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シンプル丸パン

「ただいまぁ」

 スーパーのビニール袋を両手一杯に下げて、民子は玄関を開ける。こんな時、一人暮らしは不便だなと思う。腕が三本あればいいのにな、とも。

 手に持つ袋の中には、鳥肉に牛乳にキャベツに大根。一気に食材を買いだしたので、重いものがたっぷり詰まっている。

 だから、玄関を開けるのが面倒だ。

「よいしょっ」

 肩でこじ開けるように玄関をすり抜けて、袋を床に置く。外の日差しをたっぷり浴びてきたビニール袋も、民子自身も温い香りがする。それは初夏の香りだった。

 桜を流す雨が何度も降った。その雨は春さえも流してしまったようで、ここ最近は日差しが痛いほど熱い。通りの緑も、どんどん濃くなってきた。

「ただいま、上島さん」

 いつものように、棚の前で手を合わせる。しかし外はまだ昼日向。しかも、今日は平日。こんな風に平日の昼間に、ただいまと言うのは何だか妙な気分である。

(平日に休むなんて、前、失業保険貰ってたとき以来だなぁ)

 民子の勤める会社はそろそろ繁忙期。忙しくなる前に、有休を使って休んでおけと、上司に言われたのは昨日のことだ。

 特に用事もないけれど、民子は唯々諾々とそれを受け入れた。

 何となく「パンを焼いてみよう」と思い立ったのである。


 民子はそんなに料理が得意な方ではない。あるものを、適当に作るばかりだ。しかし、パン作りだけは、なんとなく昔から続けている。

 専用の大理石の台も買った。上島が居なくなる前はよく、この台で捏ねていた。作るとなれば何でも作った。バターロールにクロワッサン、食パンにフランスパン。結局、突き詰めれば作り方はどれも一緒だ。

 しかし最近はすっかりご無沙汰だった。作るのは、本当に久々のことである。

 久々に失敗はしたくない。だから今日はシンプルに丸いパンにしよう、と思う。

 それと今日買ってきた鳥肉をソテーにするのだ。なかなかシンプルな昼食になるに違い無い。

「強力粉と、バターと、牛乳と砂糖とドライイースト」

 エプロンなど引っ張り出して、台所に立つ。道具を全て計り終えると、温い牛乳にドライイーストと砂糖、それに小麦粉少々入れておく。

 そうすると、牛乳の底から泡が起き出してくる。イーストは菌なのだ。菌は生きていて、砂糖と小麦粉というエサを与えられると、起き出すのだ。大昔、民子にパンの作り方を教えた祖母はいつかそう言っていた。

(もう、パンの匂い) 

 そして不思議と、イーストからはパンが香る。いや、パンがイーストの記憶を持っているのか。

 こんなものから、あの茶色くて美味しいパンができるなど不思議で仕方がない。

 物事はだいたい、簡単なものです。と、祖母は語った。教職についていた祖母はいつも皺一つないブラウスを着て、小さな眼鏡の奥から民子を見ていた。

(……ややこしいと思うからややこしい。解きほぐせば、物事なんてだいたい一つか二つにしか分類されません)

 祖母の口癖を思い出す。その祖母が、人生の中で大切にしていたのは、食べることとパン作りだった。

「この牛乳を、小麦粉に混ぜて捏ねて」

 後はもうひたすらに捏ねるだけなので、そうなると民子は何も考えない。パン作りの時に妙に色々考えると、パンが不味くなる。とこれも祖母の談である。菌は、人の気持ちを指から感じるのである。

 冷たい台に打ち付けて、伸ばす。押すように捏ねる。

 最初はドロドロで、どうしようもない固まりなのに、捏ねるに従って一つになる。指についたドロドロの液体はやがて固いパンの素になり、そして一つに固まっていく。

 こんな時、一人暮らしだと誰にも邪魔されず、ちょうどいい。やっぱりもう一本、腕があると汗を拭えてきっと便利だろうけど。

「バター、バター」

 民子は呟きつつ、皿に盛っておいたバターを掴んで生地に混ぜ込む。

 せっかく綺麗にまとまった生地の中に冷たいバターを挟み込むと、生地がまた緩んだ。再び柔らかくなった生地が指に絡みつく。

 生地がバターを嫌がって、反発している。民子はこの瞬間が好きだった。綺麗に描いた絵に絵の具を塗りたくるような、そんな残虐な背徳感だ。

 しかし生地はやがて諦めたように、バターを吸収する。すると先ほどよりも柔らかく、心地のいい感触になっていく。それが、合図だ。

「後は発酵2回、焼くの1回」

 散々虐めた生地は、発酵で休ませる。

 昔はコタツで発酵していた。生地を治めたボウルにラップをして、コタツにそのまま入れるのだ。すると、うまく発酵する。衛生面はどうかなと思うけれど、このアナログなやり方を民子は気に入っていた。

 コタツの中にパンの素があるのが面白い、と上島もそう言ってはしゃいでいた。しかし、今はオーブンレンジの発酵機能にお任せだ。

 発酵と休憩の繰り返し。そんな事をしている間に、外はどんどん夕暮れていた。捏ねる時間はかからないのに、発酵に時間がかかる。だからパン作りは贅沢な趣味だ。

 日が暮れると、初夏とはいえ不思議と寒かった。

「これじゃ、晩ご飯になっちゃうなあ」

 精一杯の優しさで丸く成型し、上に卵の黄身を塗って胡麻をちりばめた。ふかふかと、いつまでも触っていたくなるようないい生地だ。きっと美味しくできるだろう。

 願うようにオーブンに放り込んだ後、民子は手持ち無沙汰にテレビを付けた。

 夕方のニュースが始まったところである。

 テレビの中では初夏のピクニックを特集していた。お弁当をもって、自転車に乗って、川辺に。山に。林に森に。楽しそうだな。と民子は顎を机に乗せただらしのない格好でそれを見る。

 作ったパンをサンドイッチにして、ピクニックに出かけるのはきっと楽しいだろう。しかし残念ながら、民子は自転車に乗れない。

 何度もチャレンジした。広い河川敷で、上島に教えてもらったこともある。

 彼は民子が乗る自転車の後ろを押して、どこまでも走ってくれた。彼は、途中で手を離すような残酷さを持ち合わせていなかったのだ。そして、結局民子は今でも自転車に乗ることができない。

(三本目の腕じゃなくて、自転車に乗るのが先かな)

 買い物に出かけるときに、楽をするために。そんなことをぼんやりと考えていると、台所から電子音が響いてくる。

「あ。できた」

 祈るようにオーブンレンジを開けて覗き込む。するとバターが、優しく鼻に届いた。

 並べられたパンはどれも、ふんわり良い色に焼き上がっている。早速一つ取り出して力を入れると、指の中で儚く割れた。白い生地がみしり、と音を立てて割れていく。

 割れ目から上がった煙は、イーストが天に召された煙なのだ。そんな馬鹿らしい話を、真剣に話すのが好きな祖母であった。そんな祖母にも、もう会えないが。

「いただきます」

 柔らかい生地に歯を立てる。焼き立てはいつも儚く口に溶ける。小麦の味が口いっぱいに広がって、鼻にバターの香りが抜けた。もっちりと噛みしめる。煙ごと、飲み下す。

 胡麻の香りがパンによく合って、民子は思わずにまりと笑ってしまう。

「追いバター追いバター」

 冷蔵庫からバターを取り出して、スプーンでえぐってパンに塗りたくる。と、柔らかい生地にバターが吸い込まれた。米といいパンといい、バターは何でも溶け込んでいく。蕩けて一つになって、そして美味しいのだから大した物だと民子は思う。

 ついでに薄いハムをパンにのせ、もっとついでなのでキュウリを薄く切って塩を振り乗せてみる。バターにキュウリにハム。そして焼き立てのパン。

 大きな口を開けて噛みしめると、小麦の甘さとバターの脂、ハムの野生とキュウリの水気が口の中に溢れた。

 口の端に漏れたキュウリを舌で絡めとって民子は立ったまま、がむしゃらに食べる。

「贅沢贅沢」

 立ったまま焼き立てを食べるのは、作った人間だけに許される贅沢だ。

 噛みしめる歯に、飲み込む喉、満たされる胃。美味しさに酔いしれて悲しみを一つ忘れるたび、民子は自分自身を獣だと思ってしまうのである。

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