背中 にじゅうく
日が昇って、車の往来が多少あったが、道を歩いていく人はいなかった。お屋敷住まいの人は皆、車でしか出かけないものなのかと思いながら、斗真は通行人に怪しまれることがなさそうな様子に安堵した。
「来た!」
さゆみが叫んで車から飛び降りた。見ると、百合子が門を開けているところだった。斗真もあわてて後に続く。
門から出てきた百合子が駆け寄ってくるさゆみに気付き、微笑みかけた。さゆみは百合子に体当たりしそうな勢いで、その両腕をとった。百合子の手から門の鍵が落ちる。さゆみは低い声で百合子に話しかけた。
「おはようございます。お出かけのところ申し訳ないですけど、家に戻ってもらいます」
斗真が追い付いて鍵を拾い上げた。百合子は驚きもせず、優しく微笑んでいる。
「また、私の家を家探ししたいの? あなたの元宮君は、いないのよ」
怒りのせいで、さゆみの顔に朱が差した。手に力がこもる。百合子の腕をキリキリと締め付けているが、百合子は笑顔を崩さない。
「知ってるわ、そんなこと。私が誰よりも、知ってる」
「じゃあ、今度は何を探しに来たのかしら」
「探しものじゃないわ。船木大吾さんを返してもらう」
「ふなきだいご、さん?」
百合子は不思議な言葉を聞いたかのように首をかしげた。
「どなたかしら」
「あなたの弟でしょ」
百合子は眉根を寄せて不快気な表情を見せた。
「私の弟は、確かに大吾という名前ですけれど、苗字は当然、高坂だわ。加藤田さん、いったい何を言っているの?」
「とにかく、家に入りましょうか」
腕を握ったままのさゆみに促され、文句を言うこともなく、百合子は建物に向かった。斗真が二人の後からついていく。百合子が逃げ出そうとしたら、すぐに動けるようにと気を付けていたが、百合子は抗うこともせず、カバンからもう一つの大きな鍵を取り出した。
手のひらに収まらないほどの巨大な鉄製の鍵だ。丸い取っ手に、腹の部分には大きな突起が三本だけという簡単な作りだ。その鍵を鍵穴に差し込み、回した。ガチャリと重い、金属がぶつかる音がした。そのまま戸を押して、大きく開けた。
部屋はがらんとして人影はない。
「船木大吾はどこ?」
百合子は困ったように眉根を寄せる。
「船木さんという人は、本当に知らないのよ。うちにいるのは私の弟の大吾だけ」
「会わせて」
「どうぞ、こちらよ」
百合子は部屋の奥、真っ暗な空間に入って行った。ついて行くと、パッと明るくなった。真っ白い光が目を焼く。手廂で光を避けながら見ると、部屋の真ん中に船木大吾が座っていた。うつろな目で自分の足の先のあたりの床を見ている。
「大ちゃん、お客様なんだけれど、ちょっといいかしら」
ふらりと視線が揺れて、大吾は百合子を見上げて言った。
「……おねえちゃん」
さゆみが叫ぶ。
「違う! その女はあなたのお姉ちゃんなんかじゃない!」
百合子は困ったような微笑を崩さない。
「大ちゃん、この方が、あなたのことを勘違いしているみたいなの。お姉ちゃんと家族だって、教えてあげてちょうだい」
大吾はぶるぶると小刻みに震えながら、さゆみの方に顔を向けた。さゆみは正面から大吾の目を覗き見た。どこを見ているのかわからない焦点の定まらない目だ。さゆみのことを認識できているのかどうかも怪しい。けれど、話しかけてみるしかない。
「名前は言える?」
「……こうさかだいご」
「違うでしょう! あなたは船木大吾!」
「……こうさかだいご……です」
百合子がくすくすと笑いだした。
「ほら、大ちゃんは私の弟でしょう。船木さんなんていう人は知らないわ。ねえ、大ちゃん」
大吾はぼうっとした表情のまま頷いた。
「その大ちゃんに、電話がかかっている。船木美和さんから」
部屋の入り口で足を止めていた斗真が近づいてきた。スマホをスピーカーフォンに切り替えて、音声を部屋中に聞こえるようにする。
「船木さん、どうぞ。お兄さんに話しかけてください」
『もしもし、お兄ちゃん? どこにいるの? 大丈夫なの?』
百合子がいぶかしげに斗真に尋ねる。
「だれからの電話ですって?」
「船木美和さんですよ。知っているでしょう」
「ええ。画廊の受付の女性でしょう」
『お兄ちゃん! 返事してよ!』
大吾はぼうっとしたまま、斗真がかざすスマホに目を向けた。
『お兄ちゃん、聞いてる!?』
「聞いてる……よ」
大吾がぽつりとこぼした言葉に、百合子が眉を吊り上げた。
「大ちゃん? 何を言っているの?」
「何を……言っているの?」
大吾は百合子の言葉を繰り返した。百合子はほっとしたようで、元のような微笑に戻った。
「いやだわ、大ちゃんたら。真似っこして遊んでるのね」
『お兄ちゃん! どうしちゃったの? しっかっりしてよ!』
「……しっかりしてる」
百合子が口を挟もうとしたが、さゆみが掴みかかっていった。百合子を押し倒して口をふさごうとするが、百合子は抵抗して顔の前で手を交差させた。二人は床を転がって揉みあう。
「大ちゃん! 大ちゃん、助けて!」
呼ばれた大吾はぼんやりとした目で取っ組み合っている二人を見た。途端に目に光が戻った。
「百合子さん!」
叫んで駆け寄り、さゆみを突き飛ばした。
「百合子さん、百合子さん、大丈夫ですか!」
大吾に手を引かれて、百合子はぼろぼろと涙をこぼしながら起き上がった。
「大ちゃん、ああ、大ちゃん、ありがとう。私を守ってくれて」
「当然ですよ。俺は百合子さんの……、百合子さんの……」
大吾は百合子から手を離した。額に手を当て、考え込んだ。
「百合子さんの……なんだ?」
「大ちゃんは私の……」
「船木大吾さん!」
百合子の言葉を、さゆみが大声で遮った。
「あなたは、船木大吾さん! それ以外の何者でもない! しっかりして!」
大吾はもうろうとした状態に戻ってしまおうとしているようで、視線がフラフラと揺れている。斗真が大吾の手にスマホを持たせて無理やり耳に当てさせた。
「駄目よ、大ちゃん! 聞いちゃ駄目!」
百合子が大吾に手を伸ばしたが、さゆみは抱きついて止める。
『お兄ちゃん! お兄ちゃん!』
スマホから聞こえる声に、大吾は反応したようだった。スマホを両手で握って、耳に押し当てる。
「美和」
『お兄ちゃん! どうしたの! 何があったの、無事なの?』
「……ごめん、美和」
そう言うと、大吾は電話を切った。床にスマホを投げ捨てると、再びさゆみに近づいていく。
「おい! やめろ!」
斗真が大吾の肩を掴むと、大吾は床にへたり込んだ。起き上がろうともがいているが、力が入らず立ち上がれないでいる。
「大ちゃん! 助けて、大ちゃん!」
「お姉ちゃん……、お姉ちゃん……」
うわごとのように、大吾はつぶやき続けた。