背中 さんじゅう
しばらくすると、大吾はぐったりと床にくずおれた。斗真があわてて脈と呼吸を確認した。どちらも問題なく、気を失っただけのようだった。
「離して。大ちゃんを介抱しなくちゃ」
もがくのをやめた百合子が落ち着いた声で言う。さゆみはそっと、百合子から離れた。百合子はおぼつかない足取りで大吾のそばに近寄り、しゃがむと、大吾の頬をそっと撫でた。
「疲れちゃったのね、大ちゃん。モデルは疲れるものね」
落ち着いて見てみると、大吾はげっそりとやつれていた。百合子宅にやって来てから二日しか経っていないとは思えないほど、頬はこけ、体も一回り小さくなったようだった。
投げ捨てられたスマホを拾って、斗真が救急車を要請する声を、百合子はぼんやりと聞いていた。
大吾を外に連れ出すことに抵抗するだろうと思っていたさゆみは、百合子の大人しい様子に驚き、動けなかった。
やって来た救急隊員がストレッチャーに大吾を乗せて運んでいく。百合子はついて行くことなく微笑を浮かべて見送っている。
「……いいの? 弟について行かなくて」
さゆみがいぶかし気に聞くと、百合子は部屋の真ん中に据えられたイーゼルを指し示した。大きなキャンバスが立てかけられ、『背中』が輪郭だけ描きかけのまま止まっていた。
「この絵を完成させなくちゃ。大ちゃんの絵を描いてしまわなくちゃ」
百合子は陶然と宙に視線を浮かせている。自分の世界に入ってしまって、他のことには注意を向けていないことがありありと見て取れた。
大吾を取りもどす。その目的を達成したさゆみは、顔をそらし、百合子に背を向けて部屋を出た。
「本当は、もう少し、ゆっくり描きたかったんだけど。ねえ、大ちゃん」
大吾が座っていた、今はからっぽの椅子に語りかけて、百合子は絵筆をとった。
さゆみと斗真は病院まで大吾に付き添った。連絡した美和が駆けつけるまで病院の待合室にいた。倒れた状況など、詳しく話を聞かれた。二人が話す内容を聞いた医療関係者は首をかしげた。どうして大吾がここまで衰弱したか、見当がつかない様子だった。
美和が病院に駆け込んできた。何があったかわからない美和のために、さゆみと斗真は病院に残った。
医師に呼ばれた美和は、大吾の今の状態や今後の処置などを説明されたのだが、思いのほかの重症だという診断に顔色が一気に悪くなった。
各種の手続きを済ませて待合室にやってきた美和は長椅子に倒れ込んだ。
「大丈夫?」
さゆみの問いに美和は黙って頷いたが、両手で顔を覆って、深いため息を吐いた。
「お兄さんの具合は、そんなに悪いの?」
美和は疲れ果てて顔を上げる気力もないようで、床に言葉をこぼすようにして話す。
「衰弱がひどいらしいんです。一週間も何も飲み食いしていないんじゃないかと思うほど弱ってるって。どこかに病気があるんじゃないかって、これから詳しく調べていくそうなんですけど……」
美和が膝に下ろした手をさゆみが握ってやると、美和は深く息を吸った。そっと吐く息に疲労がにじんでいた。
「たった二日で健康な人がここまで弱ることは考えにくいって言われたんですけど、兄には持病もないんです。百合子さんの家で何があったんでしょうか……」
さゆみも斗真も、美和の問いに答えることは出来なかった。なんの力にもなれないまま、二人は病院を後にした。
大吾が亡くなったという連絡は、それからたった二時間後に入った。
集中治療室で意識を取り戻した大吾は、一般病室へ移動したが、職員の目が届かない時に自分の首を爪でえぐり、血管を引きちぎったという。
見つかった時にはすでに失血死した後だった。