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イチゴのショートケーキ

 春の日曜日、そして午後。ドーナツ屋は、気怠くて時の流れがゆっくりと止まっていくようだった。

「もうさ、いい加減、忘れなきゃ」

 ドーナツを一口サイズに引き裂きながら、静香が口を尖らせた。豪快な性格なのに、食べ物は一口サイズにしないと食べられない。

 そんな静香は、民子の親友である。

 民子は冷たい紅茶を吸い上げながら、静香を眩しく見る。

 ドーナツをちぎる手も、尖った口先も、綺麗に巻いた茶色の髪も、全てが完璧だった。

「あの時は可哀想だったから言わなかったけど」

 真っ赤な口を大きく開けて、彼女はドーナツを美味しそうに頬張る。

「もともと、つきあってるときから私は反対だったんだから」

 ドーナツは白やピンクのアイシングで可愛く彩られていた。

 それを引き裂く彼女の指は、ぷるんとした赤色のジェルネイルが乗っている。それはまるで熟したイチゴだ。民子は「帰りにショートケーキを買おう」なんて関係の無いことを考える。

「あんたもさ、よく考えなさいよ。相手は猫じゃないのよ、人なんだから」

 日曜の午後のドーナツ屋は、気怠いほどに緩い時間が流れている。隅の席に座る二人に注意を払う人間はだれもいない。

 そのぼんやりとした空気に染まりきった民子を見て、静香がドーナツの欠片をぴん、と飛ばした。

「聞いてるの、民子? あんたの話してんのよ。あの男、名前だって、本物かどうかわからないじゃない」

「静香。ほら……ね。死んだ人のことあんまり悪く……」

「そうよ、死んだの」

 静香は重苦しく言った。その言葉は、思ったよりも民子の胸に刺さらない。

「だめ男の究極じゃない。人んち転がりこんで、さんざん世話やかして、あげく勝手に死んで」

「静香は激情家だなあ」

「悲しくないの?」

「泣いて泣いて泣きつかれて、もうさんざん泣いたから、もう泣かないって決めたの」

 民子はとけきらない氷をかき回しながら笑う。そんな民子の前に、小さな箱が置かれた。

 ドーナツを食べ終わった静香が、おもむろに差し出したのだ。箱には有名なケーキ屋の名前が、金色の文字で刻まれている。

「はい。ショートケーキ」

「え?」

「美味しいんだって。あんたさっき私の爪見て、ショートケーキ食べたいって思ったでしょ」

 にやりと笑った静香の顔は、子供の時からひとつも変わらない。いじわるで優しくて女らしくて、そして強い。

「私もこのネイルしたとき、思ったの。だからあんたもそう考えるだろうなって」

「すごい」

「何年あんたの友達やってるとおもう?」

 静香の指が民子の額を弾く。

「だから分かるのよ。あんたまだ、完全には復活してない。ケーキでも食べて、元気だしな」

 その指から、甘い香りが漂った。ドーナツの香りだけじゃなく、それは静香の香りなのだろう。


「ただいま」

 静香とのお茶会を解散して、民子はまたいそいそと家に戻る。日曜はすっかり夕暮れ。茜色の日差しが家の中を染めきっている。生ぬるい香りがした。

 外よりも、民子は家が好きだった。

 家に戻れば、上島が居るような気がしてしまうのだ。もう二度と会えないというのに。

「ただいま上島さん」

 いつものように、棚の上にある笑顔の上島に手を合わせながら、

(確かに彼の下の名前を一度も知らないままだったな)

 と民子は思った。

 本当に上島という名前だったかどうかも、今となれば怪しい。でもそんなことは民子にとっては些細な事だった。

 春の訪れとともにふらりと現れて、一年しないうちにふらりと死んだ男。上島はそんな男だった。

 交通事故であっと言う間だった。葬式をどうあげればいいのか、どこに知らせればいいのか、何も分からず呆然とする合間に、どこからか現れた胡散臭い男が、風のように早く上島をさらっていった。

 上島の親族だというその男は、無表情のままでこれまでの不作法をわびて、無理矢理封筒を押しつけた。

 ちらりと見えた札束に驚いて押し返したが、男は受け取りもしなかった。封筒は宙に浮いて床におち、はみ出た一万円札が畳に広がる。その音で、はじめて民子は上島が死んだのだと実感した。

 男は驚くほどの早さで上島の痕跡をすべて段ボールに詰め込んで、きえた。

 服に靴に、おもちゃに、灰皿。読みかけの本。上島がいた一年すべてが消えた。

 呆然と座り込んだ民子の目の前に、落ちてきたのが一枚の写真だった。

 数ヶ月前、彼が珍しくも就職活動をした際に、気まぐれに撮ったものである。

 こんな笑顔じゃ通るわけがないよと民子は笑った。それでも上島はあちこちにその写真つき履歴書を送りまくったようだった。

 その時の写真が一枚だけ。たった一枚だけ、押入の天袋にかくしてあったのだ。

 おもしろいから一枚だけは持っておこうかな。と上島がいって、隠した。それが先ほどのどたばた騒ぎで、落ちてきたのだ。

「……お帰り」

 それを抱きしめて民子は泣いた。

 それから夜にかけて朝にかけて散々泣いたので、もう泣くのは止めようと思った。それから、民子は泣いてない。


「今日はケーキだよ。カロリーオーバーになるから、晩ご飯はケーキで終わり」

 だめ男にだまされるタイプだよ。と周囲の友人は口を酸っぱくしてそういった。民子自身も、その自覚はあった。

 上島はけして、いい男とはいえなかった。生活の面倒は全て民子が見ていたのだし、彼は家事も壊滅的にできなかった。ただ、家にいて、笑っているだけだった。

 でもそれに、どれほど救われていたか。その笑顔が一枚だけ、残っていた奇跡にどれほど感謝したくなるか。

 死んでしまった上島に伝える術はもうないけれど。

「いちごたっぷり」

 民子は机の上においたケーキの箱をうやうやしく開ける。中を覗き込むと、真っ赤なイチゴが三粒乗ったショートケーキが見える。

 びっくりするくらい赤くて大きなイチゴだ。つん、と澄まして見えるほど、気高いイチゴだ。ロゼ色のゼリーを纏っているのが、いかにもそれらしい。

 イチゴが乗るスポンジには真っ白な生クリームがたっぷり。クリームの合間に、挟まれたイチゴが見えるのも不思議と扇情的だった。

 崩さないように白い皿に移し、周囲の薄いセロハンを剥ぐといちごが香った。

 名残のいちごは、熟している。一粒つまんでクリームを付け口に放り込む。口の中が、甘さに蕩けた。自然の味と、人工の味。二つの甘さが鼻に抜けて、最後はイチゴの香りだけが残る。

 上に乗ったいちごはクリームごとスポンジ生地を少しだけすくいあげて食べるのが、一番美味しい。民子はずっと子供の頃からそう信じ続けていたし、今でもその考えを崩さない。それを理解してくれたのは上島だけだった。

「いただきます」

 さあ、先ほどまではただの前菜。これからが本番だ。フォークをスポンジに差し込むと、ぐにりとケーキが歪んでクリームが崩れる。先ほどまでは恭しくいただいたケーキに対して、今度は砂の城を崩す子供の残酷さを滲ませて、民子は無心にそれを口に運ぶ。

 スポンジに、クリームと洋酒が滲んでいた。くちゃりと柔らかいその食感を美味しいと感じることができるようになったのは、大人になってからである。

 しかしこのお茶会には、何かが足りない。

 そうだ、温かい紅茶である。

「あ、やだ紅茶わすれてた。紅茶」

 フォークをくわえたまま、民子は立ち上がり台所へ。慌ててヤカンを火に掛け、口に含んだフォークを舌先で少し舐める。

 甘さの中に金気の味わい。それは、数ヶ月前に味わった涙の味に、少しだけ似ている。

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