背中 にじゅうしち
通風孔にやっと変化があったのは、進みだして十五分も経った頃だった。行く手を遮る鉄格子に突き当たった。いくつもの蜘蛛の巣が張っている。ジョロウグモだ。芸術のように美しい編み目の巣の中心に黄色と黒の縞模様の蜘蛛が見張り番のようにじっと止まって、さゆみを見ていた。
蜘蛛の巣がないところを掴んで前後左右に揺すってみたが、びくともしない。鉄格子の、きれいに並んだ鉄の棒は直径が二センチはありそうな、頑丈で重そうで、切ることはとても無理だと思えた。
あきらめて戻ろうとしたとき、通風孔の奥から声が聞こえてきた。か細い声だが、
高坂百合子のものに間違いない。両手で鉄格子にしがみついて耳をすませる。
「あなたは私のもの。私がいないと生きていけないの。私だけが、あなたの命。ね、大ちゃん。そうでしょう」
大吾の声は聞こえない。ただ、百合子が何度も何度も、呪文のように繰り返す声だけがする。
「あなたは私のもの。私がいないと生きていけない。私だけが、あなたの命……」
あまりにも美しい声にさゆみは、ぞっとした。有無を言わさぬ強制力を感じる。感情をなくしてしまって、この声だけを聞いていたいと思ってしまうような気もちになる。
逃げなければ。
ここに居続ければ、囚われてしまう。逃げられない、どこにも行けない、蜘蛛の巣にかかった羽虫のように。
さゆみは大吾の声が聞こえないか、もう一度、耳を澄ませた。しかし聞こえるのはやはり百合子の声だけで、その声は甘く脳髄をとろかそうとしていた。
頭を一度、ぶるりと振って、さゆみは後退し始めた。作業着の裾がめくれて胸のあたりまでずりあがってくる。動きにくい。だが、必死で動いた。一刻も早く逃げなければ。
声は執拗にさゆみを追って来た。するどい爪を伸ばして、さゆみを一突きにしようとしている。
足許から吹いてきていたはずの風が、通風孔の奥から吹いてくる。風の向きが変わるはずなどないのに。その風に乗って百合子の声が追いかけてくる。どこまでも、どこまでも。
ふいに、真っ暗になった。スマホの電池が切れたのだ。さゆみはスマホを振ってみた。だが、そんなことをしてライトがつくわけもない。
視界を奪われると、百合子の声は、ますます聞き取りやすくなった。まるで耳元でささやかれているように錯覚する。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。
気もちは焦るのに体は、ほんの少しずつしか動かない。まるで、蜘蛛の糸にかかって引っ張られているような。
その糸を振り払うように、さゆみはぎゅっと目をつぶって首を振った。
「加藤田! 大丈夫か!」
通風孔から、にゅっとさゆみの足が見えて、思わず斗真は叫んだ。ごそごそと少しずつ、さゆみの体が出てきた。埃であちらこちら真っ黒に汚れて、服はよれて天井裏で大暴れでもしたかのような様相だった。
通風孔から完全に出てきたさゆみは、梯子に抱きついて、肩で息をしている。下から見ていてもわかるほど、ぶるぶると震えていた。
「加藤田! どうしたんだ」
斗真は思わず梯子に足をかけ上り始めた。さゆみは梯子に抱きついたまま「大丈夫です」と弱々しい声で呟いて、ゆっくりゆっくりと下りはじめた。
震える手で、足で、不安定に下りてくるさゆみを支えられるように斗真は地面に足をつけて手を上に差し上げた。さゆみはゆっくりとではあったが、自力で地上まで下りきった。
斗真がさゆみの肩を抱く。さゆみは斗真の腕にすがりついた。震えが止まらない。
「何があったんだ?」
「『背中』が捕まった」
「捕まった?」
「捕獲された。食べられちゃう。助けなくちゃ」
さゆみが何を言っているのかわからなかったが、とにかくここにいてはいけない。斗真はさゆみを支えて森を抜けて塀際まで連れて行った。
梯子を取りに戻ろうとすると、さゆみが斗真の腕を引っ張った。
「大丈夫だ、加藤田。すぐに戻る」
「聞いちゃだめ」
「聞くって、何を?」
「百合子の声を。もし聞こえたら、すぐに逃げて」
さゆみの瞳は恐怖に揺れていたが、断固とした口調は切迫した状況をよく伝えていた。斗真が頷くと、さゆみはやっと手を離した。
斗真は無事に梯子を抱えて戻ってきた。塀を乗り越えて道路に下りた途端、さゆみは気を失った。
目を覚ますと、さゆみは病院のベッドに寝ていて、点滴を受けていた。そばには誰もいない。頭を起こして自分を見下ろすと、作業着ではなく、病院の患者衣を着せられていた。
点滴液は透明で、一体何が注入されているのか全くわからず、不安になった。腕から点滴チューブの中ほどまで血液が逆流していた。
真っ赤なチューブにつながれて、さゆみは命を吸われているような気分になった。このまま放っておいたら、吸い尽くされて干からびてしまうような気がして、腕からチューブを引き抜こうとした。
「あ、加藤田さん。目が覚めたんですね」
ベッドを囲んでいるカーテンを開けて看護師が入ってきた。
「良かった。今、先生を呼んできますから、待っていてくださいね」
「あ、あの」
「はい」
「今、何時ですか」
「午後四時です。加藤田さんが倒れてから丸一日経っています。ご家族もいらしてますよ。お呼びしますね」
看護師が去って行く。
「丸一日……」
さゆみは呆然と自分の腕を見下ろした。
田舎から出てきた母は、さゆみの顔を見て、声をあげて泣いた。申し訳なさと共に自分がどれだけ危険なことをしているのかを実感した。
栄養失調と極度の疲労だけで、一通り検査を受けたが、病気があるわけではないだろうということ、翌日、退院ということになった。
「今日、帰りたいんですけど」
医師に言ってみたが、隣にいた母の大反対を受けて、大人しく病室に戻った。
診察室から戻ると病室に斗真がやってきていた。さゆみの顔を見ると、ほっと息を吐いた。
「加藤田、大丈夫か」
さゆみが答えるより早く母が、深く深く頭を下げて何度もお礼を言う。恐縮した斗真と母がしばらく話している間に、さゆみは点滴がぶら下がったポールを転がしてベッドに戻って座り込んだ。帰りたいという気持ちはあるが、体はまだ休息を必要としているようだった。
母が気を利かせたようで、いつの間にか姿が見えなくなっていた。さゆみはベッドサイドに立つ斗真を見上げる。
「柚月さん、高坂百合子は大丈夫でしょうか」
「ああ。船木さん、あの画廊の受付の女性に、何かあったら連絡をくれるように頼んである。彼女から船木大吾にも、高坂百合子にも連絡をしているが、返事はないらしい」
「急がないと……。間に合わなくなっちゃう。助けないと」
「なあ、そんなに危険だとは、俺には思えないんだ。高坂百合子も普通の女性だし、船木大吾は自分から彼女について行った。誘拐でもないし、監禁と言ったって、本気を出せば、あの体格差だ。いくらでも逃げ出せるだろう」
「そういうことじゃないの。そういうことじゃないのよ。あの女は蜘蛛なの」
「蜘蛛?」
「周到に糸を張り巡らせて、逃げられないように、毒を含ませるの。甘くて美しい毒を。『背中』たちは自分から、百合子に身を任せたのよ」
「なんでそんなことがわかるんだ」
「私も同じだからよ」
さゆみの目には通風孔で見た鉄格子が見えていた。自分をとらえて、糸を絡めて、捕食しようとしていた百合子の声が聞こえた。あそこへ戻りたい。恐ろしいという気持ちより強く、そう思った。
けれど、理性で、それをぐっと押さえ込んだ。
「私も見たの、高坂百合子の蜘蛛の巣を。あれに捕まったら、二度と逃げられない。二度と」
斗真は戸惑って何か反論すべき言葉を探したが、さゆみの尋常ではない様子に、理由のない不安が浮かんでくることに気付き、黙り込んだ。
「とにかく、今は休むしかないだろう。百合子の家は俺が見張っておく。ちゃんと寝るんだぞ」
斗真はさゆみの肩をポンと叩いて病室を出て行った。