とうふごはん、暑気払い
梅雨終わりの台風は、進路を大きく外れた。台風が風の代わりに残していったのはじめじめとした雨と、蒸し蒸し暑い夏の湿度。
そして、どたどたと部屋に駆け込んできた静香の姿だった。
「ああもう、最悪! 最悪!」
時刻は既に19時少し過ぎ。雨に濡れながら走ってきたのか、部屋に飛び込んできた静香は、民子を見るなり絶叫をあげた。
「酷い風邪だって聞いたからこんないっぱい色々買ってきたのに、最悪! 最悪!」
彼女の手にはカラフルな大小様々な紙袋がぶらさがっている。放り出したそれを開けてみると、様々に綺麗なゼリーの数々が詰まっている。
青いゼリー、赤いゼリー。よく見れば、青のゼリーには小さな赤い点と緑の点が散らばって、上からみるとまるで金魚鉢。水槽の上を走る冷たい風を感じるほどに涼やかな青の水面が美しい。
赤いゼリーは花火だ。濃紺の下地に、パッと散る赤い赤い炎の軌跡。
「……綺麗」
民子はゼリーの瓶を光にかざして、うっとりと呟いた。なんて綺麗なんだろう。まるで夏が閉じ込められたようだ。
「すっごい風邪だって聞いたから、走って、走ったのに、民子もう全然元気なんだもん」
ゼリーの他には白桃入りのババロアに、懐かしの泡雪かん。もったりと泡立てられたメレンゲを固めた泡雪かんは、まるで蕩けかけの初雪のよう。
ぷうぷう拗ねる静香のフォローも忘れて、民子は目の前のお菓子に目を輝かせた。
「……すっごく綺麗……」
「私一人で張り切っちゃってさ、馬っ鹿みたい」
静香は保冷剤を民子の額にぐっと押しつけた。そして、にっと笑った。
「……風邪治ってて良かった」
「うん、ありがとう」
ゼリーはまだまだある。フルーツが入ったもの、炭酸の泡が閉じ込められたもの。どれもこれも、夏によく似合う。
一つを手に取って頬に押し当てると、瓶の冷たさが湿気を払った。
「風邪は治ったけど、最近暑くて夏ばてっぽいから、嬉しい」
民子をしばし悩ました風邪はすっかり治まった。そういえば静香にその報告をし忘れていた、と民子は思い出す。
まだ頬を膨らます親友を見上げて、民子は笑って見せた。
「ありがとう」
「民子、もしかして晩ご飯たべてた?」
静香の鼻がぴくりと動く。勘の良い彼女の鼻は、匂いを嗅ぎつけたのだろう。民子の部屋には、今とても良い匂いが充満している。
「うん、でも、今から食べるところ。ほんとに、大したものじゃないけど静香も食べてく?」
そんな風に謙遜してみせるが、民子の口調に自信が満ちあふれる。静香はそんな民子の些細な変化を見逃さない。
美味しいものだ。と直感したのだろう、民子のあとを嬉しそうに付いてくる。
「なに、なに」
「これだよ」
外はじとじと雨降り、台所も湿気で充満している。そんな中、民子が冷蔵庫から取り出した鍋を見て、静香は目を丸めた。
「なにこれ。冷たい味噌汁?」
いつ、この料理を思いついたのか民子は覚えていない。テレビでやっていたような気もするし、誰かに聞いたのかもしれない。少なくとも実家では、味わえない料理だった。
この料理に大事なのは、丁寧に出汁を取ることだけだ。普段は出汁の素を愛用する民子だが、この料理を作る時だけは昆布とかつお節をいそいそ取り出すようにしている。
そして、かつて家庭科の授業で習った時のように丁寧に、出汁を取る。その出汁にしっかりと、少し濃い目に味噌を溶く。大きめに切った豆腐を沈ませる。
「でね、豆腐をぐらぐらになるまでしっかり煮立てるの」
豆腐は温めると固くなる。味噌だって、ぐらぐら煮立てれば香りが飛ぶ。だから絶対だめだ、と民子の母なら言っただろう。しかし、民子は敢えてその禁忌を犯した。
そうしてじっくり豆腐に味が染みこんだら、それを冷蔵庫できりりと冷やす。
豆腐の芯まで冷たくなれば、それがこの料理の食べ頃だ。
だからこの料理が食べたいとき、民子は朝からはりきって出汁を取る。出社前に、全ての準備を整えておく。
「こうやっておいてね……でね、あったかいご飯をよそってね」
ほかほかの白いご飯を茶碗に盛って、その上に民子は慎重に、味噌汁の中の豆腐だけを取り出して乗せる。できるだけ汁はいれない。できるだけ、白い豆腐だけ。
あったかいご飯の上に、冷たい味噌味の豆腐。それだけだ。かつぶしも、胡麻も、生姜も、七味も何も乗せない。
上島も色々と乗せてチャレンジしたものだが、結局なにもない無印の豆腐ご飯に帰って来た。
「はい。召し上がれ」
差し出すと、静香は目を細め、唸り、やがて箸に手を付ける。それを見て、民子も一口食べた。
「いただきまーす」
冷たい豆腐は味噌の味を優しくまとっている。味噌漬け豆腐には出せない、汁の中でゆっくりゆっくり吸い込んだ優しい味噌の味。
そのひやりとした食感、温いご飯のほんのりとした甘さ。一緒になって、溶けて行く。
少しだけ固くなった豆腐が冷たくほろほろと崩れるのが、雪のようだった。泡雪かんといい、夏は雪が恋しくなる。
「……色々持って来たのに、それより美味しい。悔しい」
静香は一口食べるなり膨れて、でも食べるのを止めない。結局、二杯もお代わりをする。
食べ終わるのを見計らって、冷たい味噌汁を茶碗にそそぐ。具のない、ただの茶色の味噌汁だ。
「でね、汁の部分はね、あとで飲むの」
冷えた味噌汁はぐっと濃厚。でも遠くに出汁の味が広がって、やはり涼しい。かつおと昆布、海の記憶を持つ食べ物は、味のどこかに涼やかさを持っている。
「夏ばてとか、風邪引いた後に美味しいでしょ」
これを鍋いっぱい食べたい。と静香は言って、無心にお代わりをした。
散々食べた後に、静香は手土産のゼリーの蓋を開けた。そしてふと、目線を上げる。
「何これ手紙?」
棚の上、上島の写真の前に例の手紙を置いているのだ。それは、まるで彼に供えるようになっている。ゼリーを片手に持ったまま、静香は宛名をじっくり眺めて民子を見る。
「……上島の?」
「たぶん」
「あんたのことだから中、読んで無いでしょ」
透明なスプーンでゼリーを一滴すくい上げて静香は肩をすくめた。
「ま。私でも読まないかな」
「字がもっと汚くって、冷たい感じならもしかしたら開けたかもしれない」
上島を罵るようなそんな手紙であれば、もしかすると民子は中を開けて読んだかもしれないと思うのだ。そして上島の代わりに怒ることだってしたかもしれない。
しかし、この手紙に書かれた宛名の文字はあまりにも真摯に美しすぎて、民子は中を改める気になれなかった。
そう言うと、静香はゼリーの底をかりかりすくいながら、そうね。と言った。
二人の間に流れるのは、冷蔵庫の唸るような音と、雨が窓を叩く音だけ。
「この雨が終わったら、夏かぁ」
静香が呟いたその言葉に、民子にふとある考えが浮かぶ。それは突拍子のないものではあったが、すとんと胸の奥に降りて来る。その胸騒ぎを隠すように民子は窓を見る。
それは、梅雨の終わりの雨だった。
「ただいま、上島さん」
静香を見送ったあと、民子は部屋に飛び込み上島に向かう。手には冷蔵庫から取りだしたばかりの黄色のゼリー。雨曇りする部屋で、ここだけが妙に明るい。
まるで向日葵のようにパッと華やぐ。
口に入れると、レモンの甘酸っぱさが喉を潤した。
「夏が来るねえ」
窓の外、まだ降り続ける雨を見ながら民子はスプーンをくわえる。
春が終わり、上島とたった一度しか過ごせなかった季節が巡る。
彼と過ごした夏の日差しを思い出しながら、民子は冷たいゼリーを喉の奥に流し込んだ。