、絶対の約束の出来ない民子は自分自身を冷たい女だ。と思った。
ずっと一緒に居るはずの家族は去って、上島も去った。それは思った以上に、民子に深い闇を落としている。
絶対などないのだと、見えない影がじわじわと首を絞める。それでも、甘美な甘さを求めてしまう。
詰まった喉に、ぶどうジュースを流し込むと甘味が広がった。
「……美味しいね、ぶどうジュース」
その浅ましさは、お腹の空いている時に似ている。
「でしょ。そんな甘いぶどうが、手を加えるとワインになるのよ」
「不思議」
「ずっと甘いばかりじゃないし、ずっと渋いばかりじゃないってこと」
グラスに残っていたワインを飲み干して、静香はまたいつものような軽口を叩きながらお好み焼きをひょいと返した。
「……さ、次は民子のお待ちかね、ポン酢と七味ね」
ふかふかと焼き上がっていく焦げ味のお好み焼きに、たっぷりのポン酢。そして上からピリ辛七味。
「七味はね、たくさんが美味しいよ」
ぱちりと弾けたポン酢の香りが、二人の間をゆっくりと流れていった。