背中 さんじゅうに
大吾の葬儀が終わって、美和は一番に橋田画廊に向かった。美和が休んでいる間、画廊に詰めていたオーナーは、お悔やみを言うよりも先に満面の笑みで美和のために受付カウンターの椅子を引いてやった。
だが、美和は画廊の入り口に立ったまま、店の奥に入ろうとはしない。
「どうしたのかな、美和君」
美和はバッグから取り出した封書を、近づいてきたオーナーに突き出した。
「退職願?」
「兄があんなことになって、気持ちが落ち着かないんです。こちらで働いていたら百合子さんとも顔を合わせなければいけません。とても、普通に接することは出来そうにもなくて」
オーナーは驚いた顔をしたが、それが演技であることは、大仰すぎる動きと、笑いを含んだ目を見れば、すぐにわかった。
「それは、美和君。契約違反だよ」
「契約?」
「そう。就業契約を結んだよね。契約書に、君の拇印がしっかりついているよ」
「なんのことですか?」
「おや、忘れてしまったのかな」
オーナーは受付デスクの引き出しから大き目の封筒を取り出した。中に何部かの書類が入っている。
その中の一部を抜き出して、美和に手渡した。
美和は書類を読んで目を見開いた。
「なんですか、これ。私、知りません」
オーナーは親切そうな笑顔を見せた。これも演技だ。美和はオーナーの態度にイラつきを覚えた。
「本当に忘れてしまったんだねえ。五年間は勤続するっていう契約を。違反したら違約金を払うというのも契約内容に入っているよ」
美和はあらためて書類を見直した。違約金の項には、法外な金額が提示されていた。
「こんなの、知りません! いつ書いたって言うんですか!」
「書類の発行は一週間前だよ。日付も入っている」
「でも、私はこんな、拇印なんか押した覚えはないです。でたらめ言わないでください!」
ニヤニヤとオーナーが笑う。今まで我慢していたタガが外れたかのように、顔を歪めて笑っている。
「仕方ないなあ。覚えていないなら、証拠を見せよう。バックヤードにおいで」
オーナーがバックヤードに続くドアを開けて美和を待っている。行くべきではない。美和の本能が警告を発したが、手元の書類を見ていると、不安が喉元までせりあがって来て、動かずにはいられなかった。
バックヤードでオーナーは防犯カメラの録画データを再生した。日付は一週間前、契約書の締結日と同じだった。
防犯カメラの位置は固定されている。いつでも入り口付近が映し出される。画面の中には、見慣れた受付のデスクがある。
デスクには美和が座っている。書類に何かを書き込んでいる。隣にはオーナーが立っている。時おり、書類を指さし、美和に何か指示している。
美和の後ろには百合子が立って、肩越しに美和の手元を見ている。
「……なにこれ」
ぽつりと呟いたが、答えはない。
映像の中、百合子が契約書の隅を指さす。美和はデスクから朱肉を取り出すと、親指を朱に染めて、紙に押し付けた。
こんな記憶はなかった。あるはずがない。
契約書など今日、初めて見たのだ。拇印など押したことはない。まさか指先が印鑑の代わりになるなどということが、現代にも通じる習慣だとは思っていなかった。
映像の中、美和は朱色の親指をぼんやりと眺めている。百合子がその手を取り、美和の指をぺろりと舐めた。
ぞわり、と鳥肌が立った。百合子がぺろりぺろりと朱色を舐めとっていくのを見るたびに、美和はその感触を思い出した。
知らないはずの感触が、指先に戻ってきた。柔らかく、ぬめった舌が、しっとりと指に絡みつく。温かく艶めいて。絡めとられる。快感が背中を這い上る。
この感触。
知っている。
吸われている。
味わわれている。
ちゅうちゅうと。
もうだめ、捕まっちゃった。
美和は、か細い羽虫だった。蜘蛛の巣はすぐそばに行くまで、光の影に隠れて見えなかった。
見えた時には遅すぎた。
美しい、美しい網目模様に、優しく、優しく包まれた。
目の前には黄色と黒のはっきりとした縞模様。
危険を知らせるサイン。
ああ、でもその魅惑的な姿。惹きつけられる。もう逃げられない。
もう、逃げられない。
もう、吸いつくされる。