背中 にじゅうろく
「おい、おい、おい、加藤田! 正気か!」
「静にしてください、人目をひきます」
さゆみは2トントラックをレンタルして、作業着を取り扱っている店とホームセンターをはしごした。
水色の上下そろいの作業着を二着、黄色いヘルメットを二個、伸び縮み出来る二連式の梯子を一脚、工具セット、電動ドリル、折り畳み式ノコギリ、ガラス切りなど、工務店を始めたいのかと問いたくなるような品々をそろえた。
さゆみは百合子の邸に沿って脇道に入り、梯子を高く伸ばしていた。水色の作業着は斗真とお揃いで、さゆみはきっちりとヘルメットをかぶっていたが、斗真は手に持つだけで戸惑っている。
さゆみは工具箱からドライバー、ペンチ、釘抜きなど、作業着に詰め込めるだけの工具を突っこんだ。
「冗談だろ、加藤田」
さゆみは斗真の言葉を無視して梯子をコンクリートの塀に立てかける。梯子の頂上から塀のてっぺんまでニ十センチ。安定するちょうどいい高さだ。
「柚月さん。帰りますか?」
さゆみは作業着の腰に折りたたんだ小型ノコギリをぶら下げながら斗真に確認した。
「加藤田が帰るなら、俺も帰る」
「じゃあ、梯子を押さえていてもらえますか」
はっきりと「帰らない」とは言わないことで、さゆみの本気の度合いが知れた。斗真は否応なく加担させられた。諦めたようにため息を吐いてヘルメットをかぶると、さゆみが上り始めている梯子をグラつかないように押さえた。
さゆみが梯子を上りきり、塀の向こう側を覗いた。きょろきょろと周囲を確認して、塀の上に上りきってしまう。
「どうします、来ますか?」
冷静な口調でさゆみに問われ、斗真はじっと、さゆみの顔を見上げた。さゆみは返事を待たずに梯子に手をかけて、引き上げ始めた。
「待て、俺も行く」
斗真はすいすいと梯子を上った。塀は幅三十センチほどはあり、立ち上がるには十分な広さがある。周囲を見渡し、人目がないことを確かめてから、梯子を引き上げ、庭の方に下ろす。斗真が先に立って下りた。
塀の中は森のように木々が茂っていて、薄暗い。さゆみも下りてきて、梯子を縮める。斗真が受け取って担いだ。
「犬を放し飼いにしたりしていないだろうな」
キョロキョロしている斗真に答えることなく、さゆみは建物を見上げながら歩きだした。その無防備すぎる歩き方に斗真は小さな声で苦言を呈した。
「おい、加藤田。もう少し注意して動かないと見つかるぞ」
「べつに、かまいません。高坂百合子に見つかったところで、痛くもかゆくもありませんから」
「不法侵入したのを見つかるのは、かなり痛いことだと思うぞ」
「柚月さん」
さゆみがぴたりと足を止めた。
「なんだ? 反論があるのか?」
「あれ、模様じゃなくて穴ですよね」
さゆみが指さす壁の上部には四角い穴が開いている。
「通風孔かな。けっこうデカいな」
斗真が穴を見上げているのを気にせずに、さゆみは先へ進んでいく。ぐるりと建物の周りをめぐって表までやって来た。壁に四角の切れ込みが入っていて、かなり大きな鍵穴が開いている。
さゆみは試しに押してみたが、びくともしない。
「鍵がかかってるんだろうな」
こぶしを握って、力いっぱい叩いてみても、音もたたない。コンクリートが分厚すぎてペチペチと情けない音しかしない。それなのにこぶしはジンジンと痛む。
斗真も隣でコンクリートを叩いたり蹴ったりしているが、一向に音はしないし、開くこともない。
さゆみはまた、無言で建物に沿って歩いていく。ぐるりと一周して、通風孔のある壁面に戻ってきた。
さゆみは通風孔のちょうど真下になる場所に梯子を立てて、伸ばし始めた。
「おい、まさか忍び込むのか」
「もう忍び込んでいます。いい加減、腹を決めてください」
斗真はぐっと言葉を飲むと、さゆみが上っていく梯子を支えた。
通風孔は下から見上げて感じていたよりも、ずっと大きかった。さゆみが潜りこむには十分な広さがあった。
穴に嵌まっているブラインドのように廂を重ねたような形状の蓋の隙間から奥を覗いてみたが、どこまで続いているか見当もつかない。真っ暗で何も見えない。
「……うだ、かとうだ、かとうだ!」
徐々に大きくなって、やっと聞こえてきた斗真の声に呼ばれて、さゆみは下を見下ろした。斗真は口をパクパクさせて、手ぶりで下りてくるようにと伝える。
さゆみが梯子を中断まで下りたあたりで、斗真が小声で話し始めた。
「俺が入る」
「無理です。柚月さんの大きさじゃ」
「やってみないとわからないだろう。それと、声を低めろ」
「大丈夫ですよ。こんな森の中、どこにも声は響きません」
「用心ってものがあるだろう」
さゆみは最後まで梯子を下りることはせず、斗真を上からじっくりと見おろした。
「早く下りてこい、交代だ」
「用心のために、様子だけ見てきます。室内に入れそうだったら、いったん戻ってきます。それでいいですか」
そう言うと、斗真の返事も聞かず、梯子を上って行った。斗真は手を伸ばしたが、さゆみを捕まえることが出来ず、かといって梯子は二人分の荷重に耐えられるつくりではなく、追いかけることも出来ない。
心配げに、見上げつづけた。
ドライバーで蓋を止めているビスを外す。外した蓋は地面に向かって投げた。ドスンと音を立てて落ちた蓋を斗真があわてて回収している。
ぽっかり空いた穴に、試しに右手を突っこんでみたが、障害物はなさそうだった。
通風孔に上半身を突っこんで、スマホのライトをつける。ざらざらした埃だらけのようだが、見える範囲には、やはり障害物はない。匍匐前進の要領で、もそもそと全身を穴の中に引き入れた。
穴の大きさは、ほぼ、さゆみのサイズにぴったりで、両手足を自由に動かすことは出来ない。両肘をついて少しずつ体を前に引きつけていく。
念のために後ろに下がれるかも試してみた。前進するより、ずっと簡単に後退できることを確認して、安心して前に進んだ。
埃ですぐに両手も顔も真っ黒に汚れた。時おり、埃をまともに吸い込んでしまって激しくむせた。マスクを準備しなかったことが悔やまれる。
それでもなんとか進んでいくことは出来る。
ところどころに蜘蛛が巣を張っている。網目状ではなく壁や床に埃の塊のように白い糸が絡まったような形状のゴミのようなものがくっついている。触るとべたべたと手にくっついてきて、嫌な感触だった。身をよじり、出来るだけ触れないように前に進む。
スマホの電池残量を確認する。32パーセント。果たして、この穴の最奥にたどりつくまでもつだろうか。いったい、この穴はどこまで続いているのだろう。その長さの、どのくらいまで進めたのだろう。
気もちが焦る。今にも新しい『背中』が完成するのではないかと。また一人、人が消えるのではないかと。
必死に這い進むが、なかなか思うように進めない。通風孔に入ってから十分が過ぎていた。邸が広いから穴が長いのか、自分が遅くてほとんど進めていないのか、わからない。足の方から風が入って来て、行く手の方へ流れていく。寒さで指が痛み出した。
体のあちらこちらに蜘蛛の巣がべったりとくっついている。服越しなのに、その嫌な感触が伝わってくる。今すぐにでも逃げ出したい。この穴から這い出て蜘蛛の巣を全部はたきおとしたい。そんな思いをねじ伏せて前に進んだ。