深夜のインスタントラーメン
終電間近に玄関に滑り込む、そんな繁忙期の夜は手抜き晩ご飯でも許される。と、民子はそう思っている。
「……ただいまぁ」
呟いて扉を開けると、部屋は重苦しい空気を纏っていた。朝に作った目玉焼きの、その香りがまだどこかに残っている。朝の目玉焼きは、ちょうどいい半熟ぶりで民子を喜ばしたものだった。外はカリリと焼けて、黄身の上部は蕩けるよう。下はほどよい固さに仕上がって、醤油とご飯で掻き込んだ。
(朝御飯美味しかったなあ)
などと考えながら、できるだけ静かに鍵を開けて小声で上島に気持ちばかりのご挨拶。そして疲れ果てた顔をくしゃくしゃと撫でて、台所を覗き込んだ民子の顔に絶望が浮かぶ。
「しまった……何も無い」
冷蔵庫を開ければ中は空っぽ。いつもならある冷凍の作り置き食材も、今は無い。
この2週間ほど、見事なまでの繁忙期だった。その間に、民子の胃がすっかり平らげてしまった。今や痩せ衰えた冷蔵庫を見て民子は絶望する。無いと分かると、余計に胃がぎゅうぎゅう鳴る。朝御飯の目玉焼きを思い出したのだから、なおさらだ。
昼以降、食べ物を入れていない胃が、何か喰わせろと我が侭を言う。
仕方なく棚を漁れば、1個だけ手元に降ってきたのは袋のインスタントラーメン、塩味だ。
野菜とは言わない。せめて卵でもあれば、と冷蔵庫を睨み付けるも、彼もまた民子の被害者だった。お前が朝に喰ったのだろうとでも言いたげに、ぶうぶうモーターを回す。
「……ほんとは、何も食べない方が、きっといいんだろうけど」
時間はもう12時を軽く回っている。明日も仕事だ。このまま水でも飲んでぐっすり寝てしまえばいい。しかし、疲れは食事でしか取れない。そう信じ込んでいる民子にとって、何も食べずに眠るのは戒律を犯したような気持ちにすらなるのである。
「繁忙期は、深夜に、食べても許される」
例えそれがインスタントであったとしても。上島の写真に言い訳をするように、民子はこそこそと小さな鍋に水を入れ、コンロのスイッチを押した。
暗い台所に、ぼう。と火がつく。
湯がふつふつ湧いたら、麺を投入。水が跳ねて火花が闇の中に散った。
(……花火みたいだ)
まだ夏は遠いけれど。と民子はぼんやりと、火を眺めた。そういえば、帰宅して電気も付けていない。
しかし今日は満月。窓からは月と外灯がひどく輝く。だからスーツ姿のまま、民子は火に見入る。
そういえば昨年、上島と花火をしたのだ。それはお盆の頃。民子の住む地域は学生や独身一人暮らしが多いので、夏になるとごっそりと人が減る。
静かな真夏の夜中、眠れない二人はなんとなくコンビニまで散策に出た。蒸し暑く、皮膚にべっとりと夏の残り香が張り付くような夜だった。
コンビニで半額になっていた花火を、手に取ったのは上島だ。気がつくと彼はそれを民子の持つ籠にこっそり忍び込ませていた。
線香花火とカラフルな色の火花が散る、たった10本の小さなセット。古びたそれに上島は子供のように喜んで、公園に駆け出した。
水飲み場のすぐ隣とはいえ、許可無く花火なんてしてもいいのか。人一番心配性な民子はおろおろと戸惑ったが、上島は構わずどんどん火を付けた。ぱちぱち弾ける火花と煙と、様々な色合いに染まる上島の顔が夏の終わりの思い出となった。
(そういえば、上島さんと打ち上げ花火を見た事がなかったなあ……)
ぼんやりと、考えているうちに鼻先が妙に生ぬるくなっている。
「あ、いけないいけない」
気がつけば鍋の中は激しく沸き立って、中の麺がふっくら水分を吸い込んでいる。民子は慌てて火を止めてスープを溶かし込み、そしてふと動きを止める。
卵も野菜も胡麻も無い。でも、工夫すればいくらでも、夕飯は楽しくなる。
「これこれ」
冷蔵庫の奥に、パン作りで余ったバターがあった。それと、開封し立ての黒挽き胡椒。
固いバターをスプーンですくってスープに落とすと、表面にいかにも美味しそうな油の膜が浮かぶ。吹き返しがないように気をつけて胡椒を落とし、湯気に顔を近づければ、塩にバターと胡椒の香りが届く。ぐう、とお腹が鳴った。
思わず綻ぶ顔を押さえ、鍋のまま机に運ぶ。
「いただきまぁす」
真っ暗な部屋の中、湯気だけが光る。ふわふわと、いい香りが深夜の部屋に広がる。それを頼りに麺をすすると口の中に想像通りの味わいが広がった。
「美味しい……」
煮込みすぎて柔らかくなった麺にバターの膜がとろりと絡んで、口の中でやさしくとける。濃くなった味わいも、胡椒のおかげで尖らずすんだ。
まだ熱い鍋のフチをふうふうと吹いて、気をつけてスープをすする。ひり、と熱く伝わる鉄の感触といかにもな塩味が、疲れた体に不思議と心地良かった。
何も具材が入っていないのに、不思議と滋養を感じるのである。インスタントラーメンはすごいな。と民子は思う。そしてまた、柔らかく千切れた哀れな麺を無心で箸でたぐり寄せるのである。
気付けば深夜1時近く。表を車が走り抜け、窓から光が一瞬差し込む。差し込んだ光は、棚の上の上島を照らした。
彼はやっぱり、楽しげに笑って民子を見つめている。
麺をつるりと吸い込んで、民子も照れたように、少しだけ笑った。