たみさんのおにぎり
今年の夏は暑くなる予報である。茜色の夕陽が、じわじわと民子の体を包み込む。。
額に浮かんだ汗を腕で拭いながら、民子は家に飛び込んだ。両手に食い込むくらいの重い重い荷物。それを玄関に放り出して、何はともあれまっすぐに棚へと向かう。
棚の上、微笑んでいる上島の前に立つ。癖であり、儀式であり、民子の大事なその瞬間。
「……ただいま、上島さん」
ほどよく日に焼けた彼の写真。そうだ、この写真は夏に撮ったのである。ちょうど、これくらい暑い日に。
民子は写真を見つめた。毎日眺めている写真だが、不思議と飽きることがない。見れば見るほど発見がある。こんなに小さな写真なのに、と民子は苦笑した。
「あのね、上島さん」
ふと鼻先に、土の香りと太陽の香りがよみがえる。耳に木立の音がよみがえる。口に、冷たい麦茶の味がよみがえる。
「怒らないで聞いてね。今日ね、上島さんのね」
そして優しい女性の声が、顔が、動きが、よみがえる。どこか上島に似ている……笑顔が似ている。民子の愛した、はじけるような眩しい笑顔。
「上島さんの、お家に行ったんだよ」
それは、久々の遠出であった。
民子はそれほど活発な方ではないし、旅行などに行くのも苦手だ。つまりは、日常が崩れるのが嫌なのだ。
静香などは海外にだって思い立てばいつでも出かけるが、民子は隣の県へ行くだけでもたっぷり10日は考え込む。
家が好きなのである。家は巣だ。と、民子は思っている。
しかし年に一回、民子は必ず重い腰をあげて旅に出る。毎年この時期の土日。
民子は自分自身の実家に向かうのだ。それは墓参りである。民子の実家は7月に盆を迎える。
父も母も祖母も逝った。墓を守るのは民子の役目だ。
新幹線で1時間弱。かつて民子の実家があったその場所近くに、彼らの墓はある。墓の隣にはまるで太陽のようなノウゼンカズラが植えられていた。
ここに花が咲いたのは偶然だ。しかし天に向かってきりりと咲き誇るノウゼンカズラは母や祖母によく似ている。花火のような彼岸花よりも、燃えるようなノウゼンカズラで良かった。と民子は毎年思うのだ。
今年も墓参りの計画を立てる民子は、ある夜、恭しく地図を広げた。それは、電車の経路図が書かれた地図である。
まずは指先で上島の実家を指す。続いて、民子の実家を。
ふと、考えたのだ。民子の実家から電車を乗り継ぎ乗り継ぎすれば、上島の実家に向かえるのではないかと。
途端、鼓動が高まった。何度も地図を見ていたおかげで、上島の実家のあたりはすっかり頭に入っている。地名も、その字名さえも。
まずは赤ペンで、民子の実家に丸をつける。最寄り駅、そこから線路の上をペンで走らせる。上島の実家、その最寄り駅近くまで。
民子の実家と上島の実家、つなげてみると一本の長い線となった。
驚きと興奮に、民子はその夜は眠れなかった。
そして目的の出発の日、民子は両手に荷物をたっぷり握って逃げるように家を飛び出した。
上島の写真に向かう勇気は無かったのである。
そさくさと実家の墓参りをすませた民子は、実家の近くで一泊だけした。そして翌朝早く、電車の旅をはじめたのである。
恐ろしく時間がかかると思っていた旅程だが、それはあっけない。驚くほどあっさりと、上島の実家に繋がる電車を乗り継いでいた。
日本は案外狭いのだな。と、古びたホームで電車を待ちながら民子はぼんやりと思う。
ちょうどホームに滑り込んできた一両編成の電車は全体が緑色でできていて、動きはご老体のよう。がたん、ごとん、がたん。と定期的に揺れる音に、遠く蝉の声が混じる。窓の向こうには田圃が広がり、遠くの空には白い入道雲が広がっている。
乗客は民子と、あとは数えるばかり。ゆったりと電車はすすみ、やがて小さな駅にたどり着く。
この駅に降りたのは民子だけだ。民子を置いて電車は暑い線路を真っ直ぐに進む。赤さびたレールの横、夏草が揺れるのが、なぜだか不思議と懐かしかった。
単線の駅ホームには木のベンチと、自動販売機。振り返れば山だ。そっとホームの端に寄ってその山を眺めると、涼しい風が吹いた。夏の山は、青い。山から吹き降りる風も青い。
手を伸ばせば白い日差しが民子の肌に吸い込まれる。大地に生まれた影は濃い。
聞こえるのは、蝉の声と風音。上島はここを何度通ったのだろう、と民子は思った。風の抜ける夏のホームは意外に涼しい。このベンチに座り、一時間に一本の電車を待ったのか。その自動販売機でジュースを買ったことだって、あったかもしれない。
目をこらしても、上島の姿は見えないけれど。
民子はホームの隅で地図を広げる。赤い線で繋がる線路、塗りつぶされた駅、その駅から山へ向かっていく道の途中に大きな赤い丸がある。
(いけないことをしてる)
民子はふいに、そんなことを思った。居なくなった人のことを探るようなまねは美しい行為ではない。
(……上島さん、絶対、良い気分しない)
そう思うと、途端に勇気が崩れた。先ほどまで鮮やかに見えた山の色も、土の色もくすんで見える。
しかしせっかくここまで来たのだ。と勇気を奮うまで数十分。自動販売機で、普段飲まない炭酸水を買って一気に煽ると、力が湧いた。
「……よし」
突如空を覆い始めた雨雲にせかされるように、民子は駅から飛び出した。
別に上島の実家を訪問するつもりなどはなかった。駅を見て、彼の住んだ町を目にするだけでよかったのだ。本来なら、駅から折り返してもよかったのである。
しかしあと少し、あと少しだけと夢中になった。民子は地図を持ったまま上島の実家に向かう。大きな国道を折れると、あとは坂道と木立と土の道だけだった。
車も人も通らない。まっすぐの道。雲が増えて日差しは消えたが、道は明るい。冗談のように急な坂道を必死に歩いていると、ふと目の前に女性が現れた。駅を出て、初めて見た人間である。
彼女は道の横にある家から現れた。大地に水を捲いていたのだろう。バケツを両手に抱えたまま、驚いたように民子を見ていた。
年齢は60を越えているくらいか。しかし、老いの空気はない。柔らかい麻の服と、綺麗に入った顔のしわ。髪は清潔に切りそろえられ、柔らかく揺れている。
民子も立ち止まって、ぼんやりとその人を見る。
彼女は坂道を必死にあがってくる民子に親しく声をかけた。
「もうすぐ雨が降るわよ、気をつけて」
その声が民子の何かを刺激した。柔らかく、暖かい声だ。にこりと笑ったその顔と、その唇の角度を民子は覚えている。目が円を描く。柔らかいその円の角度を知っている。
「……上島さん」
名を呼ぶと、彼女は驚いたように目を見開き、そして満面の笑みを浮かべた。
まるで踊るように、坂道を駆け下りてくる。躊躇無く、手を掴まれた。
「あなた、もしかして民子さん?」
やはりそれは、上島の笑みだった。
想像通り、通り雨が大地を叩いたのはその10分後。
「よかった。ぎりぎりセーフね」
彼女は、たみと名乗った。それは上島の手紙の裏にかかれていた名であった。
上島の伯母であると、彼女は名乗った。想像していたよりも都会的で、若々しい、明るい女性である。なるほどあの真摯な文字は彼女の手癖に違いない。
「この道の先には、もう家がないの。だからあなたが上がってくるのが見えたとき、うちのお客様か迷子かどっちかだと思ったのよ」
彼女はあわただしく窓を閉めながら言った。間一髪、閉めた窓に大粒の雨が当たって垂れるのが見えた。
民子は通された居間の隅に立つ。歩き疲れた足の裏に、拭き清められた畳の感触が心地いい。
田舎らしい広い居間には、大きな木の机と小さなテレビ、そして小さな仏壇だけが置かれている。
土の香りがするのは、窓の隙間から湿気とともに運ばれてくるのだろう。
「でも私にこんなかわいいお客さんの覚えはないし、だから誰かしらって思ったの」
たみは大きなコップに麦茶をそそいで民子の前に出す。氷をたっぷり入れたコップはすでにひんやり汗をかいている。手に持つと、滴が指を心地良く冷やした。
しっかり煮出した麦茶は甘い味がする。麦の持つ甘みだ。思った以上に喉が渇いていたらしい。体内を水分が通り抜けていくと、一気に汗がにじんだ。
「おいしい……です」
「よかった」
ふわ、と彼女がまた笑う。上島の顔で。
「声を聞いて分かった。想像してた通りの声。あの子が言ったとおり」
「上島さんが?」
たみはそっと、振り返る。そこには小さな仏壇がある。誰のものか聞くまでもない。民子は一度顔を伏せたが、もう一度あげた。小さな四角い茶色の仏壇。その中に、小さな位牌が見える。
「あの子は言わなかったかもしれないけど……あの子を育てたのは私なの」
上島には、母も父も居ないのだ。と固い口調で彼女は言う。その裏には、重い悲しみと複雑な歴史があるのだろう。民子はコップを両手で掴んだまま、息を止める。
「私の父と兄は、それはもう恐ろしい人で……」
彼女は言いよどみ、口を閉ざした。
「ああ、だめだめ。こんな話、面白く無いわね」
民子はふと、上島を迎えに来た男を思い出す。ひどく冷たく恐ろしいあの顔、あれは上島の伯父か祖父。どちらかであったのだろう。
「まあ、いろいろ難しい事が重なって、あの子は出て行かざるを得なくなって、もう何年も連絡がなくて、諦めていたころに……ああ、お茶が空っぽ。ごめんなさい、気付かなくて」
たみは民子のコップになみなみと麦茶を注ぎながら、言葉を続けた。
「……諦めてたころにね。あの子から連絡がきたのよ。お世話になっている人がいるって」
麦茶を自分のコップにも注ぎながら、たみは笑った。先ほどまでの重苦しい空気が一変する。
「癖のある髪型や目の下にあるほくろのこと、手と爪が小さくって、目がいつもぱちぱちしてるってこと」
民子は麦茶を持つ自分の手を見た。爪が小さく、まるでシジミみたい。とずっと思っていた爪。
「お料理が上手で特にカレーがすごくおいしいこと。海にあこがれてること、柏餅を食べたことがないってこと、すごく優しいお友達がいて、すごく厳格なおばあさまに育てられて」
祖母も同じ爪だった。この爪を持つ人は料理が上手なのです。と祖母はかつて言っていた。
「すごく優しくて、すごくすてきな民子さんのこと」
民子、その発音は上島と同じだ。民子は目を見開く。言葉が出ない。ただ、声もなく、頷いた。
「たった10分の電話で、あの子はこれだけしゃべったの。あなたのことだけね。私の名前に似てるから、どんな子だろうってずっと思ってた」
たみは窓の外を見た。雲は黒く厚く、雨の粒は巨大だ。まるで滝のように、窓が雨で無茶苦茶になっている。蒸し暑さは去り、むしろ寒いほどだった。
「ここは山ばかりでしょ、雨も風も雷も雪も全部大げさなくらい」
たみは呟くように、言った。
「私、雨女なんです」
民子もつられて、呟くように言う。それを聞いて、たみは嬉しそうにからからと笑った。
「あら。私もそうなのよ。名前が似ると、こんなところまで似るのかしら。仕方ないわね、雨女が二人もいちゃ、雨が降るのは」
かつて上島も同じ風景をみたに違い無い。民子の座る、まさにこの場に座って。
民子はそっと畳をなぞる。い草が記憶を持つはずもないが。もしかするとかつてここで上島が寝ころんだかもしれない。寝ころんで、この天井を見上げて、窓をみるのだ。
夏の青空を。秋の鱗雲を、春の嵐に、冬の雪雲を。
「あなたを見たとき、ぜったい民子さんだと思った。あの子が好きになりそうな子だったから」
はた、と音がやんだ。顔を上げるより早く、唐突に蝉が鳴き始める。それは大合唱と言ってもいい声だ。じわじわ、じゅうじゅう様々な音が一斉に響く。
見れば雨が上がっている。晴天を待ち望んだ蝉が、一斉に鳴き始めたのだ。
唐突に降って、唐突にやみおわる。まるで上島のようである。
「一気にやみましたね」
「ほんと、一気に晴れたわねえ」
雲一つない7月の盆の空。夏の始まりは、いつだって空気が青い。
「民子さんがここに来たって、あの子が気づいたのね。それはもう、見事な晴れ男だったから」
たみが笑って、立ち上がった。
「そうだ。お墓参り、してもらえないかしら。近いのよ……その前に、仏壇にも線香をあげていってね」
あけた窓から、ひやりとした雨上がりの風が吹き込む。そして、線香の香りが鼻に届く。
雨上がりの大地は光を受けて眩しい。草も木々も、全てが等しく濡れている。太陽の光が、それを一気に輝かす。
蝉が雨の滴をはじき飛ばして一直線に飛んだ。
「蝉の声は、死んだ人の声ってね。この辺りではいうの。都会の人からしたら、こういうの馬鹿らしいかもしれないけど」
たみは民子の手を引いて仏壇の前に座らせる。
「じゃあ、上島さんの声も」
「あるかもしれないわねえ。あの一番うるさいのが、きっとそう」
会いたいなどと我が儘はいわない。ただ、上島の声を聞きたい。民子は不意に、そう思った。
「……ああ、もう、夜だ」
蝉の声も涼しい田舎の風も、古い電車ががたごと揺れる音も何もかもすべてが遠い。
ふ。と民子は顔を上げた。眠っていたわけではない。ただ、棚の前にぺたりと座り込んで、ぼんやりと思い起こしていただけである。
荷物は放り投げたまま。電気もつけず、エアコンもつけず、蒸し暑い部屋の中でただぼんやりと座り込んでいたのである。
上島の写真はもちろん、周囲を見れば何も変わらない日常の、家の中。
ただ民子の記憶の上には上島の実家が刷り込まれた。今後、夕立の日、麦茶を飲むとき、蝉の声で、様々なきっかけで、民子は上島の実家や、たみの姿を思い出す。
それは幸せな記憶の上書きである。
「おなかすいたなあ」
ふと空腹を覚えて民子はつぶやく。今日は朝一番に実家を出て、上島の家に向かう旅に出たのだ。ほとんど、食べ物を口にしていない。
「あ、おにぎり」
荷物を漁っていると、ふと目の隅に青い固まりが飛び込んでくる。
「おにぎりがあったんだ」
帰ろうとする民子に、たみは竹の皮にくるまれたおにぎりを二つ渡した。このあたりでとれる山椒を佃煮にして入れてるの。と、嬉しそうに彼女はいった。
のりもない、ただただ真っ白な大きなおむすび。まるで昔話のおにぎりみたいだ。と民子は思った。
ありがたく頂戴したが、結局帰りの電車の中では眠ってしまい食べることができなかった。
竹の皮にくるまれた大きな固まりをそっと机の上に置く。鼻を近づけるとかすかに木の香りがする。山の中で作られたおにぎりにふさわしい、青い香りだ。
竹の皮なんて古くさいでしょう。と、たみは何度も言った。でも、こうすると腐りにくい。それに「あの子が出て行く日も、同じものを作って渡したの」と、たみは懐かしむように言ったのだ。
「上島さん、おにぎりだよ。たみさんの、おにぎり」
民子は包みを解いて、そっと持ち上げる。真っ白なおにぎりが、暗い部屋の中でぱっと輝きを帯びたようだ。
「……いただきます」
大きく口をあける。米をかみしめると、堅くむすばれた米の固まりがほろりとほどけた。固めに炊かれた米はべたつかない。口の中で優しく解ける。
米は冷えると甘みが濃縮する。塩の味の向こう側、甘い甘い味がする。優しい味だった。人の結んだ味だった。
食べ進めると、中に甘く炊かれた山椒があらわれる。ぐっと甘いのに、はじけるとしびれる。おいしい。と民子はつぶやく。あっという間に一つを平らげて、もう一つに手を伸ばす。
「……」
上島もかつて、このおにぎりを食べたのだ。家を出て行くとき、彼はどこでこれを食べたのだろう。駅か、町に出てからか、電車の中か。
人の手で結ばれたおにぎりは、どの食べ物よりも情が深いように思われた。
2つ目のおにぎりをかみしめた瞬間、唐突に民子の目から涙があふれ落ちる。まるで堰を切ったように、ほろほろと涙がこぼれ落ちる。嗚咽を堪えようとすると、却って涙が溢れる。大粒の涙が頬を伝わり、指に滴る。
おにぎりを噛みしめる口から、呻くような嗚咽が漏れた。
……上島は、死んだのだ。
ふと、そんなことを思った。最初から分かっていたはずだ。上島が死んだと連絡を受けたとき、民子が最初に病院に駆けつけたのだ。医者から看護師から、誰の口からも彼は死んだと伝えられた。
しかしどこかでおそらく、それを信じていない民子もいた。一度だけ大泣きをして、それからもう泣くまいと誓った。それ以来、彼の死をどこかで避けていた。
ここ一年、民子はゆっくりと彼の思い出に浸っているだけで幸福だった。
しかし、上島は死んだ。彼の眠る墓は、山頂の太陽に近い場所にあった。近くにノウゼンカズラは無かったが、代わりに大きなひまわりの花が咲いていた。
「……上島さん」
名を呼んだ。当然だ。返事はない。泣きながら名を呼びながら、それでも必死におにぎりを貪る民子はさぞ奇妙なのだろうと思うと、泣けて笑える。
噛みしめるおにぎりは、塩と米と竹と涙と、そして降り注ぐ太陽の味がした。