背中 じゅうし
さゆみは百合子の尾行に手間取っていた。新しい『背中』が完成したのだ。早くしなければ次の『背中』を百合子が見つけてしまうかもしれない。
年齢が、合わないのだ。
百合子の『弟』が大基と同い年だという設定なのだとしたら、二十五歳でないとおかしい。なのに、今回、完成した『背中』は二十三歳なのだ。二年前に完成されておくべきだったもののはずだ。
百合子は、すぐに次の、二十五歳の『背中』を見つける。さゆみは確信していた。なぜ自分がそんなことを思うのかわからないが、間違いないと自信を持って言えた。
大基が消えてから、百合子を追い続けたのだ。今では誰よりも百合子のことを知っている。
百合子が出かける場所、出かける時間、通る道。どれもあまさず把握している。そのために、仕事も休みやすい会社を選んだし、生活のほとんどを、百合子を尾行することに使っていた。
その経験をもってしても、今回の百合子の神出鬼没ぶりには振り回されている。百合子の自宅である、元、橋田坂下のアトリエだった家には近寄れない。百合子のストーカーとして接近を禁じられてしまったのだ。それでも、その家から駅までのルートはチェックしているし、どの道を通るのか勘が働くようになっていた。
だが、その勘の裏をかいてきているようで、百合子をとらえきれない日が続いた。焦って、接近禁止令を無視して百合子の家に近づいてしまった。ちょうどその日、『背中』が搬出されたのだった。
百合子と美和が家から出てきて、『背中』を積載したトラックの後をタクシーで追っていくのを見た。
すぐに画廊に向かったが、そこに百合子はいなかった。『背中 二十三歳』がさゆみを待っていた。たしかに、その絵はさゆみに語りかけていた。なぜ助けてくれなかったのか、と。
もう、時間がない。接近禁止なんか、かまっていられない。百合子の家に乗り込もう。そうして、力づくで百合子を止めよう。たとえ、私がどうなっても。
百合子の家の門の前で、鉄扉をよじ登ろうと手をかけた時、呼び止められた。
「加藤田さゆみ、迷惑防止条例違反の現行犯だ」
振り返ると、ぼろぼろのジーンズ姿の男が立っていた。
「一緒に来てもらおうか」
尻ポケットから警察手帳を出してみせた男に逆らうことなど出来ない。さゆみは唇を噛んだ。
男はなぜか警察署に向かわず、近所に一件だけある喫茶店に向かった。
「食えよ。あんた、まともにメシ食ってないだろ」
男はさゆみの意見も聞かず、ブレンドコーヒーとミックスサンドを二つずつ注文した。さゆみは目の前に置かれたサンドイッチを見て、眉間にしわを寄せた。
「腹が減ってなくても食べておかないと、この先、もたないぞ」
男の顔を見上げる。言っていることがわからない。けれど、どうやら、さゆみを逮捕するつもりではなさそうだった。
男の言う通り、さゆみはもう二日、まともな食事をとっていなかった。百合子を尾行するために会社を休み、短期決戦のつもりで眠りもせずに百合子宅を見張っていたのだ。
コーヒーのカップを両手で包んで一口飲んだ。凍えきっていた身体にゆっくりと熱がいきわたる。とたんに、空腹を感じた。サンドイッチに手を伸ばして齧りつく。噛む間もなく飲み込む。つぎつぎにサンドイッチを頬張り、ろくに噛まずに食べ終えて、コーヒーを一気に飲み干して、やっと人心地ついた。
「あんた、この男を知ってるだろ」
刑事が差し出した写真の男を、もちろん、さゆみは知っていた。
「高橋大佑。高坂百合子のモデル」
「そうだ。家族から捜索願が出された」
大佑は二か月ほど前から百合子宅に入ったまま出てきていない。大基の時と同じだ。百合子のモデルになった男は、いなくなる。
「あんたは、あの女のストーカーとして通報された。けどな、俺はあの女の方が通報されるべきだと思っている」
「なんの罪で?」
刑事はさゆみの顔をじっと見つめた。さゆみは目をそらさず、睨むように見返した。
「誘拐罪だ」
さゆみは、ふうっと息を吐いた。体中の力が抜けた。椅子に深く背を預け、両手で目を覆った。驚きで手が震えて止まらない。
いたのだ。自分以外にも、あの女を追っている人間が。
「あなたは、どこまで知っているの」
さゆみの問いに、刑事は答えず、自分の前に置かれたミックスサンドに向き合った。
「とりあえず、飯を食う時間をくれ。俺も昨日から食えてないんだ」
さゆみは、ゆっくりとうなずいた。時間はない。けれど、時間をかけて考えなくてはならない。『背中』のことを、刑事に伝える言葉を、さゆみは探さなければならないのだから。