梅雨の終わりと梅の粥
風邪を引いたのは梅雨も終わりの日曜日。喉の痛みと関節の痛みをごまかそうとした民子だったが、やがてそれが無駄な努力だったと気付く。
のど飴生活3日目の水曜日。
唐突に上昇をはじめた体温と、体を震わす寒気に屈して、民子ははじめて会社を病欠した。
(……喉いたい、さむい、あつい)
電気を落とした真っ暗な部屋の中、頭まで布団に潜り込んで民子はぐずぐずと鼻をすする。
梅雨も終わりかけ。最後の名残とばかりに雨が降るので、窓を開けることもできない。蒸し暑い部屋の中で民子はただただ耐えている。
熱が出るのは体が悪い菌を追い出そうとしているからだ……分かってはいても、熱が体を蝕む感覚はやはり慣れない。
ここまで酷く風邪を引き込むなど、子供の頃以来だった。
(ばちがあたったんだ。上島さんのことを調べようなんておもうから)
上島宛の手紙が見つかって一週間。相変わらず中身は見ていないが、裏に書かれた住所だけで、民子は色々に夢想した。
図書館の大きな地図で、住所を追いかけガイドブックにまで目を通した。栗や山菜も筍も採れる、豊かな土壌のようだった。
筍の煮付けを、栗ご飯を、山菜の天ぷらを、思い浮かべた。どれも上島によく似合っていた。
確かに彼は、海より山の人だった。
上島のことばかり考えて一週間目に引いた風邪。これは居なくなった人間の過去を暴くような真似をした、ばちに違い無い。
(つらい……おなかすいた……)
しかし冷蔵庫は空っぽ。保存食の棚もついでに空っぽ。
体調が悪くなっても食欲の衰えない民子は、なんとか布団から這いだして米袋を覗き込む。ちょうど一握り分。最後の米がそこにある。
米をよく洗って水に浸して、ことこと煮込むお粥。米の甘味が柔らかく溶け込んだ、お粥。想像だけでたまらなくなる。
しかし、手間をかければ美味しいというわけではない……かつて静香が放った言葉だ。彼女は誰よりリアリストだった。
いつか静香が風邪を引いたときのこと。「風邪を引いてる時に鍋なんて使って、もしうっかり寝ちゃったらどうするの? だから私は炊飯器を使うの。じゅうぶん美味しいから」 親友の急病に駆けつけた民子の前で、彼女は炊飯器をぺちりと叩いてそう言った。
「……炊飯器のお粥機能……」
米を炊飯器に入れたまま、民子はしばし逡巡する。
そりゃ土鍋で炊いたお粥は素敵だけど、熱がある時にそんな手間なんてかけたくないでしょ。手間がかかってるから最高って考え方は嫌いだ……とも、彼女は言った。
土鍋でじっくり炊き込むお粥と、自分の今の体調。両方を見比べて、民子は思いきり自分を甘やかすことにする。
病欠がはじめてなら、炊飯器で作るお粥も、生まれてはじめてのことだった。
民子は雨女だった。大事な用事があるとき、入学式の日、初出勤の日、遊びに行くとき、民子が外に出れば雨が降った。それに反して、上島は晴れ男だった。彼が出かけると必ず晴れる。
冬は有り難かったが、暑い夏には困った。夕立の雲も、雷雲も、彼が全て吹き飛ばしてしまう。
文句をいうと、彼は不思議そうに首を傾げた。雨女晴男、彼はそんなことを何一つ信じていない。ただ、晴れた日が多いのは当たり前のことだと彼はそう思い込んでいた節がある。
彼の祖母らしき女性から届いた、彼の実家らしき住所。そこは温暖で雨の少ない地域だった。
そのせいだ。上島の湿度の無い明るさは、産まれた場所に、起因している。
そんなことを考えながら布団に潜り込んでいると、うつら。と眠気が襲った。喉の痛みも頭痛もだるさも寒気も、全て眠気が吸い込んでいく。炊飯器にしてよかった、と民子はしみじみ思った。
どこかで小学校のチャイムが鳴った。平日の昼間に眠る贅沢と罪悪感を民子は噛みしめて目を閉じる。
遙か昔、風邪を引いて学校を休んだ日も確かこんな気分だった。遠くから聞こえる学校のチャイムを聞きながら食べる遅い朝御飯、眠りから目覚めて気がつく夕刻の色、帰宅中の子供達の声。
そして台所から聞こえる包丁の音と、湯気の香り、米がぐつぐつと煮込まれる柔らかい香り。硝子扉の向こう、台所に電気が灯っているだけで、妙に安心した。
そんな時代は、もう思い出の奥深くに眠るだけである。
過去の思い出は普段は顔をみせない。ただ時折、夢に見る程度だ。過去の悲しみもつらさも、ほのぼのと思い出される程度となる。
上島のこともまた、夢の中だけで思い出す存在になってしまうのだろうか。
それは少し寂しい、と民子は思う。そして同時に、そうなるべきだとも思うのである。
……眠ったのは一瞬のようでもあった。
夢には上島がいた。彼は、晴れ上がった夏の山道を駆け下りてくる。なぜか手には大きなお椀を握っている。
お椀にはいっぱい、お粥が注がれていた。
「民子、お粥」
その声がすぐ耳元で聞こえた。それは懐かしい、上島の声だった。
は。と目を開ければ、全身は汗でぐしゃぐしゃ。窓から西日が差し込んで、台所が真っ赤に染まっている。
雨が止んだのだ。重い雲をはじき飛ばして、太陽が大地に注いでいる。気温は急上昇。気温のせいか、熱のせいか民子の体から汗が噴き出し、そのおかげでずいぶんと体が軽い。
額から溢れた汗のせいで、前髪がべったりと張り付いている。まるで大雨に降られたあとのようだ。いや、それよりも爽快感がある。吐き出す息から熱気が消えた。民子の体が、風邪に勝ったのである。
「……上島さん?」
確かに聞こえた上島の声だが、彼はいつもの棚の上。いつもの笑みを浮かべている。
「……ただいま」
どこにも出かけていないのに、民子の口からそんな言葉が漏れた。
まるで応えるように、炊飯器から間抜けな音楽が流れてくる。それは完成の合図。お粥の甘い香りが部屋いっぱいに広がっている。
まだ熱い炊飯器の中に塩と生卵を一つ投入して軽く混ぜ、じっと我慢の10分間。そっと蓋を開けると、黄色と白がふんわりと混じり合っている。
理想的な柔らかさだ。なんだ炊飯器でもじゅうぶんに美味しい。
「いただきまーす」
茶碗に注ぎいれたお粥の上には一粒の赤い梅。そっと噛みしめると、口の中にじわりと甘味が広がる。米の持つ甘さなのか、ねっとりとした暖かい味わいが喉を通り胃にすとんとおさまる。
噛みしめた梅の酸味が、固まりかけたゆるい白身が、柔らかい米が、優しい塩気が、一つになる。
「滋養だなあ……」
民子は梅の実を囓りながら思わず呟いた。
抵抗なく、体に吸い込まれていく甘い甘いとろけるお粥。暖かさに、弱った体がどんどんと癒えていく。
この感覚を、民子は知っている。
「……上島さん」
考えて見れば、上島の存在が民子にとって滋養だったのだ。
梅の皮をぷちりと噛みしめながら、民子はふと、失われた人の事を思い出した。