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卵入りかきあげうどん

「ただいま!」

 なんて元気よく言うなり、民子はアパートの玄関を勢いよくあけ放つ。

 鼻先に生ぬるい空気が広がった。朝からずっと閉じこめられた家の持つ、染みついた独特の匂い。

 じっとりと皮膚に張り付く生ぬるさに民子は、春だなあ。などと思う。

 そして手に持つビニール袋を台所のシンクの上に放り投げると、壁にかけられた小さな鏡を覗き込んだ。

 一日働いて、化粧もすっかり剥げた顔。女が一番醜いのは、仕事終わりのこの時間だ。と何かの本で読んだ。化粧が剥げたせいばかりではない。夕方の女には笑顔が無い。

 ぼさぼさの頭だけ手早く整えて、リップクリームだけ唇にきゅっと引く。無理矢理口角を上げて微笑むと、そこに民子……西野民子の、彼女らしい顔が生まれる。

「ただいま、上島さん」

 そして民子はいそいそとタンスの前に向かう。高さはちょうど民子の肩口ほど。ぬいぐるみやアクセサリーが乱雑におかれた棚の一番奥、そこに小さな小さな写真が立てかけられている。

 切手よりちょっとだけ大きなその写真は、履歴書用のものだ。真四角にちょきんときられたその写真の中に、一人の男が笑っている。

 まるでスナップ写真のように、口をぱっくりとあけて彼は笑う。目は虹みたいにきゅっと円を描いているので、ぱっと、花が咲いたような笑顔だな。と民子は見る度思うし、同時につられて同じ笑顔になってしまう。

「上島さん。今日の晩ご飯はうどんだよ」

 小さく手を合わせて、民子は再び台所へ。

 放り投げておいたビニール袋を漁ると、半額のシールが輝く生うどんと、十個入りの特売卵。それに、すっかり湿気ったかきあげ天ぷら。

「まずは、水に昆布のだしの元。お酒とみりんと、だし醤油」

 小さなゆきひら鍋に、目分量で調味料を投げ込んで火にかける。すぐさまうどんを落としこみ、ほぐれたところにかき揚げと卵を一つ。

「あつくなったのに。またお前うどんかよ。って言うんでしょ。でもそんなこといって、上島さんもうどん好きだよね」

 暑い部屋に、熱い湯気がわきあがる。お醤油の香りと、潮の香りが民子の鼻をくすぐる。昆布出汁のせいだ。つまり、これは海の香りだ。と民子は思った。民子は本物の海をみたことがない。山に育って、今も海のない県で暮らしている。

 テレビで海を見てはしゃぐ民子を、上島はひどくからかったものだった。

 彼はどこか遠くの島国で育ったのだという。海は彼にとって日常だ。お前に海を見せてやるよといって、ある日彼は、風呂いっぱいに、水を張ってそこに買い置きの塩を一キロ。どぼんとおとした。

 さあ泳げ。これが海だ。写真とおなじ笑顔で笑った彼のおかげで、民子は偽物の海を体験したこととなる。

 そんな彼は、うどんも好きだった。

 うどんを作って海を思い出すなんて、おかしな話だ。民子はふつふつ沸き立つ鍋を眺めながら笑ってしまう。

「……さあ卵はいいかんじ」

 固まるか。どうか。うどんのおいしさはこの卵にかかっている。と民子は信じている。

 だからにやけ笑いを止めて、じっと鍋の中心を見つめた。

 黄身が白身に守られるように鎮座している。その表面に薄く白い幕が張れば静かに火を止める。黄身がカチカチになってしまえば台無しだ。かといって、生の状態でもつまらない。

 上から七味をたっぷりかけて、鍋ののまま慎重に和室に運ぶ。器に移せばせっかくの卵が壊れてしまう。それで何度泣いたか分からない。

 民子は鍋を机において、再び真剣な表情で、たまごをそうっとつつく。

 箸先のかすかな感触に、卵の表面がぷるるとゆれて、ぷつりと割れた。とろりとまるで火山のように、黄身が滑りだしたとき、民子ははじめて笑顔を浮かべる。

「いただきます」

 手を合わせて、黄色く染まった麺をすする。ゆっくりとかみしめるようにその小麦の固まりを口に入れると、熱さのあとに甘さと塩気が広がって、遅れて油のうまみが広がった。胃の中が暖かくなる。

 こんな食べ方をする民子を見て、いつも上島は呆れたように言っていた。

 どうせ卵を潰すなら、鍋の中で潰してしまえばいいのに。

(上島さんは分かってないなあ)

 一本ずつ丁寧にうどんをすすりながら、民子は思う。まさに今、食べる瞬間に、食べるためだけに崩される卵は特別なのだ。崩れる瞬間、嬉しくもあり切なくもある。

 目を細めた民子の前に、ぬるい風がふいた。窓を締め忘れていたのだ。細くあいた窓から、ピンク色の花びらが舞い降りる。

 目の前の公園の桜もそろそろ見納めだ。今年は桜が遅かった。遅い分、いつまでも咲いてくれると思ったが、そうもいかないのだろう。ちらちら散り終わり、その名残の花が民子の部屋に訪れた。

「お帰り」

 うどんを食べる手を休めず、民子はいう。こんな風に、部屋に突然訪れる来訪者を見ると、上島を思い出すのである。

 もう二度と、訪れることのない上島のことを。

「……春だなあ」

 花びらを光にすかして、民子はいう。

 出汁の香りをかぎながら、今年は海にいってみようかな。と、ちらと思った。

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