炊きたてご飯
そういえば、その日は朝からついていなかった。
朝から寝坊、仕事は1分遅刻で15分の減給扱い、午後の仕事はミス連発、帰りの駅では盛大に階段からずり落ちた。
家に戻って、恒例の「ただいま」を言う前に、民子は玄関先で崩れ落ちる。
「ああ、しまった……」
手にはパンパンに膨れあがったスーパーのビニール袋。中にはゴボウに、ニンジン。そして鳥肉、ちょっとお高いコンニャクも。
「炊き込みご飯作ろうと思ってたのに」
こんなに嫌な事が続く日は、細々した家事が一番だ。全部まとめて細かく切ってお出汁の味の炊き込みご飯を作ろう。と、思った。
茶色のお焦げが香ばしい、そんな炊き込みご飯があればきっと幸せな一日の締めくくりになる。そう思っていたのに。
「ご飯、予約しちゃったんだあ」
スーツ姿のまま、民子は台所の炊飯器を憎らしく見つめる。
玄関を入ってすぐの机に、炊飯器は鎮座している。帰ってすぐご飯の様子を見られるのはいいけれど、こんな風に失敗した日はいっそ憎らしい。
あんなに朝、バタバタしていたくせに、しっかり炊飯器の予約ボタンは押していた。自分のそんなまめまめしさに嫌気がさす。
……つい10分前に炊きあがった炊飯器は、一仕事終えたみたいな顔をして緑色のランプを誇らしく輝かせていた。
これでは炊き込みご飯が、作れない。
「ただいま。上島さん」
仕方なく民子は買い物袋を床に置いて、笑顔の上島に手を合わせる。ばかだなあ。なんて声が聞こえてくるようだった。
それが憎らしく、民子は写真をつんと突く。上島はやはり笑顔だった。当然だけども。
「どうしよう……他におかずないし」
野菜を切って煮物にするのもいいが、それはちょっとシャクだった。民子は爪を噛んで、目の前のビニール袋を睨む。
今日はご飯の気分だったのだ。味の付いたご飯があればそれでよかった。
(悩んでも仕方ないし)
そうだ。仕方ない。炊飯器の蓋をあければ、もわもわと白い煙と甘い香りが民子の鼻を濡らした。
真っ白いお米が、炊飯器の上に整然と並んでいる。炊きあがったばかりの、真っ白でふっくらとしたお米だ。
海外では米は野菜の扱いだ。確かに、炊きあがったばかりの米は、瑞々しく野菜のそれに近い。大地を知っている香りがする。
しゃもじで切るように混ぜ、一口分だけすくいあげる。手にしゃもじを持ったまま、民子は周囲をちらりとみた。一人暮らしなのだから、誰もいない。それでも、見てしまう。誰も居ないことを確認して、大急ぎでしゃもじの上の米を口に運ぶ。
ほろりと、米粒が口の中に崩れた。
ちょっとだけ、固い。民子好みの炊きあがり。米粒が口の中に崩れ落ちて甘味が広がる。噛みしめると、喉の奥が鳴った。
「……美味しい」
そういえば、上島と出会ったきっかけもご飯だった。
去年の春。民子が公園でおにぎりを食べていると、声をかけられたのだ。美味しそうだね。上島はそういった。同時に彼のお腹が鳴ったので、民子は恐る恐る、余ったおにぎりを差し出した。
それを口にして、上島は目を丸めた。
すげえ、俺の好みのご飯だ。
彼は、尊敬の目線で民子をみた。それは、小さな子供がヒーローを見る様な目だったので、民子は思わずほだされた。
「上島さんにも、あげるね」
そういえば仏壇には、お米を供えるのだったな。と民子は思いだした。この家には仏壇などないが、写真があれば、そこは上島の仏壇になるだろう。
小さなお椀に炊きたてのご飯を盛って、供える。実家では、そんな記憶がある。
しかし専門の食器などはないので、陶器のぐい飲みにご飯をそっと乗せて、写真の前に置いてみる。
履歴書の写真の前に、ぐい飲み白米。
あまりにもおかしな光景に、民子は噴き出した。
「上島さん、ずっとご飯食べてなかったもんね」
写真の上島が前よりも笑っているようで、民子も嬉しくなる。
「私も……、うん。いただきます」
しゃもじにお米を乗せて、もう一口。不作法だが、怒る人は誰もいない。もう、誰も居ない。
夕陽を背に受けながら、民子は白米にふうふうと息を吹きかける。白い湯気ごと、口に入れる。口の中で白米が解ける。
「……そうだ、クギ煮があったっけ」
3口目に突入する前に、民子はふと思い出す。そういえば今日、会社で小さなタッパーを貰ったのだ。
先日まで実家に帰省していた同僚が、遠い海の味を届けてくれた。それは瀬戸内のあたりで作られる佃煮だ。
イカナゴと呼ばれる魚の稚魚を醤油と砂糖で、こってりと煮込む。混ぜると崩れるので、ひたすらコトコト茶色く染まるまで煮込む。関西では春を呼ぶ料理だ。と同僚はいった。
小さなタッパーを開ければ、中には小さな魚が焦げ茶色に染まって詰まっている。ジャコに似てるな。と民子は首を傾げる。
別に釘が入っているわけでは無い。魚が折れ曲がった様が釘に見えるのだ。
しゃもじを箸に持ち替えて民子は小魚をつまみ、白米に乗せる。
白い米の上に、照りのある茶色が加わった。一息に頬張ると、口の中いっぱいに甘さが広がる。見た目よりも柔らかく、噛みしめれば噛みしめるほどに甘さが際立つ。そしてやはり、遠くに海が香る。それはこの小魚たちが持つ、思い出が味となって伝わってくるようだった。
「……もうひと味欲しいな。もうひと味……」
しゃもじを持ったまま、民子は冷蔵庫を開ける。そこに小さなバターの箱がみえた。確かあと一欠片だけ残っていたはずだ。勿体なくて棄てられなかった一欠片。
それをフォークの先でつついて、まだ熱い白米の上にそっと乗せる。ツンと澄ました四角いそれは、熱にとろけて白米の中に吸い込まれていく。
その上に慎重にくぎ煮をのせて、一口で食べると自然と笑顔になった。
魚の甘さとバターの持つ脂身が、お米に包み込まれてとろとろに溶けて行く。
朝からの嫌な事も、悲しい事も、全部吹き飛んで。ともすれば上島のことさえ吹き飛んでいく。ただ、今の民子には白米とくぎ煮とバター。それしかない。
「……ああ、ご飯たいておいてよかったぁ」
と、民子は情けないほどの笑顔になってそう思う。
茜色の夕陽がすっかり消え夜が訪れる頃まで、民子はしゃもじでご飯を掘り起こす作業に夢中になっていた。