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夏の香り

 部屋が青い香りに包まれている。

 それは夏の香りだ。夏を誘い込む香りだ。

 夏を迎える前に逝ってしまった人を思い出させる香りだ。


「ただいま。上島さん」

 例え外に出た時間がたった数分であったとしても、家に戻った際、民子は上島に挨拶をかかさない。それはもう、ただの癖だった。

 挨拶を続ければいつか声が上島に届くなんて、もうそんなことは考えていない。ただ挨拶をしなければ腰の座りが悪くなる。

「上島さん、あのね……」

 上島の写真に向かって手を合わせる。その両手の指から、青い香りが広がった。振り返ると、ぴかぴかに磨かれた台所のシンクの上に青い輝きが見える。それは大きなザルの上で、昼の気怠い光を受けて輝いている。 

 そして民子の手に握られた本屋の、大きな袋。

 それを恥ずかしそうに隠して民子は、頭を下げる。

「……あのね……」


 雨の日曜日、今日は朝から台所の工事が行われた。先日、民子の家をしとどに濡らした水漏れ事件の修復である。

 水を含んだ壁紙をはがして、冷蔵庫を除けて床を拭き、ついでだからとシンクまで磨いてくれた。おかげで、くすんでいた台所がすっかり美しく蘇った。

 工事は長丁場になると聞かされていた民子は、朝一番に近所の八百屋を覗いた。そしてそこで、青い実を見つけたのである。

 「綺麗な山椒だよ」と、店主は言った。あくぬきは少し時間がかかるけど、冷凍しておけば一年は使えるよ。

 時間がかかるよ。その言葉に民子は惹かれる。そうだ、工事が終われば山椒のあくぬきをしてみよう。

 「山椒の実は雨の日にあくぬきをするのがいいから、今日なんかちょどいい」その方が、香りがたつ。嘘か本当かわからない。ただ、店主のいうまま一キロほど購入した。味の参考に、と店主が煮つけた山椒の佃煮までおまけがついた。

「山椒は全部煮付けにするんじゃなくって、使わない分は冷凍しとくんだよ。煮るばかりじゃない。鳥のミンチに青いまま刻んで混ぜると、それはそれで粋な味がするからさ」

 山椒仲間を作りだそうと、必死に説明する店主の勢いに飲まれるように、民子は山椒の味わいに思いを馳せた。

 そういえば、山椒なんてもう何年も食べていない。

 

 梅雨のグレーがかった空気の中に、ぱりっとするほど美しい緑。手の中で転がすと、部屋が一面青色に香る。

 実についた小さな枝を四苦八苦しながら取り除き、たっぷりのお湯でゆがく。そのあとは、水にさらして数時間。時折水をかえてやると、実の中に閉じこめられたあくが抜けるのだという。

 枝きりと熱湯の洗礼を受けた山椒は、今やぬるい水の中にそっと沈んでいる。近づいてかき回すと軽く踊った。水の中をふわふわと、舞うように踊るのは妙に可愛らしかった。

「どうしよう」

 かき混ぜながら、民子はつぶやく。

「……どうしよう」

 つぶやく民子の目の前に、古びた封筒がある。水染みの残る、茶色の封筒だ。厚みがある。中に手紙がみっしりと詰まっていることは簡単に想像できる。

 その表面には民子の住所。そして、

「上島圭吾……様」

 と、丁寧な字で書かれているのである。

 今朝から昼にかけて行われた、台所大掃除の時のこと。冷蔵庫を持ち上げた掃除業者が民子を呼んだ。

 冷蔵庫の下、埃まみれのそこに封筒が落ちているという。なにげなく受け取った民子は息を飲んだ。見覚えのない封筒、見覚えのない文字、そして見覚えのある名字に、見覚えのない名前。

 不審そうに首を傾げる業者に慌てふためき言い訳をして、民子はそれをポケットの中にねじ込んだ。

「……けいご」

 口の中で名を呼ぶが、それはまるで赤の他人のようだった。

「……上島さん」

 こちらの方が、しっくりくる。

 封筒に押された日付は去年の冬。封筒の裏に書かれているのは、上島たみ。

 上島の母か、姉か、祖母か。その字の真摯さをみるに、それはおそらく祖母に違いないと民子は思った。

 封は開けられている。読んだ上島が冷蔵庫の下に隠したのか。いや、彼の性格でそれはあり得ない。おそらく適当に放置したものが、隙間に滑り込んでしまったのだろう。

 民子は震える手で封筒をつかみ、覗く。綺麗な白の便箋だ。黒いくっきりとした文字も見える。が、民子はそれ以上はあけずに目を閉じる。山椒の香りにだけ集中する

 この手紙と出会ってもう数時間。見るか見るまいかの激しい逡巡のあと、民子が唯一したのは裏に書かれた住所を見ることだけだった。

 そして山椒の下ごしらえを放置して、近所の本屋に駆け出した。

 民子が買ってきたのは、大きく詳細な日本地図。それを床いっぱいに広げて、そして送り主の住所を探し出す。

 ……目的の場所は、意外なほど、山の奥だった。

「実家は海のそばって言ってたくせに」 

 四方を山に囲まれた陸地も陸地。住所は、そこを指している。

 民子はその山の場所を、そっと撫でた。

「海なんて、ずっとずっと向こうだよ、上島さん」

 その場所は、山椒がとれる。とも書かれている。この地方の山椒は、都内にも出荷される。小粒だが、質がいい。

 死んでから判明した上島の嘘だとか彼の名前だとか、それはすべて山椒の香りの前に溶けた。


 雨は降って止んで、また降り始めた。

 肌に張り付くような湿度のくせに、肌に触れる空気は冷たい。

「私の山椒はとりあえず、冷凍」

 たっぷり半日、日が暮れるまで水にさらした山椒は水を拭って冷凍庫に眠らせることにした。

 まずは店主が持たせてくれた山椒の佃煮、これがまた大量にある。

 鼻を近づけると、懐かしいざらめが香った。

「やっぱりご飯だよねえ……いただきます」

 真っ白な炊き立てのご飯に、そっと佃煮を乗せる。あれほど美しい緑色だった山椒も、、佃煮になるとすっかり縮んで茶色の固まりに成り果てる。

 しかし一口含めば、香りが一気に蘇った。甘い濃厚な砂糖の向こうに、青い香り。それと同時に口の中をびりびりしびれさせる、痛みに似た旨味。

 痺れは酸っぱさにも似ている。甘くて痛くて酸っぱい。一気に広がった味に白いご飯が、丸くまとめた。

「おお、おいしい」

 甘いだけの山椒の佃煮なんて邪道だ。山椒好きの店主はいった。民子もそう思う。痛みがなければ、おいしくない。食べ物のくせに、山椒とはそういう存在だ。

 ひりひりしびれる口の中を、ミョウガの味噌汁で急いで洗う。

 しゃくしゃくとした歯ごたえと、鼻を抜けるさわやかなかおり。それでも吹き飛ばせない山椒の強い強い香り。外の雨など忘れさせてくれるように、夏が香る。

 ミョウガは物忘れがひどくなるから受験生は食べちゃだめだ。そんなことを遙か昔、民子の母が言った。

 妙に真剣な顔だったので、民子は素直にその年、ミョウガをあきらめた。

 せっかく覚えた勉強も、友人たちとの楽しい日々も、ミョウガのせいで忘れるようになったら寂しいな。と思ったのである。

「でも忘れるってことも、大事だよね」

 上島の写真を見上げて民子はミョウガと山椒を交互にかみしめる。

「……上島さんは、上島さんだよね」

 一度目にしてしまった、圭吾の二文字。あの上島にはどうしても似合わない。上島は、どうしたって民子の中で、永遠に上島でしかあり得ない。

 端の先につまんだ、くたくたの山椒の佃煮を眺めながら、

「……上島さんも山椒好きだったのかなあ……」

 とつぶやいた。だとすれば、昨年の夏に作るべきだった。今年の夏を見る前に逝くことになるのなら。

 せめて青い香りが届きますようにと、民子は彼の写真の前に一盛りの山椒を置く。

 青い実の向こう、彼は相変わらず笑っていた。

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