ビール×チキンステーキ
(日が長くなったなあ……)
線路の上を、のんびりと電車が駆け抜けていく。電車が通り過ぎたあと、熱を持った夕陽が民子の顔を撫でた。
両手に吊り下げたビニールと仕事鞄も、夕陽を受けて鈍く輝く。
熱を帯びた香りが、民子の鼻をくすぐった。
(もう、夏の匂いがする……)
ビニール袋の隅にちらりと見えるのはビールの缶だ。それを見て民子は口元を綻ばせる。
こんな日に、大人は美味しくお酒を飲むのだ。そう思って大人になった。
しかし実際に大人になってみれば、飲める人も飲めない人もいる。民子は飲めない大人になった。
現実は多様だ。
夕暮れの温い日差しを浴びて、冷たいビール缶は汗を浮かべる。その冷たい汗を拭って、民子は駆け足気味に自宅へと向かった。
民子の会社の繁忙期が終わったのは、ちょうど今日のこと。たっぷり三週間にわたる繁忙期だった。
頑張りを称えるつもりなのか、上司が民子に差し出したのは一本のビール。「お土産にどうぞ」と、上司は言った。
キンキンに冷えたそれは、会社の冷蔵庫の中で忘れ去られ、ひっそり眠っていたものである。ねぎらいと称して、在庫処分なのだろう。
あまり飲めないのでと断る言葉は上司に届かず、結局民子はビールを持ち帰ることとなる。
飲まないのであれば誰かにあげればいいのだ。本物のビールだから、きっとみんな喜ぶに違い無い。しかし冷たい缶を眺めるうちに、民子はふと思い出した。
上島が居た頃、民子も少しだけ晩酌に付き合ったことがある。ビールの泡を舐める程度の、まるで子供のようなお付き合いだが。
その時のぬるくて苦い味わいを、もう一度味わいたくなった。
「ただいま」
陽の高いうちに帰宅が許されたのは久々のことだ。窓からの光を浴びる上島に挨拶をすませると、民子はいそいそと台所へ向かった。
ビニール袋の底をあさり、取り出したのは鶏のもも肉。地鶏、と書かれた金のシールが眩しく輝く。普段なら手を出さない、少しだけ良いお肉。
「贅沢しちゃった」
肉の中なら、民子は鳥肉が一番好きだ。牛も豚もけして嫌いではない。しかし、鳥肉の優しい旨味が何とも言えず好きだった。
しかし、その意見は民子の実家においては異端である。父も母も祖母さえも、皆が揃って牛肉を愛した。
それも血が滴る肉だ。表面だけをサッと焼き上げたステーキだ。噛みしめると、ぐにりと音を立てる、そんな肉だ。
親の作るステーキを食べるだび、彼女は自分がライオンになった夢を見た。
「……さて」
民子はフライパンを火に掛けて、鳥肉に塩と胡椒を擦り込んだ。下準備はそれだけでいい。
ただ、フライパンから薄い煙が上がるまで我慢する。少し恐くなるまで我慢して、そして一呼吸。そうっと、民子は鳥肉を熱いフライパンに横たえた。
じゅ。と音を立てて皮が縮む。脂が溶けて煙になって、獣の香りがする。
油は必要無い。必要な油は、鳥肉自身がもっている。
黄色みを帯びた脂が皮から溢れ、縦横無尽に暴れ始める。それは周囲に飛び散り、民子の腕にチリチリ焼いた。
「あつ、あつ」
油の攻勢にも負けず慎重にひっくり返し、民子は会心の笑みを浮かべる。ひっくり返した皮は、反るほどにしっかり焼き上がっているではないか。
かつて、民子の父は「鳥肉なんて食べた気がしない」と口を尖らせて、隣のフライパンで巨大な牛肉を焼いたものである。焼き上がってみれば、牛は赤く鳥は白い。赤い身と白い身のどちらも肉であることが、幼い民子にとっては不思議であった。
チキンステーキは脂をまとって、てらてらと美味しそうに輝き始める。焦げないようにそれを見張りながら、民子はぼんやりと父と母の姿を思い出していた。
(……赤いステーキなんて、もう何年も食べてないなあ……)
家族とは、色々なことがあるものである。悲しいことも腹の立つことも。しかし不思議と、食べ物を通して思い出す家族の姿は、どれも穏やかな色をもっていた。
「よしよし、良い感じ」
表面をフォークで叩けばかちかちと音がするほどに、カリカリに焼き上がった。塩と胡椒が脂に閉じ込められて、皮と一帯になっている。
大急ぎで皿に移すと、冷蔵庫にしまっておいたビールとグラスを二つ、取り出す。
ここから先は一秒を争う。行儀は悪いが足で扉を開けて、テーブルの上にチキンステーキとビールとグラス。そして、
「上島さんも」
上島の写真を、両手で支えて机に載せる。彼の前に、大きなグラスを置いて、ビールを注いだ。自分の前には、小さなグラス。
そっと注ぐと、金色の泡がグラスの底からぷつぷつと湧き上がる。黄金の泡の向こう、上島の笑顔が透けて見える。
「いただきます」
真っ白な皿にはチキンステーキ。ただそれだけ。野菜も一緒に焼けばよかったかな。と、今更思う。しかし、チキンステーキは、出来たところを食べなくては美味しさが半減する。
「……」
慎重にナイフをチキンに沈めると、かり。と皮が音を立てた。そのままナイフを進めると、中の柔らかい肉はするりと刃が通る。肉汁が、とろみを帯びて溢れ出した。
一口サイズに切った肉を一口。ぱりりと焼けた皮の風味に、柔らかな肉の風味、塩と胡椒と肉の持つねっとりとした脂が口の中に広がってとろりと蕩ける。
バターに似た濃厚な油だ。しかしバターほど、執拗さがない。しかし、咀嚼するたびに、柔らかい肉の間から油が溢れる。
実際の話、牛肉より鳥肉の方が濃厚だ。
空を飛び、大地を駆けるから鳥肉は美味しいんだよ、と、いつか民子は上島に主張したことがある。鶏は飛ばないよ、と上島はすぐさま笑った。しかし、しばらくして彼は鶏について調べたのだろう。どっさりと本のコピーを見せて民子に謝った。野生の鶏は飛ぶのである。もちろん雀のようにはいかないが、けして空を知らない鳥ではない。
空と大地を知っているから、味に旨味が出るのだ。上島とそういって笑いあったのは、もう何ヶ月も前のこと。
その声を、会話を、何故か民子は時折思い出す。
「……あつっ」
火傷しそうに熱いので一口ビールを含むと、驚くほどさっぱりと脂が喉を通りぬけた。
「……おお……」
ビールが旨いというのは、こういうことか。と慣れない味に目を白黒させて民子は納得する。
アルコールが喉をきゅっと焼く。胃がふわりと熱くなり、小麦の香りと肉の香りが一緒になった。
なるほどこれは美味しいものだ。
「上島さんは馬肉が好きだったんだよねえ」
桜が好きだから、桜肉と呼ばれる馬肉が好きなのだ……彼は、嘘か本当か分からないことをよく言っていた。上島の存在自体が嘘か本当か分からないものであるが。
しかしそれでも桜肉を食べるたびに民子は上島のことを思い出すだろうし、鳥肉を食べるたびに大量のコピーを取ってきた上島を思い出すだろう、そして牛肉を食べれば父母を思い出す。それが食べ物の繋ぐ思い出だ。
「……よし。次はワサビとポン酢」
民子はチキンステーキをしばし睨み、やがて楽しげに立ち上がる。
かりかりの皮にワサビを塗りつけて、あっさりポン酢で食べればきっと美味しいに違い無い。または、少しだけお醤油を垂らしてもいいし、マスタードも合うはずだ。
ビールもチキンもたっぷり残り、晩ご飯はまだまだ続く。
久々に上島と真向かいに座り合った民子は、今宵は少し酔っ払ってみよう。と、思った。