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背中 じゅうろく

「加藤田、ちょっといいか」


 出勤してから一時間。朝の一番忙しい時間帯をこなして一息ついたところで、さゆみは先輩である柚月斗真に呼ばれた。

 斗真のデスクではなく、フロアの隅、パーティションで区切られたコーヒーサーバーのあるスペースに手招かれる。ほかの社員の意欲低下を防ぐために聞かせるべき話ではないということだ。あるいは、さゆみの今後の進退のために。

心当たりはある。さゆみは覚悟を決めて、歩いていった。


「まあ、コーヒーでも飲むか?」


 斗真が備え付けのプラスチックのコーヒーカップを取ろうとするのを、さゆみは首を振って止めた。


「お話しはなんでしょうか」


 斗真は天井を仰いでため息を吐いた。


「固いな。かたいなあ、加藤田。もう少し、フランクになった方がいいと思わないか?」


「必要ありません。お話しの内容はわかっていますし」


 斗真は額をぽりぽりと掻きながら、言いにくそうに言葉をこぼした。


「その、なんだ。課長からだな、伝言というか……、なんというか」


 さゆみは肩越しにちらりと課長席に視線を送る。課長はかたくなに、こちらに意識を向けないようにしているらしい。不自然に肩に力が入っている。


「私の勤務態度ですよね。有給休暇を一度に使いすぎている。遅刻も早退も多い。仕事中の集中力にも欠けるし、業績も……」


「ストップ。ストップだ、加藤田。そんなに畳みかけられたら、何も話せないじゃないか」


「でも、もう話すことはないんじゃありませんか。言うべきことは、今、私が全部、言いましたよね」


 ぐっと言葉に詰まった斗真は、それでも、さゆみから目をそらさなかった。


「困っていることがあるなら、相談に乗る。どんなことでも」


「男女関係のことでもですか」


 さゆみはポツリと呟く。斗真が目を大きく見開いた。


「男女関係のことなのか!?」


「先輩、声が大きいです。席を離れた意味がありません」


「っと、そうだな。すまん。……で?」


 斗真はそこで言葉を切り、きまり悪そうに視線をさ迷わせた。


「で? ってなんですか?」


 知らぬふりで言ってみせたさゆみの顔をチラリと見て、斗真は意味ありげに瞬きをした。言葉の先を促しているつもりなのだということはわかったが、さゆみは無視して黙っている。斗真はしばらく口を閉じたままもごもご言っていたが、思い切った様子で口を開いた。


「おい、加藤田。なんとか言ってくれよ」


「何をですか」


「悩みの内容だよ。その……、男女関係のことなのか」


 どこか苛立たし気に、小声になった斗真を、興味深く、さゆみは観察した。

 きれいにアイロンが当たったワイシャツ、いつも趣味の良いネクタイ、ハンカチもしっかり持っているところを見たことがある。

奥さんの気遣いが行き届いているのだろうと思って、いつも感心して見ている。


 左手には細めのプラチナリング。

結婚記念日には早退して手作りの料理を用意するとか、奥さんの誕生日には年の数だけ真っ赤な薔薇を買うだとか、どれも女子社員の噂でしかないが、本人も、その噂を耳にしてまんざらでもない顔をしていた。


「私の男女関係が、先輩になにか関係が?」


 斗真は軽く口を開けて、だが、なにも声にならないようで、また閉じた。口を手で覆って、俯いて何か考えている。


「加藤田」


「なんでしょうか」


「帰り、付き合わないか」


「お酒ですか」


「飲めたよな」


「飲めますが」


「聞いて欲しい話がある」


 自分の方が話を聞かれる対象だったはずなのに。さゆみは斗真の意外な切り返しに、不意を突かれた。


「はあ」


 間抜けな返事を返したさゆみを置いて、斗真は自分のデスクに戻って行った。課長がちらりと斗真に視線を向けたが、斗真はデスクに顔を向けたまま、書類を手に取った。

 斗真の意図がまったく掴めないまま、さゆみは仕事に戻った。




 終業時間を過ぎると、すぐに、斗真は席を立った。誰とも言葉を交わさず、さゆみにも無関心な様子でロッカールームに向かっていく。さゆみは、あわてて自分の仕事を片付けて、斗真の後を追った。

 コートを羽織る間もなく社外に出ると、斗真は会社のすぐ目の前の歩道の真ん中に立っていた。さゆみを待っているようには見えない。じっと、歩道を睨みつけている。


「……お待たせしました」


 何というべきか、一瞬悩んだが、さゆみは無難な挨拶を投げかけた。斗真は顔を上げずに「じゃあ、行こうか」と呟いて歩きだした。


 後をついていくさゆみのペースを考えていないようで、斗真は大股でどんどん進んでいく。さゆみは小走りに追いかけて、追いついた時には店についていた。

 いつかランチに来たサバ料理の専門店だった。


 暖簾をくぐっても「いらっしゃいませ」という声もない。斗真は慣れた様子で奥の小あがりに落ち着いた。さゆみも続いて靴を脱ぐと、すぐに女将がやってきた。客が入ってきたことには気づいていたのかとホッとした。

ビニール袋を破ってお絞りを出しながら斗真に目をやったが、斗真は卓を見つめて何かを考えている。

 何かを思いつめた様子に、さゆみも居住まいを正し、斗真が喋りだすのを待った。


「聞いて欲しいことがある」


 斗真は一度、口を開いたのだが、また黙り込んでしまった。その間に女将が注文を聞きに来て、それでも斗真が動かないので、さゆみがビールを注文した。

 そんなことも気づいていないのかと思っていたが、ビールがやって来ると斗真が一気にビールをあおったので、さゆみは呆れて待つのをやめた。


「なんですか。私に辞職勧告でもするんですか」


 斗真は首を横に振った。


「好きだ」


 ぽつりと斗真の口から出た言葉は、唐突で、すぐには意味がわからなかった。さゆみは眉をひそめて黙っていた。


「俺は、加藤田が好きだ」


「先輩、愛妻家じゃなかったんですか」


 さゆみは感動のこもらない声で言葉を返した。斗真は深く頷いた。


「俺は妻を愛している」


「それで?」


「加藤田」


 斗真が顔を上げた。目が真っ赤で、今にも泣きだしそうだった。


「妻に会ってくれないか」


 さゆみはあっけに取られて、なんとも返事が出来なかった。





 斗真の自宅は小奇麗なマンションの一室だった。斗真がカギを開けて、さゆみを招いた。部屋の中は温かく、廊下にもその先の部屋にも明かりがついていた。

 けれど斗真は「ただいま」も言わずに奥へと進んでいく。


「……おじゃまします」


 さゆみは斗真に聞こえるか聞こえないかの小声で呟いて靴を脱いだ。


 廊下の奥はリビングだった。十畳もあるだろうか。広くて、掃除が行き届いていて、明るくて、なにか懐かしい香りがした。

 この奇麗な洋室には似合わない古風な香り。何だっただろうと考えていると、斗真はリビングから左の部屋に続く引き戸を開けた。


 その部屋には明かりがついていない。もしかして寝室だろうか。早い時間だが、斗真の妻はもう就寝していたのだろうか。

 さゆみは斗真の意図が読めずにうろたえて、開いた戸から部屋の中が見えないところまで後ずさった。斗真は静かに部屋に入って行き、電気をつけた。


「加藤田、俺の妻だ」


 呼ばれて、そっと、開いた戸の陰から顔を覗かせると、部屋の奥に大きな仏壇があった。若くて美しい女性の遺影が飾られている。懐かしいと思っていたのは線香の香りだった。気付くと、急に香りが強くなった気がする。


「妻の恵奈だ。三年前に亡くなった」


「えっ……。だって、先輩、愛妻弁当……」


 斗真は顔を伏せてしまって表情がわからない。


「妻が作ってくれていた料理のレシピは全部、書き残してあるんだ。彼女の死は突然じゃなかったから。俺は彼女の生きていた証をなぞって、彼女の影をたどって、やっと生きてきたんだ。彼女がいない世界は俺にとっては意味がなくて」


 斗真は顔を上げない。さゆみは何故か、その表情がわかるような気がした。斗真と同じ顔を、何年も、鏡の中に見続けていたような気が。

何も言わず、黙って聞いていると、斗真はぽつりぽつりと言葉を切って話していく。


「彼女のために、料理をするんだ。毎日、二人分。そうして、テーブル越しに話しかけているんだ。気付いたら、俺は独りで、恵奈がいないことに、打ちのめされる。毎日だ。毎日、俺は恵奈を失い続けるんだ」


 斗真の声は無機質で、どこかいびつで、踏みつぶされて原型をとどめていないペットボトルを思わせた。


「加藤田。俺はまた生きたいと思うんだ。お前の力になれたら、俺は生き返れるような気がする。何故か、そう思うんだ」


 さゆみは一歩、斗真に近づく。斗真が顔を上げた。昼間の顔からは想像できない、蝋人形のように血の気のない、力のない表情だった。


「先輩、私も、影をたどって、打ちのめされ続けて、生きているんです。私は、ずっと探し続けているんです。あの人を取り戻すために」


 さゆみの視線を斗真はまっすぐに受け止めた。


「話を、聞いてもらえますか」


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